立山の雪、七つの涙
共創民主の会
第1話 最善の利益
【午前】
十一月十五日、朝の八時四十五分、議場の扉を押す前に、私は一度だけ深呼吸をした。冷たい廊下の空気が歯の裏側に染み込み、昨夜の歯みがきの味さえも奪った。
「本日の追加議案、富山県こども権利条例素案を継続審査とする件」
議長の声が響くと同時に、私の掌に汗が滲んだ。傍聴席からの視線が、まるで氷のように重い。私は山城敬一、六十二歳、この地方都市の市長だ。昨日までの私は「子ども条例の父」と呼ばれ、今朝の地方紙では「日本で最も子どもに優しい首長」とまで書かれていた。だが、今この瞬間、私は敗北者だった。
「素案は中高生の意見反映が不足している。委員会としては、十二月の再提出を求めたい」
県議会の文教常任委員長、佐伯浩二の言葉は、まるで鈍い包丁のように私の胸を抉った。傍聴席から立ち上がった記者たちの視線が、私の顔を這う。私は、彼らに向けて「わかっている」という目配せをした。だが、実際には何もわかっていなかった。私の中で、数字が渦巻いていた。
素案第七条「意見表明権」、全百八文字。だが、中高生の実態調査は、市内三校、わずかに三十二名。私は、昨日の夜、秘書課に送ったメモにこう記していた。「第百八文字までに、彼らの声をどう埋め込むか」。そのメモが、今では私の内ポケットで、焼けるように熱い。
議場を出ると、窓ガラスに立山連峰の雪化粧が映っていた。十一月の冷たい雨が、ガラスを伝って滴る。私は、ふとスマートフォンを取り出し、SNSのトレンドを確認した。「#黒部川雪見舟 運行再開」「#子ども条例 もういいや」——後者は、市内の高校生が始めたハッシュタグだった。私は、画面を閉じた。指先が震えていた。
【午後】
午後一時、富山駅前の再開発ビル最上階。私は、副市長の石黒正道と向き合っていた。石黒は、五十八歳、私の後輩にあたる。彼は、常に現実主義者だった。
「ワークショップ、二百人の参加者確保は難しい。市内中高生、千二百人のうち、進学塾の冬期講習で動けない子が半数を占める」
石黒は、タブレットを滑らせながら言った。私は、窓の外を見た。駅前のロータリーでは、冬支度のイルミネーション工事が始まっていた。2025年四月、ここに「こども総合サポートプラザ」が開設される。私の公約だ。だが、予算は、まだ三分の一も確保できていない。
「二百人は、必要な数字だ。第七条の意見表明権を、彼ら自身の言葉で埋めるためには」
私は、声を低くした。石黒は、眉をひそめた。
「市長、私も子どもを持つ親だ。だが、予算は有限だ。五箇山合掌村の過疎化対策、高齢者医療の削減案——どれも、市長のおっしゃる『最善の利益』とは裏腹に、誰かの涙を誘う」
私は、答えられなかった。私の中で、数字と人情が、綱引きをしていた。2025年四月、サポートプラザ開設。それは、私の「個人的な希望」でもあった。私の妻が、十年前に他界した。その際、私は彼女に約束した。「次の世代には、私たちが背中を預ける」と。だが、その背中が、今では重すぎる。
【夕方】
午後五時半、自宅のリビング。私は、中学二年生の甥、翔太と向き合っていた。翔太は、私の妹の息子だ。彼は、スマートフォンを握りしめ、私を見据えた。
「なんで、子どもだけが優遇されるの? おじさん、高齢者医療の予算削減を進めているんでしょう? じいちゃんが、薬を我慢しているよ」
私は、言葉に詰まった。翔太の祖父、私の義父は、糖尿病で通院している。私の予算案では、義父の自己負担が、月に三千円増える。私は、コーヒーカップを手に取った。指先が、再び震えていた。
「翔太、お前が生まれる十年前に、この国は児童の権利条約を批准した。1994年だ。それは、子どもが『最善の利益』を享受する権利がある、と国が約束した年だ」
私は、声を絞り出した。翔太は、眉をひそめた。
「じゃあ、じいちゃんの『最善の利益』は? おじさんの政策は、誰のため?」
私は、答えられなかった。窓の外では、十一月の雨が、さらに冷たくなっていた。私は、翔太の肩に手を置いた。だが、彼は、その手を振り払った。
【夜】
夜の九時、書斎。私は、1994年の資料を広げていた。児童の権利条約、日本批准の日、私は当時、県庁の係長だった。私は、条約の前文を読み返した。
「『子どもは、個人としての尊厳を有し』——」
私は、声に出して読んだ。だが、その言葉が、翔太の祖父の顔と重なった。私は、ペンを手に取った。メモ用紙に、数字を書いた。市内中高生千二百人、ワークショップ目標二百人、義父の自己負担三千円。そして、私の「個人的な希望」、2025年四月。
私は、ペンを置いた。窓の外では、雨が止んだ。雲の切れ間から、十一月の月が顔を出した。私は、呟いた。
「政策は、数字ではなく、一人ひとりの涙の数で測れる」
私は、翔太の部屋を訪ねた。彼は、ベッドでスマートフォンを操作していた。私は、彼の枕元に座った。
「翔太、おじさんは、まだ答えを探している。だが、『最善の利益』とは、誰も涙を流さないことではない。誰かの涙を、自分の胸に刻むことかもしれない」
翔太は、私を見た。私は、彼の手を取った。小さな手だった。だが、その手の中には、未来がある。
「おじさん、じいちゃんの薬、もう少しで我慢できるって言ってた。だから、おじさんの答え、私も探す」
私は、頷いた。十一月十五日の夜、私は新たな確信を抱いた。政策とは、数字ではなく、一人ひとりの涙の数で測れる——そして、その涙を、次の世代へと繋ぐことが、私の「最善の利益」なのだ。
私は、翔太の部屋を出た。書斎に戻り、カレンダーを開いた。2023年十一月十五日、赤い丸印がついている。2025年四月、サポートプラザ開設。私は、ペンで、翌日の欄に書き込んだ。
「第十二条 市長は、一人ひとりの涙の数を胸に、条例を磨く」
窓の外では、十一月の月が、立山連峰の雪を照らしていた。私は、息を吐いた。まだ、答えはない。だが、私は、歩き出す。一人ひとりの涙の数を、胸に刻みながら。
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