第5章:市場の歪みと既得権益
第5章:市場の歪みと既得権益
レオンが「価格是正」を宣言してから、一週間が経過した。
冒険者ギルドの日常は、静かに、だが確実に変貌していた。
まず、ギルドホールの「匂い」が変わった。以前はエールと汗、そして微かな血の匂いが支配していた空間が、今はレオンが毎日持ち込む大量の薬草(コモンウィード)の、青々しく清潔な香りに満たされるようになった。
「はい、本日分。薬草、600束。粘菌、12袋。検収を」
「…承知いたしました。本日の納品、確かに」
カウンターで対応するサラの受け答えも、完璧に「ルーティン化」していた。
彼女の目の前には、もはや芸術品のように均一な薬草の束が、小高い山を築いている。彼女は慣れた手つきで羊皮紙にサインし、レオンに銀貨の入った袋を滑らせた。
(レオン様のオペレーションは、完全に『安定期』に入った)
サラは、カウンターの下に隠した帳簿に、小さな文字を書き込みながら分析する。
(初期投資:ゴブリン5匹、スライム10匹。維持費用(コスト):彼らの食費。生産物(プロダクト):薬草600束、粘菌12袋。一日の純利益(プロフィット):銀貨約70枚…)
当初の嘲笑は、ギルドホールから完全に消え失せていた。
冒険者たちは、レオンと彼の「ゴブリン部隊」が淡々と依頼をこなす姿を、畏怖と当惑が混じった目で見送るだけだ。彼らFランク冒険者が一日がかりで稼ぐ銅貨数枚の仕事を、レオンは「組織化」することで、Cランク冒険者に匹敵する稼ぎへと変貌させたのだ。
「おかげで、ポーションの値段が下がって助かるぜ」
「ちっ、薬草採取クエは、もう旨味が無くなっちまったな…」
市場は、レオンの大量供給(サプライ)に即座に反応した。
ギルドの掲示板に張り出された『コモンウィード買い取り価格』の札は、この一週間で3度も張り替えられ、価格は当初の7割にまで下落していた。
それは、消費者(冒険者)にとっては朗報だった。
だが、当然ながら、それを快く思わない者たちも存在する。
「――ギルドマスターはいらっしゃるかな?」
その声は、ギルドホールの喧騒に似つかわしくない、油を塗ったような滑らかさを持っていた。
サラが顔を上げると、カウンターの前に一人の男が立っていた。上等なベルベットのローブをまとい、指にはこれみよがしにルビーの指輪が光っている。冒険者のような屈強さはない。彼の体からは、汗や鉄の匂いではなく、高価な香辛料と保存料の、鼻につく匂いが漂っていた。
「…失礼ですが、どちら様でしょうか」
「これはご丁寧に。私は『薬師組合(アポセカリー・ユニオン)』の組合長、マルサスと申します。少し、お耳に入れたいことがありましてね」
マルサスの目は、サラを見ていなかった。
彼の視線は、サラの背後、倉庫に運び込まれるレオンの薬草の山に、蛇のようにねっとりと注がれていた。
(薬師組合…!)
サラの背筋が凍った。
この街のポーション(回復薬)の製造・販売を一手に握る、強力な利権団体だ。彼らがコモンウィードを独占的に買い付け、高価なポーションを製造することで、莫大な利益を上げていることは公然の秘密だった。
「近頃、ギルドが『市場価格』というものを理解しておらん輩のせいで、少々『混乱』していると聞きましてね」
マルサスは、指輪をいじりながら、わざとホールに響く声で言った。
「コモンウィードは、我々『薬師組合』が適正な価格で管理することで、その『価値』を維持してきた。それを、どこぞのゴブリン使いが…市場の『秩序』を乱している」
その言葉に含まれた「脅迫」の意図を、サラは正確に読み取った。
(レオン様の『価格是正』は、彼らの『独占的利益』を脅かしている…!)
「それは、ギルドの正規の手続きに則ったもので…」
サラが反論しようとした時、マルサスは「ふん」と鼻を鳴らした。
「秩序を乱す者には、相応の『調整』が必要だ。……ああ、そうだ。受付嬢さん」
マルサスは、カウンターに金貨を一枚、音を立てて置いた。
「例のゴブリン使い…レオンとか言ったかな。彼が明日、どの『採取区域』に向かうか、ご存知かな? 我々も、視察の必要があるかもしれんでね」
それは、あからさまな「買収」の提案だった。
サラは、カウンターに置かれた金貨と、マルサスの冷笑的な目とを交互に見比べた。
血の気が引いていくのが分かった。ここで情報を売れば、ギルドの守秘義務違反になる。だが、断れば、この街で最も力を持つ組合の一つを、敵に回すことになる。
「……申し訳ありません」
サラは震える唇を噛みしめ、視界が滲むのを堪えた。
「冒険者の行動予定は、ギルドの機密事項です」
「ほう」
マルサスの目が、愉快そうに細められた。
「賢明な判断とは言えんな。まあ、よかろう。情報など、金でいくらでも買える。君の『誠意』は受け取っておこう」
彼は金貨をそのままカウンターに残すと、ゆったりとした足取りでギルドを去っていった。
まるで、自分の庭を散歩する領主のように。
ホールは、先ほどまでの活気を失い、不穏な沈黙に包まれていた。
サラは、カウンターに残された金貨を、まるで毒蛇に触れるかのように震える手で掴んだ。冷たく、重い「現実」の感触が、彼女の掌を焼いた。
(レオン様は、わかっていない)
(彼は『市場』を合理的に分析しているつもりでも、その市場を支配している『人間』の、非合理的な『嫉妬』と『暴力』を、計算に入れていない…!)
明日、レオンの「ゴブリン部隊」は、マルサスが放つ「調整」――すなわち、妨害工作(サボタージュ)に直面することになる。
サラは、どうしようもない焦燥感に駆られながら、レオンが去っていった扉を見つめることしかできなかった。
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