第2話 晩酌

 ふと気が付くと、僕は自分が真っ白なベッドの上に横たわり、そして白い布を被されているのをその天井から見ていた。どうやら、病院の霊安室のようだ。ベッドのすぐ脇にはろうそくと線香が焚かれている。僕がふらふらと天井を漂うとろうそくの炎がかすかに揺れた。

 しばらくすると、白衣を着た先生に連れられた還暦手前の両親と、そして五つ歳が離れた今はまだ大学生の弟の智司が扉を開けて入ってきた。時刻は、まだ十五時過ぎ。僕が死んだことは、どういう経路かわからないが家族にはすぐに伝わったようだ。新幹線に乗って僕の遺体が搬送された病院に駆けつけたらしい。


「雨宮悟さんで間違いないでしょうか?」


 僕の顔に乗せられた、それが僕であることをごまかす唯一の障壁だった白い布を先生がゆっくりとめくりあげると、たれ目でどこにでもいそうな、毎朝鏡越しに見ていた自分の顔がそこにはあった。


(あぁ、やっぱり死んだんだな)


 僕は宙にぷかぷか浮かんでおきながら実感がわかなかったものの、こうしてみると改めて自分が死んだことを受け入れるしかないことを理解した。


 先生の言葉にゆっくりと横たわる僕に近づく両親と智司。僕の顔を見た瞬間、その場で膝から崩れ落ちる母と、その後ろでそっと母の肩に手を当てる父。智司はぎゅっと拳を握り、そして唇をかみしめていた。


「はい、間違いありません」


 父は、何かを押し殺すような静かな口調で答えると、先生は頷き、ご愁傷様でございます、と深々と頭を下げる。


「少し、席を外します。何かありましたら、そのあたりにいる看護師に声をかけてください」


 そう言って先生は扉の前で一礼をすると足早に立ち去った。


 家族だけになったその場を静寂が埋め尽くした。その空気の重さに、誰もが口を閉ざしていた。そして、その静寂を破ったのはやはり一家の主である父だった。


「人に優しく、正しくあれといったが……」


 しかし、あの父ですら、その先は言葉がでなかった。そしてそこまで言って父はがっくりと肩を落として首を垂れていた。


 ***


 僕の体はどうやら実家に運ばれたようだ。僕は遺体と、そして家族に付き添う形で正月の連休ぶりに帰省していた。新幹線のこだましか止まらない駅から車で二十分程離れた、都会と田舎のちょうど狭間に木造二階建ての実家は建っていた。

 僕の遺体は、元々僕の部屋だった二階の部屋に静かに寝かされていた。家族は全員、心身ともに疲れ果てている様子で、帰宅するとすぐに食事もとらずに風呂を済ませたようだ。


「母さん、ちょっと酒、出してくれるか?」


 普段、職場の付き合いで飲みに行っていたから、父が酒を飲めるのは知っていたが、家では晩酌なんて滅多にしなかったから僕は驚いていた。何なら、父が酒を飲むのを見るのは初めてかもしれない。それくらい衝撃的なことだった。


 母親は、お中元でもらって、いつまでも冷蔵庫で眠っていた缶ビールをグラスとともに風呂上りの父親に差し出すと、父は黙ってそれを受けとり二階へと上がっていった。


 どこにいくのだろう、と興味深くみていると、父親は僕の部屋の扉をあけて、電気も付けずに僕が横たわるベッドの傍に座った。窓から見える月明かりだけが、僕と父をやわらかく照らし出していた。

 父は何も言わずに缶ビールのプルタブをあけると、ゆっくりとグラスに注ぐ。胡坐をかいて座る父はグラスを僕の方に無言で掲げて、じっと琥珀色に輝く液体を見つめていた。

 そして、口を開いた。


「本当はな、お前とこうやって、酒を飲んでみたかったんだ」


 そう言ってグラスに口を運び一気に胃へ流し込んだ。


「いつでもできる……いつかできると思ってたら、こんなことになってしまって」


 そこまで言うと父親はグラスを床に置き、手を両膝の上に乗せて頭を下げていた。


「すまなかった。本当に、すまなかった。俺が、悟に対して『ちゃんとしろ、人に優しくしろ』って言ったばっかりに。お前の貴重な人生を奪ってしまった」


 僕は長男だ。喧嘩になると「お兄ちゃんが我慢しろ、弟には優しくしろ」と言われ続けた。父親は、いわゆる昭和のバブル世代、学歴の時代を生きてきた人間だ。だからか、「良い大学にいけ、大きな企業に就職しろ。そのためには、日頃からちゃんとしろ」と、とにかく厳しかった。時には叩かれたこともあった。でも、僕はそのおかげで今の自分があると思っていたから何も思っていなかった。しかし、父は気にしていたようだ。


「もっとお前のことを認めてやればよかった。褒めてやればよかった。よくやったと、いってやればよかった。そうしたら、俺はお前に『一緒に飲みに行こう』と誘えたのかもしれなかったのに……」


 父は、肩を震わせながらぐしゃぐしゃと自分の髪をかきむしると、俯いたまま動かなかった。そして、その瞳からは一筋の涙が零れ落ちていた。


 これが、僕の見た二つ目の涙達は、両親の涙だった。

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