ハロウィンの残滓
森崇寿乃
ハロウィンの残滓(一)
十一月一日、午前四時四十四分。
街は死んでいた。
いや、正確には、死骸のように静まり返っていた。昨夜までの馬鹿騒ぎが嘘だったかのように、アスファルトの上には湿った紙吹雪と、踏み潰されたプラスチック製のカボチャの破片、そして正体不明の粘液だけが、未明の冷気に固着している。
渋谷。あるいは、かつてそう呼ばれていた場所。
人々が「ゲート」と呼ぶようになって久しいこの街は、昨夜、一年で最も派手な「解放区」と化していた。
俺、ミカゲは、その残骸の中心で煙草をふかしていた。
安物のフィルターから立ち上る紫煙が、やけに生暖かい。ゲートから漏れ出す「瘴気」のせいだ。それはこの街の空気と混じり合い、独特の甘ったるい腐臭となって、俺たちの肺を蝕んでいる。
俺の格好は、昨夜の残滓そのものだった。
ぼろぼろの黒いロングコート。これは「黄昏時の掃除屋」という、我ながら安直な仮装だ。左腕には、本物の血糊ではなく、本物の血で汚れた包帯が巻かれている。昨夜の「処理」でしくじった名残だ。
「……終わった、か」
呟きは、瘴気を含んだ空気に溶けていく。
背後で、ガシャン、と何かが倒れる音がした。
振り返る必要はない。昨夜、瘴気に当てられすぎて「変質」しかけた連中が、力尽きて倒れた音だ。彼らはもう人間ではない。「残滓」だ。
俺の仕事は、その「
人々は知らない。
十年前、この渋谷の地下深くで開いた「ゲート」が、何をこの世界に垂れ流しているのか。
人々は知らない。
ハロウィンで仮装し、狂乱の夜を過ごすことが、どれほどゲートを活性化させ、瘴気を濃くし、「変質者」を生み出しやすくしているのか。
政府はすべてを知りながら、経済効果という名の麻薬のために、この狂気の祭りを黙認している。いや、推奨すらしている。馬鹿げた話だ。
俺はコートの内ポケットから、古びた銀色の懐中時計を取り出した。
午前四時四十六分。
「夜明け」まで、あと少し。
ゲートから溢れ出す瘴気は、太陽光に弱い。夜明けと共に、大半の「残滓」は活動を停止し、塵と化す。俺たちの仕事は、それまでに処理しきれなかった大物――瘴気に適応し、昼間でも活動できる「成り損ない」を狩ることだ。
「ミカゲ!」
背後から、低く、鋭い声が飛んだ。
振り返ると、そこにはキリコが立っていた。
黒いレザーのライダースーツに身を包み、銀髪のショートカットを瘴気の風になびかせている。彼女の仮装は「銀色の魔女」。その手に握られているのは安っぽいオモチャの杖ではなく、高周波で「残滓」を断ち切る
彼女もまた、俺と同じ「掃除屋」であり、そして俺の唯一のパートナーだった。
「遅かったな、キリコ。もう
「寝言は寝て言え。センター街の奥が、まだ蠢いてる」
キリコは銀槍の穂先で、ぐい、と瘴気が最も濃い方向を指し示した。
「……マジかよ。あそこは昨夜、三回も「
「その浄化を生き延びたのがいる。それも、とびきり上等なヤツがな」
キリコの碧い瞳が、ゲートから漏れ出す微弱な光を反射して、猫のように細められる。
ぞくり、と左腕の傷が疼いた。
これは良くない兆候だ。俺の傷は、濃すぎる瘴気や、強力な「変質者」に反応する。
「どんなヤツだ」
「わからん。だが、昨夜の「
「主役……まさか、「ジャック」か?」
俺の声が、自分でも驚くほど上擦った。
「ジャック」。
ハロウィンの夜にのみ現れるとされる、正体不明の「変質者」。あるいは「ゲート」そのものの人格化。
毎年、最も多くの「変質者」を生み出す中心核でありながら、一度もその姿を捉えられたことのない、都市伝説のような存在。
「かもな。連中は、そいつを「ジャック・オー・ランタン」と呼んでいた」
キリコは吐き捨てるように言った。
「昨夜、仮装大賞のステージにいたらしい。本物のカボチャ頭を被って、本物の炎を撒き散らしていた、と」
「……
「『最高のパフォーマンスだ』と拍手喝采さ。死人が出るまでな」
最悪だ。
ハロウィンの熱狂は、現実と虚構の境界線を曖昧にする。人々は目の前で起こる異常事態を、「手の込んだアトラクション」か「過激なパフォーマンス」としか認識しない。それこそが、ゲートがこの夜を好む理由だ。
俺は短くなった煙草をアスファルトに押し付け、ブーツの踵で踏み潰した。
「行くぞ、キリコ。夜が明ける前に、そのカボチャ野郎の首を刎ねてやる」
「ああ。だが、気をつけろミカゲ」
キリコが銀槍を肩に担ぎ直す。
「そいつが撒き散らした「残滓」は、そこらの雑魚とはモノが違う。……甘い匂いがする」
「甘い匂い?」
「ああ。まるで、焼きたてのパンプキンパイみたいな、な」
その言葉を聞いた瞬間、俺は強烈な
忘れていた記憶。
幼い頃、まだゲートが開く前、平和だった時代。
母が焼いてくれた、あのパンプキンパイの匂い。
なぜ、今、そんなことを思い出す?
午前四時五十分。
俺とキリコは、甘く焦げ付くような腐臭が漂うセンター街の奥へと、足を踏み入れた。
街灯はとうに機能を停止し、頼りになるのはキリコの銀槍が放つ淡い光と、俺の左腕の傷の疼きだけだ。
(つづく)
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