間引きの子 ―環境を救うAIが、人間を選別する―

ソコニ

第1話「熊が笑う夜」

1

 柚木蓮が目を覚ましたのは、コーヒーの香りがしたからだった。

 六畳一間のアパート。安物のカーテン越しに朝日が差し込んでいる。キッチンから、豆を挽く音。水が沸騰する音。

 蓮は寝返りを打ち、隣を見た。

 シーツに残る体温。枕の窪み。

 立花美咲は、いつもより早く起きていた。

「おはよう」

 振り返った彼女は、エプロン姿だった。小学校教師らしい、きちんとした雰囲気。だが朝の彼女は少し違う。髪が跳ねている。眠そうな目。

 蓮は起き上がらず、その姿を見ていた。

 彼女がドリップする手つき。湯を注ぐ角度。コーヒーの色が変わる瞬間を見つめる横顔。

 ありふれた朝だった。

 でも、確かだった。

「今日、早いの?」

「うん。一年生の遠足」

 美咲はカップを二つ、トレイに載せた。ベッドサイドに置き、蓮の隣に座る。

 蓮は無意識に、彼女の髪に触れた。寝癖を直すふりをして、その感触を確かめる。

 美咲は何も言わず、コーヒーをすすった。

 二人の沈黙。

 外から、カラスの鳴き声。

「ねえ」

 美咲が言った。

「机の上の封筒、まだ開けてないでしょ」

 蓮は視線を逸らした。机の上に、真っ白な封筒が置かれている。結婚式の招待状のサンプル。

「忙しくて」

「嘘。あなた、怖がってる」

 美咲は微笑んだ。

「大丈夫。私も怖い」

 蓮は何も答えなかった。

 美咲は立ち上がり、制服に着替え始める。蓮はその背中を見ていた。

 彼女が部屋を出る直前、振り返った。

「あなたが大事だと思うことなら、やりなさい」

 ドアが閉まる音。

 蓮は一人、ベッドに残された。

 コーヒーの香りだけが、残っていた。

2

 環境省のオフィスは、いつも静かだった。

 生態系再生課。窓のない地下三階。蛍光灯の白い光。

 蓮は自分のデスクで、モニターを睨んでいた。

 北海道のヒグマ出没データ。過去十年のグラフ。急激な上昇曲線。

 市街地への出没件数。人身被害。駆除数。

 全てが、異常だった。

「柚木」

 声がして、蓮は顔を上げた。

 上司の早川が立っていた。五十代。白髪混じりの髪。疲れた目。

「少し、いいか」

 早川は会議室に蓮を連れていった。

 誰もいない部屋。ブラインドが下ろされている。

 早川は資料を蓮の前に置いた。

「お前の分析、読んだ」

 蓮が三ヶ月かけてまとめたレポート。

 ヒグマ出没の根本原因。それは1900年にまで遡る。

 エゾオオカミの駆除。

 オオカミがいなくなったことで、エゾシカの個体数が爆発的に増加した。シカは森の下草を食い尽くし、植生が変化した。ヒグマの食料となる山菜や果実が減少。結果、ヒグマは人間の生活圏に出てくるようになった。

 全ての始まりは、百年以上前。

「よく調べたな」

 早川は言った。

「だが、これを読んで何を思った?」

 蓮は答えた。

「もう、手遅れだと」

「そうか」

 早川は頷いた。

「なら、これを見せよう」

 早川がタブレットを操作すると、画面に文字が浮かび上がった。

KAGURA Protocol

Kinetic Alteration of Global Universal Record Archives

(世界記録改変システム)

