第6話:月明かりと転校生
頭を冷やすために学生寮の自室で少し寝た後、外の空気を吸いたくて散歩に出た俺は、夜闇の中で学園の塀の上に腰掛けている誰かに気づいた。
その姿は、満月の光を切り取るように黒いシルエットを形作っている。
俺が写真家であったなら、その美しい光景に完璧なタイミングでめぐり合わせたことに感謝したかもしれない。
だが、写真家でない俺が感じたのは、あれがもし学園に忍び込もうとしている盗賊とかだったらどうしようとか、女子風呂を覗こうとしている変態だったらどうしようとか、そういう危機感ばかり。
ゆえに、俺が出した結論は。
「…よし、正体を確認してから殺そう」
怒りも憎しみもない、淡々とした殺意。
なぜかその瞬間、俺は確信した。
ただ一歩の跳躍で、俺はあの人影の隣に移動できる。
どうやら、『必殺の誓い』はこの程度の殺意でも勝手に起動するらしい。
今は、移動の手間が省けて便利だが…。
オンオフが任意で切り替えられないというのは、ゲームのスキルになぞらえて考えるならかなり不便だ。
「よっ…と」
軽い掛け声とともに、俺は学園の塀の上に飛び上がる。
「もひゃぁっ!?」
塀の上の人影…今は隣の人影だが…は悲鳴を上げて尻もちをついた。
学園の塀というかなり高い場所にいきなり誰かが飛び上がってくれば、驚くのは当然だ。
「名乗れ。お前は盗人か、それとも覗き魔か、はたまた別の犯罪者か…!」
拳を引き、いつでも殴り殺せる体勢を整えながら、俺はその人影に誰何する。
「く、クロウくん…?」
それに応じる声は、今日何度も聞いた声。
改めてよく見れば、それが誰かの識別は容易だった。
娼婦じみた趣味的な服装、鳥のような闇色の翼、月明かりを反射して煌めく銀髪。
「セレス先生…月光浴がご趣味なんですか?」
自分の内側から破壊的な魔力が霧散するのを感じながら、俺は拳を解く。
盗人や覗き魔でないのなら、殺す必要はない。
「そうね。クロウくんは、もしかして飛び上がってきたの?」
セレス先生の質問はつまり、俺が必殺の誓いの影響を受けていた事の確認だろう。
ほとんど城みたいなサイズを誇るこの学園の塀は、翼を持たない種族が跳躍できるような生半可な高さではない。
「はい。盗人か覗き魔でもいたのかと思って」
意図を察してしまうと、答えにもつい言い訳の色がにじむ。
なにしろ、誤解とはいえ殺す気で近づいたのだ。
「そう。みんなを守ろうとしてくれたのね」
だが、セレス先生は俺の殺意を非難しなかった。
殺すことは俺の目的ではなく、単なる手段であるのだと認め、微笑み。
そして、立ち上がったセレス先生は俺をそっと抱きしめた。
「大丈夫よ。ここには君を傷つける人はいないわ。もしそんな人が来ても、せんせが追い払ってあげる。だから、一人で頑張らなくても大丈夫よ」
なだめるように優しく囁くセレス先生の意図を理解するのに、俺はかなりの時間を要した。
なにしろ、事実ではないのだ。
竜人の少年ジークのように、俺に悪意を示す生徒は普通にいる。
場合によっては教員もそうだ。
俺の危険性を認識し、詰問した校長の態度は、感受性次第だが10代の少年にとっては酷な態度である可能性が高い。
俺を傷つけるやつは、どこにだっている。それが事実だ。
セレス先生は、明確に嘘をついている。
ではなぜ、セレス先生はそんな嘘をつかなければならなかったのか。
答えは明白。
俺に自己防衛をさせてはならないのだ。
普通なら正当防衛の範疇に収まる反撃でも、俺は空間を引き裂き、『世界の裏側の色』を呼び、周囲を阿鼻叫喚の巷に陥れかねない。
だから、セレス先生は俺を戦わせてはならないのだ。
生徒の安全を預かる教師として。
その事情は理解できる。
だが、承服はできなかった。
「それでも、俺は一人で戦うことを選びます」
その拒絶は、セレス先生を悲しませたようだった。
俺を抱きしめる腕がわずかに震える。
「どうして? なんでそんな、悲しいことを言うの?」
まるで悪魔の囁きのように、銀髪の堕天使はすがるように俺の耳元で囁く。
しかし、言葉の上で、その問いに答えるのは簡単だった。
「先生は、愛という言葉を知っていますか」
俺を離したセレス先生は不思議そうに首を傾げ、しかし、首肯を返した。
だから、俺は前提の説明を省いて、愛に関する自分の理解を説明する。
「便利な言葉ですよね。あらゆる悪行を正当化できる便利な方便、大義名分として、愛以上のものはない」
しかし、その説明には、セレス先生は同意しなかった。
「それは違うわ、クロウくん。人は、愛はそんなものじゃ…」
「愛は暴力にして欺瞞です。理不尽な暴力を正当化するための欺瞞が愛です」
俺はセレス先生の言葉を遮って続けた。
愛に騙されていることの表明でしかないそれに、聞く価値を感じなかったからだ。
その幻想を信じているうちは幸せでいられるだろう。
もう一度信じれば、幸せを取り戻せるだろう。
それでも俺は、吐き気がする現実を直視することを選ぶ。
「それが家族という、幼少期の逃れ得ない生活空間において俺が学んだことの全てです」
前世での祖母と父の悪辣なおためごかしを思い出しながら、俺は淡々と言葉を紡ぐ。
「クロウくん…」
それを聞いていたセレス先生は、まるで、思い詰めている生徒の悩み事を受け止めきれないような顔で俯いた。
俺はそんなに悲しいことを言っているつもりはない。
ただ、事実を口にしているだけなのだが、何故、セレス先生はそんな悲しそうな顔をするのだろう。
「でも、愛に騙され、愛を素晴らしいと思っている連中は、俺よりも愛を信じるでしょ?」
軽い調子で投げかけた俺の問いに、セレス先生は何も言わなかった。
頷きもしなければ、首を横に振ることもしなかった。
まあ、応答がなくても、そんなに問題ではない。
少なくとも、俺がそう理解しているから行動で示すのだ、という俺の主張は揺るがない。
「だから、一人で戦うんです。誰かを守るのも救うのも、愛なんておためごかしじゃない。愛を信じる連中より、愛を憎む俺が、俺こそがやる。それが大事なんです」
沈黙。
静寂。
俺はセレス先生の問いに答えた。
セレス先生は問いを重ねなかった。
やがて、聞こえてきたのは、ぱた、ぱたという水音。
雨でも降ってきたかと思った俺だが、濡れていたのは、セレス先生の足元だけだった。
「どうしてそんなことを…軽く言えるの…? 辛そうに、苦しそうに、決意を固めて言うなら、まだ助けてあげられるのに…。笑いながらそんな悲しいことを言うくらい壊されちゃった子に、せんせは何をしてあげられるの…?」
どうやら、泣いているらしい。
セレス先生の基準では、俺の精神は壊れているようだ。
「今でも十分よくしてくれてると思いますけどね…」
まるで自分が無力というような言い方をするセレス先生だが、生徒に親身になって泣ける先生とか前世から数えてもセレス先生が初めてだ。
それは誇っていいと思う。
俺の答えは何の慰めにもならなかったらしく、セレス先生はしばらく立ち尽くしたまま泣き続けていた。
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