第11話 全部知ってるこの人!怖い!

 黒江先輩との勉強会を終えた俺は、まだ開いている図書館に、借りっぱなしだった本を返しに来ていた。


「……あ」


 図書館の一番奥、自習室の隅。

 そこに、異様なオーラを放つ津島先輩の姿を見つけた。 背筋はピンと伸び、姿勢だけは非の打ちどころがないほど美しい。だが、その顔は深く、暗く絶望していた。 机の上には『数学II・B』の参考書が開かれている。


 俺は、そっと声をかけた。


「あ、津島先輩。お疲れ様です。勉強ですか?」

「……あ、軽井沢くん……」


 津島先輩は、幽霊のようにゆっくりとこちらを振り向いた。


「……ううん、ごめん、静かにして……。私みたいなのが、こんな無機質な数字の羅列を理解できるはずないのに……、ごめんなさい……」

「いや、そんなことは……」

「sin、cos、tan……」


 先輩は、俺の言葉を遮るように、参考書の三角関数を虚ろな目で見つめる。


「こんな記号、私には……。太宰が愛した女たちの名前よりも覚える価値があるのかな……」


 俺が彼女のノートをそっと覗き込むと、解答欄は美しいまでに白紙だった。 ただ、ページの隅っこに、彼女のいつもの流麗な文字で、こう書かれていた。


『美しくない』


「……でも先輩、赤点取ったら補習ですよ」


 俺は、一番効果がありそうな現実を突きつけた。


「補習室で過ごす放課後って、最高に『美しくない』んじゃ……」

「……っ!」


 津島先輩の肩が、ビクッと震えた。その発想はなかった、という顔で固まっている。


「……そうだね……。補習……」


 彼女は、わなわなと震えながら呟く。


「私、落ちぶれても、それは……」


 津島先輩は、絶望的な顔のまま、しかし、やけに美しい所作でシャープペンを握り直した。 どうやら、彼女の美学は、数学の赤点よりも、かろうじて勝ったらしい。 俺は、そんな彼女に心の中で合掌し、そっと図書館を後にした。


 ◇


 図書館からの帰り道、俺は部室にスマホを忘れてきたことに気づき、旧校舎へと引き返した。 もう誰もいないだろう、と部室のドアをそっと開ける。


「……あ」


 中に、楯野先輩が一人だけ残っていた。

 彼女は、窓際の自分の席で、物理の教科書とノートを広げ、真剣な顔でペンを走らせている。静かに集中しているようだ。


(邪魔しちゃ悪いな……)


 俺が音を立てないようにスマホを探そうとした、その時。 彼女が、教科書の一点を睨みつけ、ボソッと呟くのが聞こえた。


「……フム。『E=mc²』」


 独り言?


「……なんという宇宙の『情熱』の爆発。……これこそが、万物を司る『美』か……」


 ……やっぱりダメだった。

 彼女は、物理の教科書を相手に、見た目は冷静に、しかし、脳内では壮大な一人芝居を繰り広げながら暗記しようとしていた。静かなる情熱だ。


 俺は、呆れつつ、小声でツッコミを入れた。


「……楯野先輩、何やってるんすか。情熱、だだ漏れになってますよ」

「軽井沢か! 見たな!」


 俺の声に、先輩はハッと顔を上げる。


「フン、凡人には理解できまい。これは『情熱』による記憶定着術。赤点など、我が情熱の前では塵に同じ」


 あ、結局いつもの声になった。


「そうですか」


 と適当に返しながら、俺は彼女のノートをちらりと見た。 そこには、彼女の情熱的な筆跡で、こう書かれていた。


『E=mc³』


「……先輩」

「どうした。我が情熱に感じ入ったか」

「それ、情熱が乗っかりすぎて『3』乗になってますけど」

「……」


 ◇


 そして、運命の中間テスト前日。 放課後の部室には文芸部員全員が揃い、机に向かっていた。


 とはいえ、その様子は統一感ゼロだ。


「……はぁ。数字が、私の『美』を蝕んでいく……」


 津島先輩は、美しい顔で数学の参考書を睨み、深いため息をついている。


「……燃えろ、我が情熱。2乗だ、2乗。決して3乗ではない……」


 楯野先輩は、昨日俺が指摘した物理公式を、ブツブツと呟きながらノートに書き殴っている。


 そして黒江先輩は、俺との勉強会がよほど堪えたのか、今日は俺に一切構わず、理詰めで古典の演習問題を解き続けていた。


 ……そう、一人を除いて。


 風見先輩だけは、いつも通りだった。 窓際の席で、頬杖をつきながら、優雅に『ノルウェイの森』を読んでいる。


(この人、本当に大丈夫なのか……?)


 俺は、自分の英単語帳から顔を上げ、こっそりと風見先輩に近づいた。


「風見先輩、大丈夫なんですか? テスト勉強……」

「やれやれ」


 風見先輩は、視線を本から動かさずに答える。


「焦ったところで、羊は戻ってこないさ。それより軽井沢くん、昨日は大変だったみたいだね。『ツンデレ暗記術』とやらで」

「な、なんでそれを……」


 昨日の黒江先輩とのやり取りは、この人には話していない。というか、あの場にいなかったはずだ。


 風見先輩は、そこでニヤリと口元を歪めると、読んでいた『ノルウェイの森』の文庫本カバーを、そっと外してみせた。


「!」


 中身は、分厚い『英語長文問題集』だった。 しかも、パラパラとめくると、びっしりと解答が書き込まれ、すでにかなりのページが解き終わっている。


「ハードボイルドってのは、水面下で足掻くことさ」


 風見先輩は、カバーを元に戻しながら、クールに言った。


「……まあ、古典は黒江くんに教えてもらおうかな。『僕を助動詞にするな』って言われたんだろ?」


(全部知ってるこの人!怖い!)


 こうして、まったく統一感のないカオスなテスト前夜が更けていくのだった。

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