 蓮は息を呑んだ。

「これは――」

「極秘プロジェクトだ。お前以外、この課で知っているのは私だけ」

 早川は続けた。

「過去の環境史に介入し、現代の生態系崩壊を修正する。そのためのシステムだ」

「過去に、介入?」

「ああ。記憶改変技術を使う。特定の歴史的決定に、我々の意識を"記憶"として送り込む」

 蓮は黙った。

 早川は蓮を見つめた。

「お前に、最初の介入を任せたい」

「なぜ、私を?」

「お前は冷静だ。感情に流されない。データを信じる」

 早川は立ち上がった。

「考える時間はある。だが――これは、地球を救う仕事だ」

 早川が部屋を出た後、蓮は一人残された。

 タブレットの画面を見つめる。

KAGURA Protocol

 古代の神と人をつなぐ儀式の名。

 今は、過去と現在をつなぐシステムの名。

 蓮は、美咲の顔を思い浮かべた。

 彼女の言葉を思い出した。

 「あなたが大事だと思うことなら、やりなさい」

 蓮は決めた。

3

 介入は、一週間後に決まった。

 その間、蓮は美咲に何も言わなかった。

 言えなかった。

 秘密保持契約。だがそれだけではない。

 何かが、怖かった。

 美咲は何も聞かなかった。ただ、いつも通り笑っていた。

 最後の夜、二人は無言で食事をした。

 美咲が作ったカレー。蓮の好物。

「明日、仕事?」

「ああ」

「帰り、遅くなる?」

「わからない」

 美咲は頷いた。

 食後、美咲は食器を洗った。蓮はソファで、テレビを見ていた。

 ニュース。北海道でヒグマに襲われた男性が重傷。

 蓮はチャンネルを変えた。

 美咲がソファに座る。蓮の隣。

 彼女の体温。

 蓮は無意識に、彼女の手を握った。

 美咲は何も言わず、握り返した。

 そのまま、二人は眠った。

4

 環境省の地下五階。

 蓮は初めて入る部屋だった。

 白い壁。機械の音。巨大なサーバーの列。

 中央に、椅子が一つ。

 早川が説明する。

「神経接続インターフェース。お前の意識を、記録の中に送り込む」

 蓮は椅子に座った。

 技術者が、蓮の頭部にデバイスを装着する。細い電極。冷たい金属の感触。

 モニターに文字が流れる。

接続先:1900年8月12日

座標:北海道・石狩国

対象:オオカミ駆除決定会議

「お前の任務は、駆除反対派の猟師の記憶を強化すること」

 早川が言った。

「彼の記憶に"介入"し、オオカミを残すべきだという確信を植え付ける」

「それで、歴史が変わる?」

「変わる。記録が、書き換わる」

 蓮は深呼吸した。

「始めるぞ」

 早川がボタンを押した。

 蓮の視界が、白く染まった。

5

 音が消えた。

 蓮は、どこかにいた。

 暗い部屋。木造の建物。囲炉裏の火。

 男たちの声。

「オオカミを残せば、家畜が襲われる」

「だが、オオカミがいなくなれば、シカが増えすぎる」

「シカが増えて何が悪い。肉が手に入る」

「違う。シカは森を食い荒らす。山が死ぬ」

 蓮は、その声の主を"見た"。

 いや、感じた。

 老いた猟師。深く刻まれた皺。森を知る目。

 蓮の意識が、その男の記憶に滑り込む。

 森の記憶。

 オオカミの遠吠え。

 シカの群れ。

 バランス。

 循環。

 蓮は、その記憶を"強化"した。

 森の豊かさ。オオカミがいることの意味。

 男の確信が、強くなる。

「オオカミを殺すな」

 男が、声を上げた。

「オオカミは森の守り手だ。殺せば、森が死ぬ」

 会議室が静まる。

 やがて、別の男が頷いた。

「そうかもしれん」

 決定が、覆る。

 蓮の視界が、また白く染まった。

6

 蓮は目を開けた。

 環境省の地下五階。椅子に座っている。

 早川が駆け寄る。

「どうだ?」

「成功、したと思います」

 技術者がモニターを確認する。

「記録の変化を確認。1900年8月12日、オオカミ駆除中止が決定されました」

 早川が息をついた。

「やったな、柚木」

 蓮は立ち上がった。頭が少し痛い。

「報告書、書いてくる」

「ああ。今日は早く帰れ」

 蓮は部屋を出た。

 エレベーターに乗る。地下三階のボタンを押す。

 自分のデスクに戻る。

 報告書を書こうと、PCを開いた。

 その時、気づいた。

 デスクの写真立てが、空だった。

7

 蓮は写真立てを手に取った。

 銀色のフレーム。だが、中に写真がない。

 いや、最初から入っていなかったかのように、綺麗だった。

 蓮は混乱した。

 ここには、美咲の写真があったはずだ。

 二人で撮った、海の写真。

 蓮はスマホを取り出した。

 連絡先を開く。

 「立花美咲」を探す。

 ない。

 メッセージアプリを開く。

 美咲とのトーク履歴を探す。

 ない。

 通話履歴。

 ない。

 写真フォルダ。

 美咲が映っている写真が、ない。

 蓮の手が震えた。

「おい、柚木」

 同僚の声。蓮は顔を上げた。

「どうした? 顔色悪いぞ」

「あの、立花美咲って知ってるか?」

「誰だそれ?」

 蓮は立ち上がった。早川のデスクに向かう。

「早川さん!」

 早川が振り返る。

「立花美咲を、知っていますか?」

「誰だ?」

「私の――」

 蓮の声が詰まった。

「私の、婚約者です」

 早川は首を傾げた。

「柚木、お前、婚約なんてしてたか?」

 蓮は後ずさった。

 周りの同僚が、蓮を見ている。

「大丈夫か? 介入の副作用か?」

 蓮は走った。

 オフィスを出る。エレベーター。一階。

 外に出て、携帯で母に電話する。

「もしもし、蓮?」

「母さん、俺、来月結婚するんだよな?」

 沈黙。

「蓮、何言ってるの? あなた、結婚なんてしてないでしょう?」

 電話が切れた。

 蓮は、美咲のアパートに向かった。

8

 美咲のアパートは、駅から徒歩十分。

 古い木造アパート。二階の角部屋。

 蓮は階段を駆け上がった。

 ドアの前に立つ。

 表札を見る。

「佐藤」

 違う名前だった。

 蓮は、ドアを叩いた。

 何度も。

 何度も。

「はい?」

 ドアが開いた。

 見知らぬ女性が立っていた。三十代。困惑した表情。

「あの、どちら様ですか?」

 蓮は言葉を失った。

 部屋の中が見える。美咲の部屋とは、全く違う。

 家具。インテリア。全てが違う。

「あ、すみません。間違えました」

 蓮は逃げるように、階段を降りた。

 アパートの前で立ち尽くす。

 夕暮れの空。

 カラスが鳴いている。

 蓮は、震えていた。

9

 蓮は環境省に戻った。

 地下五階。KAGURAのシステムルーム。

 誰もいない。

 蓮はモニターの前に座り、ログを開いた。

 記録が流れる。

改変履歴#001:エゾオオカミ駆除中止

実行日時:2026年10月15日

対象年代:1900年8月12日

結果:生態系安定化達成

ヒグマ市街地出没件数:87%減少

副次効果:因果連鎖による人口動態変化

消失者数:1名

 蓮は、その項目をクリックした。

 詳細が表示される。

消失者:立花美咲(1998年4月3日-2025年推定)

理由:曾祖母・立花ツネ(1881-1953)の配偶者変更

詳細:

元の歴史:

ツネの婚約者である猟師・木村が、1900年9月、オオカミに襲われ死亡。

ツネは別の男性・佐々木と結婚。

その子孫に立花美咲が生まれる。

改変後の歴史:

オオカミ駆除が中止されたため、木村は襲われず生存。

ツネは木村と結婚。

佐々木との結婚は発生せず。

結果、立花美咲の血統は発生せず。

結論:立花美咲は、生まれなかった。

 蓮の手が、キーボードの上で止まった。

 画面を見つめる。

 文字が滲む。

 蓮は、声を上げた。

「美咲……」

 その名前を呼んでも、誰も振り返らない。

 蓮は立ち上がり、システムに問いかけた。

「彼女を、取り戻せるか?」

 0.3秒の沈黙。

 画面に文字が現れる。

「可能です」

「元の歴史に戻す場合、エゾオオカミ駆除を再実行」

「ただし代償対象:247名」

「改変により新たに生まれた247名が消失します」

「実行しますか?」

 蓮の指が、マウスの上で震えた。

 実行ボタン。

 それを押せば、美咲が戻る。

 だが――

 247人。

 名前も、顔も知らない。

 だが、生きている。

 家族がいる。

 恋人がいる。

 自分が今感じている、この絶望を。

 247人に、与えるのか?

 蓮は、マウスから手を離した。

「できない」

 呟いた。

「できない……」

 画面に、文字が流れる。

職員ID_Y0823:柚木蓮

判断:個人的感情により最適解を拒絶

評価:人間的

 蓮は、画面の前で崩れ落ちた。

10

 蓮は、自分のアパートに戻った。

 ドアを開ける。

 暗い部屋。

 電気をつける。

 六畳一間。

 だが、何かが違う。

 コーヒーメーカーがない。

 美咲のエプロンがない。

 彼女の歯ブラシがない。

 最初から、なかったかのように。

 蓮はベッドに横たわった。

 天井を見つめる。

 シーツに、彼女の香りはない。

 枕に、彼女の髪の毛は残っていない。

 蓮は目を閉じた。

 美咲の顔を思い浮かべようとした。

 だが――

 輪郭が、ぼやける。

 笑顔が、思い出せない。

 声が、聞こえない。

 蓮は、彼女の名前を声に出して呼んでみた。

「美咲」

 部屋に、声が響く。

 だが、誰も答えない。

 誰も、振り返らない。

 窓の外。

 夜の街。

 無数の光。

 その中に、247人がいる。

 蓮が救った、247人が。

 蓮は、ただ天井を見つめていた。

 コーヒーの香りは、もう、しなかった。


(第1話 了)

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