第18話 きわめて非合理な遭遇だ!

『模擬デート』という名の取材が終わった、合宿二日目の夜。夕食を終えても、誰一人として『恋愛』の原稿は進んでいなかった。


「ダメだ!」

 広間の重い空気を切り裂いたのは、またしても楯野先輩だった。

「『情熱』が足りない!」


そう叫ぶと、彼女はガサガサとビニール袋を漁り、民宿のお婆さんからいつの間にか貰ってきた、手持ち花火のセットを取り出した。


「これぞ『刹那の美』だ」


 楯野先輩は、花火の束を高々と掲げ、月に向かって宣言する。


「『愛』も『生』も、この花火のように、一瞬の輝きにこそ『情熱』がある。我々は今からこの『虚構』の輝きを取材する!」


 乗り気な楯野先輩と、それに仕方なく付き合う俺。そして、風見先輩。


「やれやれ」


 風見先輩は、バケツに水を汲みながら、クールに呟いた。


「夏の夜と花火。完璧な組み合わせだ。完璧な穴のあいたドーナツみたいに、文句のつけようがない」


 だが、全員が参加するわけではなかった。


「僕は遠慮する」


 黒江先輩は、民宿の縁側から一歩も降りようとせず、腕を組んでいる。


「……火の粉は苦手だ」


「……私も……いいや……」


 津島先輩も、黒江先輩よりさらに遠い、広場の隅の日陰に座り込んでいる。


「……花火、熱いの苦手……だし……」


 結局、乗り気な楯野先輩と、傍観者の二人、そして火消し役の俺と風見先輩という構図で花火大会が始まった。


 ヒュ〜〜、パン!


 楯野先輩が、まるで何かの祝砲のようにロケット花火を次々と打ち上げている。その様を、風見先輩がバケツの横でクールに眺めている。

 ……あの二人はあの二人で完結しているな。


 俺はその隙に、袋の底に残っていた線香花火の束を手に取った。

 そして、広場の隅、民宿の明かりすら届かない日陰に座り込んでいる、津島先輩の隣にそっと腰を下ろした。


「……津島先輩。これやりません?線香花火。これなら危なくないし、熱くもないですよ」


 俺がロウソクの火と共に差し出すと、津島先輩は、暗闇の中でかすかに顔を上げた。


「……いいの? 私なんかが……」


 その声は、花火の音にかき消されそうなほど小さい。


「……きっと、すぐ消えちゃうよ……」


「まあ、それが線香花火ですから」


 俺は黙って一本に火をつけ、彼女に渡す。 津島先輩は、おずおずとそれを受け取った。


 パチ、パチチ……。


 闇の中で、小さな火花が、はかない松葉を描く。


「……綺麗……」


彼女が、ぽつりと呟いた。


「……でも、ほら……」


 彼女がそう言った瞬間。 それまで懸命に輝いていた火の玉が、重力に負けたように、ポトリ、と音もなく落ちた。


「……消えちゃった」


 津島先輩は、まだ煙を上げる先端を見つめている。


「……なんだか、私みたい……」


「消えるから綺麗なんじゃないですか?」


 俺は、ありきたりなフォローを口にした。


「それに、ほら、まだこっちが残ってますよ」


 そう言って、当たり前のように新しい花火を差し出す。

 だが、津島先輩は、新しい花火を受け取らなかった。


 彼女は、暗闇の中で、じっと俺の顔を見つめていた。


「……軽井沢くんは、優しいね……」

「え?」

「私なんかに……。そんなふうに、次をくれるんだ……」


 その瞳は、いつもの虚ろな色とは、少しだけ違って見えた。


「……ねえ」


 彼女は、何かを決心したように、小さな声で続けた。

「……もし……もし私が、黒江みたいな、文学を語れるヒロインだったら、君は……」


「え?」


 俺が、その唐突な問いの意味を理解できずに聞き返すと、津島先輩は、はっと我に返ったように、慌てて顔を伏せた。


「……ううん。なんでもない。ごめんね、変なこと言って……」


 俺は、かける言葉が見つからないまま、自分の手元で燃え尽きようとしている線香花火を見つめていた。


 ◇


 線香花火の煙たい匂いを洗い流すため、俺たちは順番に風呂へ向かうことになった。


 俺は、一足先に男子風呂(民宿なので、こぢんまりとした家族風呂サイズだ)を終え、さっぱりとしたTシャツ短パン姿で廊下に出た。


「……さて、コーヒー牛乳でも買うか」


 脱衣所のすぐ近くにある、年代物の自販機コーナーに飲み物を買いに来る。


 カラン、コロン……。


 ちょうどその時。 すぐ隣の、女湯の暖簾が揺れ、下駄の音が響いた。


 風呂上がりの、黒江先輩が出てきた。


「「……あ」」


 俺は、息を飲んだ。

 彼女は民宿に備え付けの地味な紺色の浴衣を、いつもの制服のようにきっちりと着こなしていた。

 だが、その雰囲気は、いつもとまったく違った。


 合宿中ずっと結んでいたポニーテールは解かれ、洗ったばかりの濡れた黒髪が、白い肩にかかっている。 湯上がりで火照った頬は、かすかに赤らんでいた。

 きっちりと合わせた浴衣の襟元から覗くうなじが、やけに色っぽくて、俺は思わず目を奪われた。


(……ヤバい。めちゃくちゃ、綺麗だ)


