明けの明星 第1章 月光の夜・扉の向こう(3)
扉を押すと、拍子抜けするほど静かに開いた。
外の雨音が背中側へ押し戻され、代わりに店内の空気が一気に流れ込んでくる。
まず、光だった。
強すぎない琥珀色の明かりが、カウンターと棚をやわらかく照らしている。
照明は天井からいくつか垂れ下がっているが、どれも控えめで、客席の顔を白々しく浮かび上がらせるようなことはしない。
続いて、音。
さっきまで路地に漏れていたピアノの曲が、
ここでは輪郭を持って宙に浮かんでいた。
低音が床のあたりで静かに響き、高音はグラスやボトルの間をすり抜けていく。
店内は思ったよりも広くない。
奥までまっすぐ伸びた木のカウンターと、
その前に並ぶ数脚のスツール。
壁にはレコードジャケットと古い楽器が、間隔をきちんと取って掛けられている。
飾りたいものだけを選んで置いた、という印象だった。
客は一人もいない。
さっき路地から見かけたような人影は、
跡形もなく消えていた。
「いらっしゃいませ。」
カウンターの奥から声がした。
白髪まじりの短い髪の男性が、
クロスを手にグラスを拭きながらこちらを見ていた。
年齢は五十代の後半くらいだろうか。
派手さはないが、背筋がまっすぐで、
立っているだけで店全体が少し落ち着いて見える。
「雨の中、お越しいただきありがとうございます。
よろしければ、タオルをお使いになりますか。」
整った敬語なのに、どこか堅苦しさはない。
ホテルのフロントとも違う、
長く同じ場所に立ってきた人間の口調だった。
「あ……ありがとうございます。」
受け取ったタオルは、洗いたての匂いがわずかに残っている。
髪と顔の水気をぬぐうと、
ようやく体の輪郭が自分のものに戻ってきた気がした。
「どうぞ、お好きな席へ。」
言われるまま、カウンターの真ん中あたりの椅子に腰を下ろす。
座面はほどよく沈み、
その感覚だけで、この店が急ごしらえではないことが分かった。
背中越しに、雨の気配が遠ざかる。
ガラス窓はあるはずなのに、
外の世界との境目が見えないように設計されている。
「当店は初めてでいらっしゃいますね。」
男性――この店のマスターだろう――が、軽く会釈する。
「はい。たまたま、通りかかって。」
自分でも説明になっていない答えだと思う。
けれど、それ以上うまく言葉が出てこない。
マスターは、責めるでもなく、深追いするでもなく、
穏やかな表情のまま続けた。
「雨の夜に、ふと路地へ入ってこられるお客様は、ときどきいらっしゃいます。
――何かを忘れたい方も、
何かを思い出したい方も。」
言葉の中身は少し大げさに聞こえるのに、
口調が静かなので、妙にすんなり耳に入ってくる。
「よろしければ、今夜の一杯をこちらでお任せいただけますか。
お好みを詳しく伺う前に、
雨上がりに合うものを一つ。」
提案というより、
“この場の流れとして自然な選択”を差し出されたような感じだった。
「……お願いします。」
暁は、少し考えてからそう答えた。
断る理由が見つからないし、
自分で何かを選ぶ気力も、いまはあまり残っていない。
「かしこまりました。」
マスターは短く答え、背後の棚へと向き直る。
棚にはラベルの向きがきちんと揃えられたボトルが並んでいる。
手つきは迷いがなく、
長年の習慣がそのまま形になったような動きだった。
氷を入れたグラスがカウンターに置かれる。
トングが触れるたび、
小さな音が『月光』の合間に入り込んで、すぐに溶けていく。
琥珀色の液体が静かに注がれた。
光を受けて、グラスの中で小さな炎のように揺れる。
「どうぞ。
無理なさらず、ゆっくり召し上がってください。」
暁はグラスを両手で包む。
外側は冷えているのに、
その温度が却って、指先から体の中心へ血が戻ってくる感覚をはっきりさせた。
ひと口、ゆっくり飲む。
強すぎないアルコールの刺激と、
遅れてくるほのかな甘さが、
胃のあたりからじんわりと広がっていく。
「……飲みやすいですね。」
思わず漏れた言葉に、マスターが小さく微笑んだ。
「ありがとうございます。
今夜のこちらには、外の雨も少しだけ混ぜてございます。」
冗談とも本気ともとれる言い方だが、
言い過ぎた感じはしない。
こういう店では、
このくらいの“物語”が一杯についてくるのかもしれない。
ふと、店の奥の方に目をやる。
さっきまで誰かが座っていたような気がする席が、一つ。
空のグラスも、コースターも見当たらない。
最初から何もなかったように、
椅子だけが静かにカウンターの前に並んでいる。
「さっきまで、お客さん……いましたよね。」
自分でも、なぜそんなことを聞いたのかよく分からなかった。
ただ、さっきこの店に入ってきたときの“気配”が、
そのまま喉のあたりに引っかかっていた。
マスターはグラスを拭きながら、落ち着いた声で答える。
「さて、どうでございましょう。
お席というものは、不思議なものでして――
お座りになる方がいなくなれば、
そこに誰かがいたことも、すぐに薄れてしまいます。」
はぐらかされた、と受け取ることもできた。
けれど、その口調には悪意も含みもない。
むしろ、“答えを急がなくていい”と言われたような感覚の方が強かった。
曲が終わり、店内に短い静寂が落ちる。
次の一曲が選ばれるまでの、境目の時間。
暁は、グラスの中の残りをもう一口だけ飲んだ。
外で降り続けている雨を、
この店の中から想像してみる。
さっきまで自分を包んでいた冷たさが、
ほんの少しだけ別のものに置き換わっている気がした。
そのとき、扉の方で
ごく小さな気配が揺れた。
ベルは鳴らない。
風も入ってこない。
けれど、
店に、誰かの輪郭がひとつ増えた――
そんな感覚だけが、静かに背中を撫でていった。
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