ブロンド・ニュー・デイ~天衣無縫の転校生~
白種 ゆりか
Ep.EXTRA 日よ昇れ
撫順は窒息しかかっていた。実行犯たる工場たちも、今や大半が廃れ、死に絶えている。中でも巨大な一棟の、その中心にキャサリンはいた。
床置きのデッキと、散乱するVCD。赤みがかったパッケージには、アニメの絵柄が貼り付けられている。彼女にとってそれは、憧れを把握し、不安を誤魔化す唯一の手立てだった。
深い溜め息が、滞留している煤を払う。しかし綺麗にしたところで、それを持ち出す理由はない。そして彼女は振り返って、巨大な鉄扉を軽く睨んだ。
淡々と鍵を外し、二枚の板を両手で押し出そうと試みる。だが、カタカタと揺れるばかりで、それがドアとして動作することはない。
無骨な革靴が脱ぎ去られ、白い靴下が露になる。かと思えば、たちまちそれは煤をかぶり、黒く変色していった。そして右足がコンクリートを踏み抜き、左足が鉄板を蹴り飛ばした。
口を開けた廃工場に、陽光が刺すことはなかった。代わりとばかりに光るのは、偽造旅券の鈍い金。目尻で軽く検めてから、彼女は廃墟を後にした。
大連行き急行列車は、都市の景色を早送りにしながら、とうとう終点へと腰を下ろした。どっと人が溢れ、一段落した段で、初めてキャサリンは扉を抜けた。
駅舎を出るや否や、しめて2000元を握りしめながら、ただ一方向を見据えて、吹き付ける潮風を切り開いてゆく。30分も経たずに、少女は港に辿り着いた。
『工具に、煙草。何だ、この荷物は。』
黒髪の少女は、職員の怪訝さを嘲るかのように、手許の茶封筒を突きつける。零れ出ている100元札には、笑っているかのような皺。
『で、止めるんですか?』
『通れよ。知らん。』
乗り入れ口の近くでは、潮が音を立てていた。雑踏を掻き分けて、とうとうキャサリンは船に片足をかけた。ギィ、と鳴った。かと思えば、船は異物を拒むかのように、ぐらんと傾いて、たちまち埠頭に靠れかかり、それからまた体制を戻した。
木製の床材には、そこかしこに傷がついている。手洗い場の扉は、波に合わせてカタカタ踊っていた。その傍らには、泣きじゃくっている三歳児。キャサリンは扉に手をかけ、一頻り籠って、そしてまた客室へと戻った。
子供は泣き止んだ。口に指を咥えながら、きらきら輝くブロンドの髪に、真ん円の眼を見開いていた。
汽笛の轟音。デッキにはまだ殆ど人がいない。ふと、キャサリンは懐をまさぐり、一片のVCDを取り出した。
眺めていると、握る手に力がこもってゆく。描かれているのは、セーラー服の少女。それをまた胸に仕舞って、少女は東をくっと睨む。間もなく、船は新潟へと出航した。
日本の夏風を浴びるのは、キャサリンにとって九度目だった。しかし、校長室の目前に立つのは、当然ながら初めて。胸のポケットには、金髪の少女が溌溂に歌う、一冊のライトノベルが仕舞われている。くたくたになるまで読み込まれたそれには、幾つもの付箋が貼り付けられていた。
ゴン、ゴン、ゴン。木目調の扉が開き、少女が中へ招かれる。一歩踏み出すキャサリンの、そのブロンドがくるんと靡いた。細く白い両掌は、春の陽気にあてられて、ほんのり熱を帯びている。
「Мы ждём перемен!」
高らかな声を浸透させながら、少女は住宅街を闊歩していた。通行人だった地域の人間は、皆一様に見物人となっている。だが、彼女はそれを気にも留めない。始まるはずの日常への期待感は、その視界を極限まで絞っていた。
道路沿いの一軒家で、田村謙介は蒲団に包まっていた。喇叭を鳴らしたかのように、鋭く広がる春の暁光。その眩しさに耐えかねて、少年はくるんと寝返りを打った。
カレンダーは4月7日を示している。退屈さを誤魔化すかのように、謙介はひとつ溜め息をついた。
部屋に入り込む、沈丁花の甘い香りと、キャサリンの歌。少年は、いつの間にかもうひと眠りし始めていた。
花弁の欠片が、風に舞い、謙介の頬をこつんと突く。少年が目を醒ますまでに、30分が経っていた。
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