100回死んでも、君を救いたい

嶌田あき

第1章 繰り返す夏、運命の糸

第1話

「お前さぁ、まだ好きなの? あの子のこと」

 実験机の向こうから高宮の声が聞こえる。俺はスマホの画面から目を離さないまま、曖昧に肩をすくめた。

「さあ、どうだろ」

 顕微鏡を覗きながら高宮が笑う。白衣の袖をまくり上げた腕がスラッとしていて、いつも女子にモテる理由が少しだけ分かる気がした。

「それって、要するに好きってことでしょ? いい加減、白状しなよ。その顔、なんか『恋に落ちました』って書いてあるようなものじゃん」

 実験室には俺たち以外誰もいない。夏休み前最後の放課後、実験レポートの片付けだけが残っていた。窓の外では夕日が大学の敷地を橙色に染め、蝉の鳴き声が鈍く響いている。

「もう一年も経つんだぜ? 大学デビューしたのに、高校の後輩に未練タラタラとか、そろそろ卒業した方がいいんじゃない? 可愛い子、紹介しようか?」

 高宮は俺の実験パートナーで、友達と呼べる数少ない大学の知り合いだ。女の子には異常に強いが、成績も良く、意外と人の気持ちを見抜くのが上手い。

「別に未練じゃないって。ただ、あいつの様子が気になるだけだ」

 言いながら、自分でも嘘っぽく聞こえた。スマホに映るのは、綾のインスタだ。昨日投稿された写真には「夏休み前、理科部の皆と♪」というキャプションが添えられている。制服姿の綾が屋上の天文台の前で笑っている。あの笑顔の裏に隠された運命を、俺だけが知っている。

 あの子は笑っている。でも、俺はもう97回も見てきた。その笑顔がどうなるのかを。

「俺は帰るわ」

 高宮がカバンを肩にかける。

「明日から地元に帰省?」

「ああ」

「じゃあな。良い夏休みを」

 高宮は軽く手を振って部屋を出ていく。実験室のドアが閉まり、俺は一人残された。スマホをポケットに滑り込ませ、窓際に立ってキャンパスを見下ろす。何もかもが既視感だらけだ。これから始まるのは、通算98回目の夏休みだ。何度繰り返しても、結末は変わらなかった。でも、今回は違う気がする。何かが変わる予感があった。


 各駅電車は空調が効きすぎていて、半袖だと肌寒いくらいだった。窓の外を流れる景色は既視感に満ちている。同じ路線を98回も乗ったのだから当然だ。隣の中年男性はスマホゲームに夢中で、前の席の高校生カップルはイヤホンを片方ずつ使って音楽を聴いている。全部見慣れた光景。

 スマホに表示された幼なじみの綾のインスタを再びスクロールする。投稿のタイムスタンプが気になった。昨日の17時36分。前回のループでは17時42分だった。微妙な違いがある。そして目に飛び込んできたのは、「今度の夏休み、久しぶりに占いに行こうよ」という澪——綾の妹からのコメント。それに対する綾の「いいよ!」という返事。

 このやり取りは初めて見る。何かが変わり始めている。「占い」という言葉に胸が締め付けられる。

 そこまで考えたとき、電車のドアが開き、乗客が入れ替わった。そして——。

「昴、くん?」

 その声を聞いた瞬間、心臓が跳ねた。目の前に立っていたのは綾だった。高校三年生の制服姿。黒髪はいつもの三つ編みではなく、肩で揺れるストレートヘア。少し日焼けした肌に、大きな瞳。記憶の中の彼女よりも、少しだけ大人びて見える気がした。

