第四章 糸はそこにあった

第20話 ……ありがとう……

 あのカオスな夏合宿から一ヶ月。 コンクールに応募した俺たちの『恋愛(?)』小説は、案の定、全員そろって一次選考で落選した。


(黒江先輩いわく、「審査員が、我々の提示した『心の動き』の合理的解釈に失敗した」らしい)


 そんなわけで、9月。新学期が始まった文芸部室には、どこか微妙な空気が流れていた。 夏合宿での一連の事件のせいか、以前のようなただの『文豪ごっこ』とは少し違う、奇妙な緊張感が漂っている。


 その日、俺たちの前に新たな『現実』が突きつけられた。 3年生の先輩たち(津島・楯野・風見)に、「進路調査票」が配られたのだ。


「『進路』 。結構だ」


 楯野先輩は、その紙をなぜか両手で高々と掲げている。


「我が『情熱』を注げる『行動』の場。それこそが我が進路だ!」


 ……どうやら、大学を戦場か何かと勘違いしているらしい。


「やれやれ」


 風見先輩は、調査票を眺めながら、いつもの調子で肩をすくめている。


「どの井戸を掘るか、そろそろ決めなくちゃならないってわけだ」


 ……この人はこの人で、多分もう決めているんだろう。


 だが、一人。 津島先輩だけが、机の上に置かれた真っ白な調査票を前に、まるで『人間失格』の主人公のように絶望していた。


「……しんろ……」


 彼女の指先が、震えながら紙の上をさまよう。


「……私なんかに、未来なんて……あるのかな……。……ごめんね、こんな暗い先輩で……」


「そんなことないですよ」


 俺は、その消え入りそうな声に、思わず口を挟んでいた。


「え……?」


 津島先輩が、驚いたように顔を上げる。


「津島先輩、合宿の時、『彼岸花との心中』書いてたじゃないですか」


 俺は、あの時読んだ原稿を思い出す。内容はともかく(?)、その一点だけは、妙に印象に残っていた。


「情景描写、俺は結構好きでしたよ。読んでて、ゾクッとしました」


「……え……?」


 津島先輩の目が、わずかに見開かれた。


「あ、あんな……。……誰も、褒めてくれないような……」


 彼女は、信じられないという顔で、俺と原稿用紙を交互に見る。


「……でも、軽井沢くんが……好き、って……」


 何気ない『肯定』の言葉。


「……っ」


 津島先輩は、まるで予期せぬ場所から殴られたかのように、息を飲んだ。

 みるみるうちに、その青白い顔に、じわりと赤みが差していく。

 彼女は、俺から視線をそらすと、手元にあった真っ白な「進路調査票」を、まるで何かに耐えるかのように、両手でぎゅっと握りしめた。


 ◇


『美緒。お前は津島家の長女なんだ』

『常に完璧でいなさい。常に優秀でいなさい。常に美しくいなさい』

『それが、お前の義務だ』


 津島の父親は、いつもそう言った。


『まあ、美緒ちゃん。またそんな暗い顔をして』

『そんな服は『美しくない』わ』

『そんな表情も『美しくない』わ』

『あなたが悩むことなど、何もないでしょう?』


 母親は、いつもそう言って笑った。


 彼女自身の弱さも、悩みも、暗い感情も、すべて美しくないものとして捨てられた。


 テストで二番になった時。

『完璧ではない。美しくない』

 ピアノの発表会で小さなミスをした時。

『津島家の恥だ。美しくない 』


 学校の人間関係に悩み、初めて「辛い」と漏らした時。

『辛い? あなたが?』

『すべてを与えられているあなたが、辛いなどと言うのは……あまりに、美しくない』


 だから、彼女は『太宰』に逃げ込んだ。

『斜陽』や『人間失格』に描かれた、どうしようもない「弱さ」や「ダメさ」。 世間から「美しくない」と断罪される、その暗い感情こそが、彼女にとって唯一の仲間だった。


「どうせ私なんて」

「生きててごめんなさい」


 その自己否定こそが、「完璧で美しい津島美緒」を演じ続けるための、厳格すぎる現実から自分を守る、唯一の自己防衛だった。


 誰も、彼女の作品そのものを見てくれなかった。 『文豪ごっこ』として笑うか、『津島家の娘』として「そんな暗いものはやめなさい」と更生させようとするか、そのどちらかだった。


 だからこそ。 今、目の前のこの後輩(編集長)が、何の偏見もなく、ただ「俺は結構好きでしたよ」と、彼女の『作品(こころ)』そのものを――彼女が「美しくない」と否定され続けてきた暗さそのものを――肯定した言葉は、彼女がこれまで築いてきた強固な鎧を貫通する光だった。


 ◇


 津島先輩の肩が、かすかに震えているのが見えた。


(……え、ヤバい。怒った? 「好き」とか、なんか失礼なニュアンスだった!?)


 俺が、地雷を踏んだのではないかと冷や汗をかいていると、津島先輩は、ゆっくりと顔を上げた。


 顔は、赤いままだった。 そして、その大きな瞳には、うっすらと涙の膜が張っていた。 彼女は、怒っているのではなかった。 泣きそうで、でも、困ったように……嬉しそうに、笑おうとしていた。


「……うそ……」


 か細い声が、震える。


「……そんなこと、言われたの……初めて、かも……」


「え、あ、いや……」


「……ごめんね……」


 彼女の目から、ぽろ、と大粒の涙がこぼれ落ち、調査票の上に小さな染みを作った。


「……嬉しくて……。私なんかが、嬉しくなっちゃって……ごめん……なさい……」


「うわっ!? え、なんで泣くんですか!?」


 俺は、予想外すぎる反応に、盛大にあたふたした。


「俺、なんか地雷踏みました!?すみません!」


「……ううん……。逆……」


 彼女は、泣きながら、それでも俺をまっすぐに見つめて言った。


「……ありがとう……」


 嬉しくて泣いている。 でも、癖で「ごめんなさい」と謝ってしまう。俺は、そんな姿に、どうしていいか分からず、ただ「あ、えっと、ハンカチ……」と、意味もなく自分のカバンを探るしかなかった。

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