呪術師の娘と天命の皇帝
秦江湖
第1話 呪いの残香
夜半。幽玄国の広大な後宮は、煌びやかな灯りを水面に映し、息を殺したように静まり返っていた。しかし、その華麗な建築群の一角、北西の『落葉宮』と呼ばれる荒れ果てた小さな離宮だけは、闇に沈んでいる。
その宮の最も奥まった部屋。煤けた卓の前に後宮には似つかわしくない、地味な宮女服を身に纏って座る娘がいた。
地味な装いであるが、整った顔立ちをしており、その美しさは高位の妃にも劣らないだろう。しかし、常に微かな愁いを帯びた表情をしている。
豊かでつやのある黒髪を質素にまとめ、黒曜石のような黒く澄んだ瞳を持つ少女。
その名前は鈴麗(リーリン)と、いった。
鈴麗は、わずかに顔をゆがめると筆を握るを止めた。
「……また、傷が」
小さく呟き、肩衣をずらす。細く白い肩の皮膚に、赤黒い、微かな墨のような文様が浮き出ているのが見えた。普段は完全に隠れているその文様は、自身の力が周囲の呪いを感知し、それを浄化しようと働く時に現れる、呪術の負荷の証だ。
鈴麗は、国を破滅に導くとされる「呪術師の血族」の末裔である。
その血筋ゆえに、宮廷の隅に閉じ込められ、監視されている身だ。
彼女の祖先が国を救った英雄なのか、それとも呪いをかけた悪鬼なのか、今や知る者は少ない。ただ、彼女の存在自体が、皇帝にとって「利用すべき強力な道具」であり、臣下にとっては「忌まわしい不吉の兆し」でしかなかった。
「どうか、何事もありませんように」
鈴麗は文様をそっと指先でなぞると、すぐに肩衣を元に戻した。目立たず、静かに生きること。それが彼女に課せられた唯一の使命だった。
**************
翌朝。後宮に衝撃が走った。
皇帝の寵愛を一身に受けていた若き妃、芳嬪(ファンピン)が、一夜にして全身の血を抜き取られたかのように衰弱し、意識不明の重体となったのだ。宮医たちは口々に「原因不明の奇病」だと囁き、治療法を見つけられない。
やがて、その奇病が呪術によるものではないかという噂が、後宮全体に広がった。
「呪術師の娘を呼べ。すぐに連れて来い」
皇帝の勅命は、冷たい風のように落葉宮に届いた。
鈴麗は恐る恐る、豪華絢爛な芳嬪の宮殿へと足を踏み入れた。部屋に入った瞬間、頭痛と共に肩の文様が脈打つように熱を持つ。芳嬪の寝台に近づくと、その感覚はさらに強くなった。
(これは、尋常ではない……)
芳嬪の憔悴しきった顔は、まるで生きる屍のようだった。医官が治療を諦めかけた時、鈴麗はそっと、妃の頭上を覆う薄い絹の帳に触れた。
その瞬間、鈴麗の脳裏に激しい閃光が走る。
「ヒッ……!」
絹の帳から、無数の黒い影が生まれ、妃の身体に絡みつく映像が流れ込んできた。それは、帳に織り込まれた黒い呪いの糸であり、妃の「生気」を時間をかけて吸い取り、代わりに「死」を注ぎ込んでいた。
「この帳を、燃やさねばなりません!」
鈴麗の強い声に、医官たちは息を飲んだ。彼女の顔には、普段の穏やかさはなく、微かな狂気と焦燥が混じっていた。
**************
騒ぎを聞きつけ、皇帝**黎月(リーユエ)**が到着した。
黎月は、鈴麗を見るなり鋭い視線を向けた。その瞳は冷たい氷のようで、一切の感情を読み取らせない。
「貴様が、この娘か。この妃にかけられた呪いを解け。できねば、お前の命はないと思え」
その言葉は、まるで彼女が道具であることを確認するかのように冷酷だった。
鈴麗は顔を上げず、震える声で答えた。
「妃様を蝕むのは、部屋にかけられた呪詛の網です。今すぐに、この帳を燃やしてください。時間がありません」
黎月は、疑念を隠さずに医官を見たが、医官たちはただ震えるばかり。彼は一瞬考え、即座に命じた。
「燃やせ」
帳は炎に包まれ、その瞬間、黒い糸の塊が苦悶の声を上げて消滅した。芳嬪は微かに息を吹き返し、命の危険を脱した。
「見事だ」
黎月はそう言い、初めて鈴麗の顔を真正面から見つめた。その美しさと、先ほどの強い眼差しに、一瞬だけ何かを感じたようだった。
「これより、貴様は朕の直属とする。呪い解きとして、後宮の闇を暴け」
「は……」
鈴麗が返事をしようとしたその時、彼女の身体に異変が起きた。肩の文様が熱い溶岩のように膨れ上がり、全身の皮膚にまで広がり始めたのだ。あまりに強力な呪術に触れた反動で、封印していた裏の力が目覚めかけていた。
鈴麗は激しい痛みに耐えかね、その場に崩れ落ちた。
「ぐっ……ああ……」
黎月は動揺を隠せない。目の前の娘は、血を吐きはしないものの、まるで全身を鋭利な刃物で切り裂かれたかのように苦しんでいる。そして、その身体には、先ほど見た黒い文様が、まるで刺青のように鮮烈に浮き上がっていた。
黎月は、彼女の美しさが、恐ろしい呪いの代償であることに気づき始める。
そして、倒れた鈴麗の意識が、暗闇に沈んでいく直前。彼女の表情は一瞬で変化した。
穏やかな鈴麗の顔から、一切の恐怖と感情を排した、妖しいほどに冷徹で超越的な美貌が浮かび上がった。
その瞳が、初めて黎月を射抜いた。
「…ふ、ざけるな。私を道具にしようなどと」
それは、鈴麗ではない、幽華(ヨウホア)の声だった。
黎月は、あまりの衝撃に言葉を失い、ただ目の前の美しくも危険な超越者を見つめることしかできなかった。
幽華(鈴麗)が白い光に包まれ、幽華の相が消えると、後には気を失っている鈴麗が倒れているだけだった。
幽華が現れたのは一瞬だったが、見た者すべてが畏怖を抱くには十分だった。
その時、後宮に広がる闇の奥から、冷たい笑い声が響いた。
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