春曙三世抄 第一部前世「能 逢坂」
めぐみ
前場
装束附
前シテ(旅の女) 鬘をつけ、鬘帯をしめ、増の面をかける。摺箔を着附に着て、上に水衣を着て、腰帯をしめる。手に杖を持つ。
後シテ(清少納言) 鬘をつけ、鬘帯をしめ、増又は小面の面をかける。摺箔を着附に着、緋の大口をはき、紅入の長絹を着る。
ワキ、ワキヅレ 角帽子を被り、無地熨斗目を着附に着、白大口をはき、上に水衣を着て、腰帯をしめる。
(次第)
ワキ、ワキヅレ〽衣の袖に雪の道。衣の袖に雪の道。逢坂山に参らん。
ワキ詞「是は白山権現に仕る僧にて候。我白山権現の勧進のため。この度都に上り候。先づは早参らばやと思ひ候。
ワキ、ワキヅレ〽時も名も雪の社を立ち出でて ワキヅレ〽雪の社を立ち出でて
ワキ、ワキヅレ〽伊吹の嶽を何とこそ都路行くはやすやすと。息長川の鳰鳥も。醒井あらむ曙の。やうやう明くる音羽山。他所に見ゆるは鳰の海。げに面白き景色かなげに面白き景色かな つとめての瀬田の唐橋うちわたり。たなびく雲も紫に明けゆく空ぞをかしける。明けゆく空ぞをかしける。
シテ詞「なうなうそこなる客僧に申すべき事の候
ワキ詞「客僧とは此方の事にて候か。何事にて候ぞ」
シテ〽我白山の神に。かそけき祈願を掛け申すを。枕に紛れ書き記して。 詞「名の形見とはなりたれども。 〽我が主を今も諸国を巡りて弔はんとて。浮む事なくさむらへば。係るべくは逢坂にて。主の供養を宣べ。我が跡とひてたび給へと。此の事申さんために。これまで参りて候」
ワキ詞「これは思ひもよらぬ事を承り候ものかな。さりながら易き間の事供養をば宣べ候べし。さて誰と志して回向申し候べき
シテ詞「まづ逢坂に参りつつ。后の供養を宣べ給はば。其時我もあらはれて。 〽ともに后を弔ふべしワキ〽不思議やそれこそ奇特なれ。いで枕をかきしは。
シテ〽懐かしや此身は浮世の土となれども
ワキ〽名をば埋まぬ天の下
シテ〽細くたなびき立つ雲の
ワキ〽清少納言にてましますか。
シテ〽懐かしやいつぞ出づるか九重の
地〽いつぞ出づるか九重の。花の都を置きながら草の庵を尋ねよとかき消すやうに失せにけりかき消すやうに失せにけり。 (中入)
(ワキ、ワキヅレ〽衣の袖に雪が降りかかる山道を越えて逢坂山に参ろうよ。逢坂山に参ろうよ。
「私たちは加賀の白山権現にお仕えする僧侶でございます。この度白山権現の勧進のため都にのぼる道中ですが、早く都に着きたいと先を急いでおります。
〽白山のごとく雪の積もった白山権現の社を出立して、伊吹山をなんと言って越そうか、それを越えれば都路をゆくのは容易いもの。息長川に浮かぶ鳰鳥たちも目を覚ます曙の時分に、音羽山も明るく朝陽に照らされてきた。あちらに見えるのは有名な鳰の海。まことに趣深い景色であるよ。早朝の瀬田の唐橋をうち渡ると、たなびく雲も紫色に染めながら明けていく空の美しさよ。
シテ「もしもし、そちらにいらっしゃるお坊様に申し上げたいことがございます」
ワキ「私のことでございましょうか。何事でございましょう」
シテ〽私は以前白山権現に他愛ない願を掛けたことを枕草子に書き記しました。
「枕草子は私の名の形見にはなりましたが、〽我が主の供養をしようと願って諸国を巡る内に、自らも往生できぬ身の上となりました。こうなったからには逢坂の関にて我が主の供養をしていただき、宿世拙いこの私の死後を弔ってくださいませ。このことをお願いしようと思ってここまで参上いたしました。
ワキ「これは思いがけないことを頼まれたことであるよ、そうはいっても仏道に仕える身に供養は容易いこと、お引き受けいたしましょう。それではどなたのために回向をいたしましょう」
シテ「まずは逢坂の関の明神に参詣しつつ、我が主である后の供養を執り行っていただければ、その時私も現れて共に菩提を弔いましょう」
ワキ〽それはなんと不思議な巡り合わせだ。さて枕草子を書いたというあなたは
シテ〽懐かしいことです。この身はさまよう死者となっても
ワキ〽名前は埋もれることなく天下に知られています
シテ〽あの細くたなびき立つ雲を見るとそれを思い出します。
ワキ〽あなたはあの清少納言でいらっしゃいますか。
シテ〽ああ懐かしい。いつ出たのでしょう内裏を
地〽あなた様は春めいて花も咲こうとする都を訪ねるのは後にしてどうぞ草の庵をお訪ねくださいと言い残して、女はかき消すように姿を消してしまった)
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