第3話 疑惑
夜になって床につくと
仕事帰りにも英輔は交番の前で十秒、二十秒と恐らく30分は立ち尽くしていた。
誰にも見られないように、英輔は踵を返した。
その夜も英輔は眠れなかった。事件からずっと熟睡はできていない。
頭の中に、自分が殺めた呉服店の主人と妻の顔が浮かぶ。
天井の木目が、川の流れみたいに揺れて見えた。ときどき、その川面に、
殺めた2人の顔が浮かぶ。そして、燃える畳。反物。炎の舌。
耳の奥で、パチパチと紙が焼ける音がする。
英輔は枕を抱え、朝をやりすごした。
一週間ほどたって、現場の噂話しに別の名が混じった。
「木内って出前持ち知ってか? ほら、寿司善のだよ」
「よく自転車で出前運んでる若衆。事件の夜にさ、呉服屋の裏路地で雨の中で逃げてく奴とぶつかったらしいんだってよ」
英輔の背中が、ぴんと張った。
視線を感じたのか、実がこっちを見ている。
英輔は実の視線を感じてはいるが実の方を見ようとはしない、
英輔の横に実が腰かける。
「おまえ、最近どうした。顔色悪いぞ」
「寝不足なだけですよ」
「寝れないのか?」
「ええ、まぁ」
「好き女でもできたのか?」実はわざと話しを和むようにもっていく。
「そんなんじゃないですよ」英輔は作り笑いをするで精一杯で顔がひきついてしまう。笑い方を忘れた。笑おうとすると、頬の筋肉がぎこちなく動いた。
実はこの建設会社のリーダー的存在で、英輔より歳は8歳上で何かと入社した時から可愛がってくれている。故郷にいる歳の離れた弟になんとなく英輔が似ているのだという。
英輔も頼りにて仕事においても私生活においても実に相談ごとを聞いてもらっていた。しかし今の英輔にとって実の目が一番恐ろしく、何かを言いたげな実の表情をまともに見ることができなくなっていた。
鮨屋の店員の木内は、寮と現場のあいだにある公園のベンチで、ときどき鳩に餌を与えている。
英輔は目を合わせないようにして通り過ぎるが見られている気がする。
木内だけではなく、鳩の黒い目玉のような視線も気になってくる。
声をかけられそうな気がして英輔は足早に離れた。
月末、給料袋を受け取った帰り、寮の自販機の明かりに手の甲をかざす。
火傷の痕が、薄く光った。
――あの夜だ。
炎に舐められたとき、熱さを感じるより先に走っていた。
痕は、薄くはなったが、消えない。
英輔は缶コーヒーを買い、冷たさをその痕に押し当てた。沁みる感覚に、少しだけ現実感が戻る。
逮捕のニュースから一か月。
現場の話題は、作業員によるいつもの冗談と愚痴に戻っていた。
鎌田が送検され、やがて起訴された。
新聞の扱いは次第に小さくなっていく。英輔の中でだけ、事件は拡大し続けた。
夜ごと、同じ夢を見た。女の口を塞ぐ掌。刃の感触。燃える畳。
起き上がるたびに、喉が以上なほど渇いている。水を飲む。胃が拒む。吐く。
朝、鏡を見ると、頬が少し痩せていた。
「おい、飯食ってるか」
実が眉をひそめる。
「ええ。大丈夫です」
「ホントかよぉ よし、オバちゃんに言って今日のめしはやめて焼肉おごってやる。」
「え・・・」
「焼肉だったら食えるだろ元気でるぞ!どうだ?」
実は英輔を心から心配していると同時に聞きたいことがあった。
「あ、俺、今日はちょっとヤボ用があって・・・すんません実さん」
そういうと英輔は急いでるフリをしながら急いで食堂をあとにした。
実は部屋にもどって実の目に恐怖感を感じた。
今、面と向かって実に問いただされたら全てを話してしまう。
逮捕から三か月目のある日、現場の昼休み、いつものように英輔は実と何人かの仲間と弁当を食べている。
実がぽつりと言った。
「あの呉服屋の犯人って、死刑まで行くかもしれんな」
英輔の手の中の箸が、一瞬動きを止める。
「酌量なんか、ねえだろ。人2人殺して放火までしたらよ」
他の同僚も実につづく。
「死刑は間違いないんじゃねぇか」そういいながらマッチを擦った。
マッチを擦る音がやけに大きく英輔の耳に届く。
英輔は弁当箱の海苔を見つめた。黒い四角は、目の穴のようにも見えた。
――俺がやった。
声に出せない言葉が、胸の中でずっと叫んでいる。
叫び続けてやがてその声はその場の雑音と混じり合って、何が音で何が 沈黙か、区別がつかなくなっていく。
夜、寮の窓に雨が当たった。
雨粒は、均等ではない。たまに大きなのが混じる。
大きな一滴が、硝子を伝って、線を引く。
英輔はその線を目で追った。線は途中で途切れ、別の線に吸い込まれた。
どこかで、何かが入れ替わる。
罪と日常。
現実と夢。
自分と、自分の替わりに逮捕された知らない名前の男。
英輔は静かに瞼をとじた。
四か月目、英輔は社長に詰所に来るよう呼びだされた。
詰所にいくと50歳過ぎのいかつい顔をした社長がソファに座っている。
この建築会社の社長である佐藤は見た目は強面なのだが従業員からの信頼は厚い。
「休み、増やすか? 最近ふらついてるぞお前」
社長の目にも自分の変わりようが伝わっているのかと英輔は少し驚いた。
「いえ。大丈夫です」
社長の机の上に、黄ばんだ書類が積まれている。現場の図面、現場の報告書。文字はどれも他人事の顔をして、積み重なっていた。
英輔はしばらく雑談し、気に掛けてもらっていることに頭を下げ、詰所を出た。
外の空気は夏に近づいている。舗装の上から熱が上がって、足首にまとわりつく。
目の奥に、また炎が上がった。
英輔は額を押さえ、ゆっくり呼吸を整えた。
五か月目の終わり、元請による飲み会があった。
居酒屋の座敷は賑やかで、笑い声の粒が宙に漂っている。
英輔は端の席に座り、ビールを一口だけ飲んだ。
実が隣で枝豆を割りながら、横目で見た。
「おまえ、ほんとに変わったな。前はよく喋ったろ」
「そうでしたかね」
「飯食いながらでもしゃべってたじゃねぇか」
実は英輔の隣まで身を寄せて酌をしながら
「そうだ。あんとき……」
実は何かを言いかけて、やめた。
英輔は心の中で震えていた。
「なんですか?」と聞けない。
店員が頼んでもいない焼き鳥を持ってきて、笑って謝った。
注文の取り違え。誰も気にしない。
英輔は、その「誰も気にしない」という空気に、むしろ息苦しさを覚えた。
その夜、寮へ戻る途中、公園の前を通ると、木内がベンチに座っていた。
仕事帰りに空を見ている。
英輔は足を止めた。
木内はふと視線を下ろし、こちらを見た。
木内の目は、妙に澄んでいた。
英輔は会釈をして、通り過ぎた。
背中に、何かの視線が残ったままだった。
事件から半年目の夜、英輔は自分の部屋の小さな机に向かって、白い紙を前にした。
気持ちの整理をつけたかのようにペンを走らせた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます