被験体IR15:モルモットから「魔女」へ——存在してほしくなかった世界で

@dgz__

第1章:扉の向こうのノイズ

夜なのか、昼なのか――もう分からない。

窓はない。最初からなかった。


天井のライトがときどきチカチカと光る。

「チッ、チッ」と、眠たそうに。まるでそれ自身も眠りたがっているみたいに。


部屋の隅で、私は身体を小さく丸める。

腕の中には猫がいる。

――本物じゃない。そう言われた。


柔らかい。噛まない。血も流さない。

ぎゅっと抱きしめると、胸の痛みが少しだけ薄れていく。


「……どれくらい、ここにいるんだろう?」


静寂。


また同じ問いが頭の中を漂う。

返事はない。いつもそう。

外には誰もいない。誰も、答えてくれない。


――カチリ。


あの嫌な音。


扉の下にある、小さな金属の蓋。

食事のトレイが通る、あの隙間。


今日は、開かなかった。

食べていない。


昨日も……たぶん。

いや、今日の朝だったかもしれない。


つま先を動かす。

いち、に、さん。――ちゃんと、ある。


まだ、生きてる。


「――被験体IR15、待機フェーズ」


最後に聞いたのは、その機械の声。

誰が喋っていたのか、分からない。

顔を見たことなんて、一度もない。いつも声だけ。


被験体。

……それが、私?


アイリス。

それが、名前……だった?

誰がつけたの? 私?


思い出せない。

でも、響きは悪くない。

やさしい音。あの猫と同じ。


「アイリス」

――そう。きっと、それでいい。


ときどき、想像する。

野原。雲。川。

見たことはないけれど。

眠る前に流れる音声で、そんな言葉を聞いたことがある。


「おやすみなさい、アイリス」

女性の声。

あたたかくて、やさしい。……でも、録音されたもの。


安心と絶望が、胸の奥でまざりあう。


――もし、扉を開けたら?


外には何がある?


長い廊下。白い光。

見えない声。

ときどき、他の子たちの悲鳴や泣き声。

でも、今は……静まり返っている。


その時――


ドンッ。


外で、何かがぶつかった。


私は固まった。

猫を強く抱く。

息を止める。


「――同期フェーズ、準備完了。」


低い声。録音じゃない。

……来たの?


猫が手から落ちた。気づかない。


脚が震える。


「……これ、まずいですよ……!」

若い声。震えてる。扉の向こう。


誰?


「黙れ。もう後戻りはできん。」


カチ、カチ。

金属音。

扉が、開く。


光――


まぶしすぎる。


アイリスは目を細めた。

視界が、白に染まる。


腕の中の猫を、もう一度抱きしめる。

心臓が、逃げようとしているみたいに速く打つ。


入ってきた人影。

背が高く、まっすぐ立っている。

白衣を着ていて、胸には黒い円の紋章――見たことのない印。

けれど、それを見るだけで分かる。

この人は、私に何をしてもいい存在だ。


「被験体IR15。」

穏やかな声。けれど、その奥に何かを隠している。

それが哀れみなのか、優越なのか――分からない。


「よく眠れたかい?」


私は答えない。

いつも通り。

でも今日は……指先が少し震えた。


彼は気づいた。いつもそうだ。


「怖がらなくていい。今日は侵入的な実験はしない。ただ、一緒に来てほしいんだ。」


私は動かない。


男が一歩、また一歩と近づく。

人工の光の下で顔が見える。

金髪。整った笑顔。完璧な形。


――アイゼンベルク博士。


「君に見せたいものがある、アイリス。」


……名前。呼ばれた。


それは、禁じられていた。

技術者たちはいつも「被験体IR15」と呼ぶ。

「試験体」。

「部分的成果」。

名前なんて、誰も使わない。


それなのに――彼は言った。

まるで、私を“人間”として覚えているかのように。


脚がふらつく。

けれど、立ち上がる。

震える膝。

歩く感覚を忘れていた。

もしかしたら、本当に何ヶ月も立っていなかったのかもしれない。


アイゼンベルクが手を差し出す。


「さあ、行こう。」


――理由は分からない。

でも、その手を取った。


指先は冷たかった。

けれど、金属のような冷たさではない。

どこか、懐かしい感触。

初めてじゃないような、そんな気がした。


私たちは歩く。


白い床。

白い壁。

白い光。


すべてが、白。


ただ、

その白の中に――“汚れ”がある。


技術者たちは気づいていないと思っている。

けれど私は見ている。


小さな点。

乾いた茶色のしみ。

……あれは、絵の具じゃない。


聞かない。

聞いちゃいけない。


一度だけ、聞いたことがある。

その時は罰を受けた。

光が消えた。何時間も――いや、何日も。


――「外の世界、覚えているかい? アイリス」

歩きながら、博士が問いかける。私を見ずに。


外の世界……?


その言葉は、神話みたいに聞こえる。

眠るときの録音にしか出てこないもの。


空。

山。

川。


私は――天井しか知らない。


「今日は、すごいものを見せてあげよう。」


……すごいもの?


叫び声のあとに爆発する、あの“すごさ”?

それとも、部屋7の男の子が突然黙った、あの“すごさ”?


言葉は出ない。

猫を抱きしめる。

耳が少しちぎれていても、まだ一緒にいる。

この子は、決して叫ばない。


自動ドアを2つ通り抜ける。

マスクをした人たちが私たちを見る。

挨拶はしない。

私を見ると、みんな目を逸らす。


……怖いの?

それとも、哀れんでるの?


博士がパネルに触れる。

緑の光。

もう一枚の扉が開いた。


中は――広い。

さらに白い。

でも、中央には“それ”があった。


金属のアーチ。

表面には無数のルーン。

光っている。

鼓動している。


――生きている、みたいに。


胃が、きゅっと縮む。


「これはポータルだ、アイリス。」

博士の声が落ち着いて響く。

「そして君が……これをくぐるんだ。」


天井のライトが点滅した。

いち、に、さん――

まるで、カウントダウンのように。


足音。

アイゼンベルクが現れる。

前と同じ靴。古いのに、清潔。


「IR15」――その名が呼ばれる。

嫌いな名。名前じゃない。ただの番号。ただのもの。


――――


私は歩かされる。

まるで歩けない子供みたいに。

でも、本当は歩ける。

……ただ、歩こうとしなかっただけ。


ストレッチャーの上は冷たい。

革のベルトは、それ以上に。

四本。

手首に二つ。足首に二つ。


昨日と同じ。いつも通り。


カチ。カチ。

一つ、また一つ。締められていく。


「抵抗しないでください。これはプロトコルです。」


そう、いつも。

いつも“手順”だ。


首にチクリ。

小さな痛みが広がる。

弱い炎。液体の眠り。


モニターが点灯する。

青い画面。

踊る線。

意味の分からない数字。


科学者たちが話している。

でも言葉は、遠い。

ガラスの箱の中で蜂が飛んでいるような音だけ。

一つだけ、聞き取れた。


「安定している。」――彼女の脈は安定している。


……安定?

爆弾だって、爆発する前は安定してる。


天井が――動いている?

いや、私が動いてる?


アイゼンベルクが近づく。

顔が、すぐ目の前に。

冷たい。

温度じゃない。――心の温度が。


「IR15、聞こえるか?」

「応答しろ。」


応えようとする。

けれど、口が動かない。

考えは風に散る葉みたいに、遠くへ飛んでいく。


“これは何の実験?”

“なぜ私?”

“なぜ、まだ生きてるの?”


――音が膨らむ。

光が強くなる。

白が白を飲み込んでいく。

空気でさえ、形を持ち始める。


「ユニット04への電流転送を開始――3……2……」


――1。


チ……チャキッ。


ストレッチャーが動き出す。

軌道上を滑るように。冷たく、無慈悲に。


その先にあるのは、巨大な円形の門。

無数のコイルが震え、

不自然なエネルギーが脈打っている。


……これ、違う。

おかしい。

身体の内と外、どこからともなく――圧が迫る。


痛みじゃない。

でも、痛みに似ている。

存在そのものが、引き裂かれそうな感覚。


ベルトを掻く。

動けない。

叫びたくても、声が置き去りにされていく。


そして――声。


「フローを80%まで上げろ!」

「コイル2が飽和してるぞ!」

「濃縮ウランなんて使うべきじゃ――!」

「圧力が上がりすぎてる!」

「中止しろ!」

「システムエラー!コード509!」

「リアクターB-2、過熱!」

「手動シャットダウン!早く閉じろ!!」

「もう遅い――!! エネルギーが最大値を突破する!!」


「……なに? なにを言ってるの……?

やめて……!

や――……」


アーチが、白い光に爆ぜた。

影をすべて飲み込むほどの、眩しい光だった。


すべてが消えた。


音も。

光も。

声も。


まるで世界そのものに蓋がされたみたいに。


アイリスは瞬きをした。

一度、そしてもう一度。

まだ横たわっていた。

拘束具の感触はもうなかったが、動く勇気もなかった。


焦げたような、金属の匂い。


――ここは……どこ?


何の音もしない。

本当に、なにも。


ただ……小さな音がした。

……ニャ。


首をゆっくりと動かす。

重い。


そこにあった。

さっきまで握っていた、あのぬいぐるみ。


指を動かすと、それはまだ手の中にあった。


ニャ。


……今の、なに?


また聞こえた。

今度は、少し大きく。


ニャアア。


ぬいぐるみに口があった。

目もあった。


そして――

声があった。


瞳孔が収縮した。

恐怖ではない。

理解できなかったからだ。


だって、こんなの――

今までと違う。


天井は同じ。

でも、空気が違う。

冷たい。

広い。


足音も、白衣の人たちの声もない。

誰もいない。


誰も――いない。


施設そのものは残っているのに、

中身が空っぽになったみたいだった。

人のいない写真のように。


ぬいぐるみが歩いた。


ニャ。


アイリスはただ見ていた。

怖がるべきなのかも分からなかった。

「怖い」という言葉すら、知らなかった。


ただ――ひとりだった。

そして、それは間違っている気がした。


胸が震えた。


壊れたのは、自分……?


視線をアーチに戻す。

円形の門は真っ黒に焼け焦げていた。


でも――

それ以外は、変わらない。


ただ一つ。

もう誰も、それを「変わらない」と言ってくれないだけ。


……


アイリスは息をのんで起き上がった。


呼吸が乱れ、身体が震える。

両腕はまだ何かを抱いていた。

視線を落とす。


猫。

いや――

ぬいぐるみ。


焦げた耳、汚れた毛。

ボタンの目はずれていて、片方は糸一本でかろうじて繋がっていた。


瞬き。


静寂。


光は消え、

機械は止まり、

声も、音も、足音も、何もない。


研究室全体が、時間を止められたようだった。


金属の床は氷のように冷たく、

周囲には溶けたケーブルと錆びた器具が散らばっている。


焦げ臭さはもうない。

何の匂いもしない。


立ち上がろうとした。

足が言うことを聞かない。

指先がしびれている。


――夢? それとも、まだ……眠ってる?


数歩、歩いた。


何も動かない。


非常灯も、画面も、観察窓のガラスも。

どれも、壊れていた。


振り返る。

自分を縛っていたベルトは、

溶けて、形を失っていた。


誰もいない。


医者も。

研究員も。

カメラも。

警報も。


なにも。


――私だけ。


私と……この猫だけ。


足を引きずりながら歩き出す。

割れたガラス、錆の跡、沈黙の重さが胸を押しつぶす。


誰かを探しているのか。

それとも――何かを。


分からない。

ただ、歩いた。

止まるのが怖かった。


通路は同じ。

冷たく、金属の匂い。


でも、何かが違う。


開いている扉。

切れたケーブル。

途中で放り出された担架。


そして――見つけた。


半開きの隔壁。


記憶にある。

寝室区画の扉。

いつも施錠され、監視されていた。

下から漏れる白い光は病室のように冷たく、息苦しかった。


でも今は――違う。


光が違った。

暖かくて、柔らかい。

金色に近い。


アイリスは立ち止まった。

胸が締めつけられる。


理由は分からない。


でも、その光は――

この場所のものじゃない。

この世界のものじゃない。


それでも、不思議と惹かれた。

見えない糸に引かれるように、一歩、また一歩。


ぬいぐるみを片手に、もう片方で扉を押す。


――そして、見た。


それは部屋じゃなかった。


風景だった。


そこにあるはずの灰色の壁も、

並んでいるはずの扉も、もうなかった。


広がっていたのは――草原。

緑で、生きていて、風に揺れていた。


そんな風など、本来ここには存在しないはずなのに。


空は青かった。

あり得ないほど、深く、澄んでいて。

ゆっくりと流れる雲が、まるで時間そのものを忘れたように漂っていた。


窓も、天井もない。

だが境界もなかった。


まるで誰かが「現実」の一片を無理やり切り取って、

この扉の向こうに貼り付けたみたいだった。


――そして、匂い。


鉄でも、

焦げたプラスチックでも、

塩素でもない。


湿った土の匂い。

澄んだ風の匂い。

自分のものではない記憶から抜け落ちた、懐かしい匂い。


アイリスは立ち尽くした。


手にぶら下がるぬいぐるみは、息を止めているように動かない。

もう一方の手――扉を開けた手が、わずかに震えた。


この場所は……


施設の一部ではない。

プロジェクト・ムネモシュネのものでもない。

彼女の世界のものでもない。


それなのに――呼ばれている気がした。

まるでずっと、彼女を待っていたかのように。


まるで――

最初から、彼女の名前を知っていたかのように。

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