「久しぶり」と、俺は言った。

「変わらないね」

 それは嘘だ。俺にとっては数日前に会ったばかりだ。だが彼女にとっては、高校を卒業した俺と会うのは何ヶ月ぶりだろう。

「大学、楽しい?」

 綾が隣の席に座りながら訊ねる。電車の揺れで少しだけ肩が触れた。懐かしい花の香りがする。

「まあね」と曖昧に答える。

「物理の実験がけっこう忙しくて」

「そっか」

「綾は? 理科部、続けてるの?」

 綾は微笑んだ。その笑顔に胸が痛む。あと何回見られるだろう。

「うん。部長を続けてるよ。ああ、昴くんの天文部も、大丈夫。ちゃあんと京華ちゃんが継いでる。やっぱ正解だったね。彼女、すごく頑張ってるよ」

「そうか」

 会話が途切れる。窓の外は相変わらずの風景。言いたいことは山ほどあるのに、何も言えない。「君は3月に死ぬ」なんて、どうやって言えばいい?

「あのね」

 綾が切り出した。少し俯いて、制服のスカートを指先でいじっている。緊張している?

「今度の土曜日、澪と一緒に神社に行こうと思ってるんだ。余命占いの」

 心臓が止まりそうになる。これが始まりだ。いつものループの、最初の合図。でも、何かが違う。

「良かったら、一緒に来ない?」

 なぜだ? 前回までは俺から誘い出すのに苦労したのに。今回は綾から誘ってきた。何かが変わっている。喉が乾く。

「あの占い、当たるって評判なんだって。澪が気になってて……」

 澪。綾の妹。白血病と診断される運命を持つ少女。綾はそれをまだ知らない。でも、なぜ澪が突然「余命占い」に興味を?

 この展開は初めてだ。97回のループで、一度も経験したことがない。何か違う。何かが変わっている。

「いいよ、行こう」

 綾の表情が明るくなる。瞳に光が灯る。

「ありがとう! じゃあ土曜日の午後3時、駅前集合で」

 電車が綾の最寄り駅に到着する。彼女は立ち上がり、「またね」と言って降りていった。その背中を見送りながら、不思議な予感がした。彼女は何か知っているのだろうか?

 ドアが閉まり、電車が動き出す。俺は頭を抱えた。

 97回目までの経験では、澪の病気が発覚するのは夏休み明け。綾の死は3月。その間に俺は幾度となく死に、時間を巻き戻してきた。死に戻りという能力を使って。事故、病気、さまざまな形の死。そして何度も何度も、夏休み前の同じ時間に戻る。

 でも、どうやっても結末は変わらなかった。

 残り使えるのはたぶん数回。100回が限界なんじゃないかと勝手に思っている。いつだってこれが最後だというつもりでいる。今度こそ、綾を救わなければならない。

 窓の外では、夕日が沈みかけていた。街並みが橙色に染まり、影が長く伸びている。

 98回目の挑戦が始まる。今度こそ、綾を救いたい。100回死んでも。

 余命神社は市の東側、古い商店街を抜けた山裾にある。創建は江戸時代初期とされているが、余命占いの評判が広まったのはここ数年のことだ。

 夏の日差しの中、綾と並んで石段を登る。彼女の黒髪が風に揺れるたび、かすかな花の香りがした。

 SNSで「当たりすぎてヤバい」と拡散され、若者たちの間で密かなブームになっている。写真を使った占いで、そこに写る人の「残された時間」が見えるという。大抵の占い師は曖昧な言い方しかしないが、ここの巫女は日付まで言い当てるらしい。

「澪、どうしたの?」と自然に聞いてみた。

 綾は階段を一段上がり、振り返る。

「なんか最近、疲れやすくて…。青あざもできやすくなったみたい」

 その言葉に、胸が締め付けられた。白血病の初期症状だ。

 でも、本当に当たるからこそ、俺は98回目のループでもここに来ることになる。

 ——死に戻り能力。

 それは俺が綾の死を目撃した日、ある出来事から突然発覚した。俺は死んだ瞬間、意識が巻き戻り、夏休み前の特定の時点に戻るのだ。初めは混乱したが、この能力が「綾を救うため」にあるのだと理解するまでにそう時間はかからなかった。

