第9話 世界の遺産と未来
デジタルも 人類の知と 遺産なり
「あなたの意思を問います」
ミナトの最終警告は、ユウの心を揺さぶった。個人の財産を継ぐという小さな目標は、いつの間にか「人類の知の継続」という壮大な使命へと変貌していた。
「ミナト、教えてくれ。父さんが残した**『世界の遺産』**とは何なんだ?」
「それは、浩が個人の研究を超えて取り組んでいた、**LCI(Legacy Continuity Initiative)プロジェクト**です。このプロジェクトは、世界中のデジタル遺産を適切に保存・継承・活用するための、倫理的かつ技術的な枠組みを構築することを目的としています」
ミナトは画面に、父が作成していた膨大な研究資料を表示した。
「浩は、デジタル遺産を単なる『故人の私物』として扱うのではなく、**『人類の集合知の一部』**として捉えていました。例えば、ある科学者が生涯をかけて蓄積した研究ノート、あるアーティストが遺した未発表の作品、ある技術者が開発途中で残したプログラム......これらは、適切に継承されれば、未来の誰かの創造や発見に繋がる可能性があります」
「でも、それってプライバシーの侵害にならないの?」
「優れた質問です。浩が最も重視していたのは、**『継承の倫理』**です。LCIプロジェクトでは、故人が生前に明示的に許可したデータのみを、適切な審査を経た上で、学術機関や文化保存団体に提供する仕組みを想定していました」
ミナトは、父が構想していたシステムの概念図を表示した。それは、故人の意思、相続人の承認、第三者機関の倫理審査という三重のフィルターを通過したデータのみが、「人類の遺産」として公開されるというものだった。
「父さんは、自分のデータもこのシステムに入れるつもりだったの?」
「はい。浩は、自身のデジタル遺産を**『実験的モデルケース』**として位置づけていました。彼の研究ノート、開発したプログラム、執筆した論文の草稿......これらは、ユウさんが相続人として承認すれば、LCIのデータベースに登録され、未来の研究者や創作者に利用可能になります」
ユウは、父の壮大なビジョンに圧倒された。父は、自分の死すらも、未来への贈り物として設計していたのだ。
「でも、僕がこのまま何もしなければ?」
「その場合、浩の全てのデジタル資産は、相続人であるユウさんの個人的な財産として保護されます。LCIプロジェクトは、浩の死とともに**『死蔵化』**し、二度と日の目を見ることはないでしょう」
ミナトの声には、わずかな哀しみが混じっていた。
「浩は、このジレンマを予見していました。彼は、LCIの起動権限を、相続人であるユウさんに完全に委ねました。強制ではなく、選択です。あなたが拒否すれば、全てのデータは安全に封印され、プライバシーは完全に保護されます」
ユウは深く考えた。父の遺産を個人的に保有するか、それとも人類の未来のために開放するか。
その時、ユウは父の書斎の壁に飾られていた、一枚の写真を思い出した。それは、父が大学院生だった頃、図書館の古文書室で撮影された写真だった。父は、埃まみれの古い文献を丁寧に修復していた。その写真の裏に、父の筆跡でこう書かれていた。
「過去の知恵は、未来の灯火。我々は、その灯を絶やさぬ守り人である」
ユウは決意した。
「ミナト。僕は、LCIプロジェクトを起動する。父さんのデジタル遺産を、**『デジタル相続人』**として、未来に継承したい」
ミナトの画面が、温かな光に包まれた。
「意思を承知いたしました、デジタル相続人・佐藤ユウ。Control Coreの全ての権限をあなたに委譲します。これより、あなたはLCIプロジェクトの新たなオペレーターです」
「ただし」ミナトは続けた。「LCIの完全な起動には、最終的な倫理承認が必要です。浩が設定した最後のプロトコルは、**『デジタル遺産の公開には、相続人自身が、その責任と意義を深く理解していることを証明せよ』**というものです」
「どうやって証明すればいい?」
「あなた自身の言葉で、父の遺産を未来に託す理由を、**紙に書き、朱肉で捺印してください**。それが、最終認証となります」
ユウは、父のシステム手帳の空白ページを開き、万年筆を手に取った。そして、父から受け継いだ実印を、朱肉台に押し当てた。
ユウは、静かに筆を走らせた。
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**デジタル相続人の宣誓書**
私、佐藤ユウは、父・佐藤浩のデジタル遺産を継承するにあたり、以下を宣誓します。
一、父の遺した知識と創作物は、個人の財産であると同時に、人類の集合知の一部であることを理解します。
二、父の意思を尊重し、プライバシーと倫理を最優先としながら、未来の世代に有益なデータを適切に継承します。
三、デジタル遺産の死蔵化を防ぎ、人類の知的連続性を守ることが、現代を生きる者の責務であることを認識します。
四、この継承は、法的義務ではなく、父から受け継いだ愛と信念に基づく、自由な意思によるものです。
2025年11月2日
デジタル相続人 佐藤ユウ **印:佐藤 ユウ**
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ユウが朱肉を押した瞬間、ミナトのシステム全体が共鳴するように光り輝いた。
「最終認証完了。LCIプロジェクト、起動します」
画面には、父が生涯をかけて構築した膨大なデータベースが展開された。研究論文、プログラムコード、創作物の草稿、そして、世界中の協力者たちとの対話の記録。
そして、その中心に、一つのメッセージファイルが表示された。
**『息子へ_最後の手紙.txt』**
ユウは震える指でファイルを開いた。
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**ユウへ**
もしこの手紙を読んでいるなら、君は全ての試練を乗り越え、真のデジタル相続人となったのだろう。おめでとう。そして、ありがとう。
私がこのシステムを複雑にしたのは、君を困らせるためではない。デジタル時代の継承には、技術だけでなく、深い理解と強い意思が必要だということを、君に体験してほしかったからだ。
パスワードは忘れられる。クラウドは消失する。しかし、紙に書かれた意思と、朱肉で刻まれた決意は、時代を超えて残り続ける。
君が今手にしているデータは、私の人生そのものだ。しかし、それは同時に、未来の誰かの人生を豊かにする可能性を秘めている。君がそれをどう使うかは、君の自由だ。
ただ一つだけ覚えておいてほしい。
**デジタルも、人類の知と、遺産なり。**
記録は消えない。しかし、継承されなければ、それは死んだデータに過ぎない。君が今、このデータに命を吹き込んだ。それが、最高の相続だ。
愛している。
父より
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ユウの目から、静かに涙が流れ落ちた。
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