 そして、その彼女の手には――なぜか、湿気で少しふやけた『恋愛心理学入門』の本が握られていた。


(風呂にまで持ち込んでたのかよ!?)


 鉢合わせ。二人きり。しんと静かな廊下。 自販機のモーター音だけが、やけに大きく響く。


「ひゃっ……!?」


 俺の存在に気づいた黒江先輩が、素っ頓狂な悲鳴を上げた。


「うわっ!せ、先輩!?お、お疲れ様です……」


 黒江先輩は、俺のラフなTシャツ姿と、自分の湯上がりの浴衣姿を交互に見て、一気に顔が沸騰した。

 その赤さは、もう湯上がりのせいだけではない。


「な、な、な、な、何故きみがここに!?合理的説明を!」

「いや、自販機ですけど!?」

「非合理だ!きわめて非合理な遭遇だ!」


 黒江先輩は、あまりの動揺に完全にパニックを起こしていた。 そして、次の瞬間。 持っていた『恋愛心理学入門』の本を、まるで盾にするかのように、俺の胸にドン!と押し付けた。


「うわっ!?」


 俺は、突然押し付けられた湿った本の冷たさに、変な声を上げた。


「……あ、あ、ああ……」


 黒江先輩は、俺の胸に本を当てたまま、カチコチに固まっている。 完全に思考がショートしている。


 彼女は、真っ赤な顔で俺を睨みつけたまま数秒間フリーズした後―― ハッと我に返り、俺が本を持っているのも構わず、脱兎のごとく踵を返した。


 カランコロンカランコロン!!


 下駄の音を浴衣がはだけるのも構わずに激しく鳴らし、彼女は女子部屋へと走り去っていった。


「……」


(これ、電車で読んでた本と同じ大きさだな……)


 俺は、胸に押し付けられた、湿った『恋愛心理学入門』の本を持ったまま、その場に呆然と立ち尽くしていた。


 ◇


 あっという間に、合宿最終日の夜。

 民宿の広間には、この二泊三日の『取材』の成果を発表すべく、最後の執筆タイムが設けられていた。

 ……とはいえ、昨夜の花火と風呂場での一件以来、俺と黒江先輩の間には、これまでで最も非合理的な、気まずい空気が流れていたが。


「……できた。……燃え尽きた……」


 机に突ッ伏した津島先輩の手元には、『私とデートしてくれた彼岸花との心中』と題された、読む前から『死』の香りがする原稿が置かれている。


「『模擬』から『真実』が生まれた。『カフェ店員との情熱的な決闘』、これぞ我が『美』だ!」


 楯野先輩は、なぜかカフェ店員と戦った、相変わらずのカオスな小説を掲げて満足そうだ。


(……うん、先輩たちは平常運転だな)


 俺は、自分のほぼ白紙の原稿から目をそらし、広間の隅で一人、真剣な顔で万年筆を走らせている黒江先輩へと視線を移した。


「……先輩、どうです、書けました?」


 俺が、恐る恐る声をかけながら覗き込むと、黒江先輩の肩がビクッと震えた。


 彼女の手元にある原稿用紙。 そこには、『恋愛』という単語は一切使われていなかった。


 だが、ある男女が、非合理的な状況―― 『降雨による偶発的な物理的接触』、 『暗闇における聴覚的刺激による心拍数の上昇』、 『入浴後の高温多湿な廊下での予期せぬ遭遇』 ――によって、いかにお互いの心拍数が上がり、視線が交錯し、思考が混乱するかを、やたらと理屈っぽく、小難しく『分析』した掌編小説が書かれていた。


 俺は、思わず呟いていた。


「……先輩。これ、どう読んでもただの恋じゃないですか」


 ビクッッ!!!


 黒江先輩の肩が、今度は壊れたみたいに跳ね上がった。 彼女は、火がついたように顔を真っ赤にすると、慌ててその原稿用紙をバッと裏返して隠した。


「ち、違う!」


 その声は、完全に裏返っている。


「これは『吊り橋効果』と『近接効果』における、『心の動き』の合理的分析だ! 断じて『恋愛』などという非合理なものではない!」


(……耳まで真っ赤だけどな)


 俺は、あまりに必死な彼女の言い訳に、苦笑いするしかなかった。

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