 タダでこんなうまい話があるとは思えない。きっと使える回数は決まっているに違いない。最初は10回くらいかと思っていたが、予想は外れた。回数を覚えるようにしてから、今までに97回。いつこの能力が消えてしまうかわからず、不安で仕方ないけれど、そればかり考えて何も動けないのは最悪なので、なるべく残り回数は考えないようにしている。たぶん残り3回はある。なんの根拠もない自信と、この1回で何とかしなければ、もう彼女を救う手段はないという焦りとが、俺の心の中でいつもグラグラと熱湯のように湧いている。

 山道を登りながら考える。澪の体調の変化、綾の不安、そして迫りくる死の影。前回までのループでは、俺はただ綾を物理的な事故から守ろうとしていた。でも、今回は綾自身の行動が変わっている。綾から神社に行こうと言い出したのは、これまで一度もなかったことだ。

 神社の鳥居が見えてきた。赤く塗られた木造の門をくぐると、別世界に足を踏み入れたような静けさがある。スマホの電波も途切れがちになる。まるで現代と切り離された空間。

「来たことあるの?この神社」と綾が聞いた。

「ない」

 嘘をついた。97回も来ているのに。

 ここが、伝統と現代が交わる場所。SNSの話題になりながらも、何百年も変わらない神社の佇まい。そして俺は、過去と未来を行き来する存在として、その狭間に立っている。

 社務所から、着物姿の女性が現れた。「お待ちしていました」という言葉に、背筋が凍る。

 綾を救うため、残された「死に戻り」を使い切る前に、真実を突き止めなければならない。


 俺の名前は羽合昴。19歳、地方国立大学の物理学科1年生。ごく普通の大学生だった——この能力が発現するまでは。

 綾とは保育園も小学校も一緒だった。県庁所在地とはいえ、そんなに大きくない町では、そういう友人は他にも沢山いたから、別に綾だけが特別というわけではなかった。それでも、彼女が特別だと思ったのは小学校3年生の時だった。母親に無理やり通わされたピアノ教室で、隣のピアノを弾いていたのが彼女だったんだ。俺がドレミすら弾けずに悪戦苦闘していた時、「一緒に練習しよう」と声をかけてくれたのが始まり。世話好きで人助けが好きな彼女らしい行動だった。

 それから時々一緒に帰るようになり、中学では同じクラスになった。そして高校1年の文化祭。天文部の展示で夜空を再現した暗室で、綾が「きれい」と呟いた横顔を見た瞬間、俺は恋に落ちた。プラネタリウムの光に照らされた彼女の表情に、心を奪われたんだ。

 彼女の黒い髪が星空に溶け込むようで、154cmの小柄な体が宇宙の広がりの中で輝いているように見えた。

 あれから3年。今でも彼女を見ると、胸が締め付けられる。

 大学に入ってからの綾との関係は、LINEでの誕生日メッセージ程度。疎遠になったのは、俺が意図的に距離を取ったからだ。このループを始める前の世界線では、俺は綾に告白して振られていた。

 それが全ての始まりだった。

 振られた後、俺は彼女を避けるようになった。そして彼女の死を知ったのは、大学1年の3月。交通事故のニュースをたまたま見て、そこに綾の名前があった。

 衝撃で気が動転した俺は、無謀にも車道に飛び出して——そう、それが最初の「死に戻り」だった。

 どうせなら、と思った。彼女を救えるなら、告白なんてしなくていい。友達のままでもいい。ただ、生きていてほしい。

 それから97回、俺は綾を救うための方法を模索してきた。でも……なぜか彼女の死は形を変えて訪れる。交通事故を防いでも、病気になり、防いでも別の事故が起きる。まるで運命そのものが彼女の命を狙っているかのように。

 ひょっとしたら、もう死に戻り能力は残されてないのかもしれない。だとしたら失敗は許されない。

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