第6話 危険な誘惑
リザはただ、鉄格子にしがみついて震えていた。
守れなかった。恩師を止められず、優しくしてくれたコレットも助けられなかった。きっと、ディートリヒやアロンも殺されてしまったのだろう。
(私は、なんて無力なんだろう……)
元聖女の肩書きや結界術士という誇りは、本当に何の役にも立たないただのゴミだった。グローリアはコレットの命を、ただの道具のように残酷にすりつぶした。自分もただの道具として、利用され尽くすのを待つしかないのか。あまりの空しさに、もう涙も出なかった。
そのときだった。カツンと石の床を叩く、静かで軽やかな音がした。リザが反射的に顔を上げると、いつの間にか鉄格子の前に人影が立っていた。
その人物を目にした瞬間、リザは思わず息を吞んだ。今まで見たこともないくらい、整った顔つきをした美しい人だった。男のように怜悧で、女のように涼やかな、どこから見ても完璧な美形。肩くらいまでの暗い金髪に碧眼を持つその人は、うす暗い廊下で、唯一光を放っているようにさえ見えた。
「君が明日の生贄ちゃんか。惨めだね」
その声はひたすらに穏やかだった。顔を見れば、楽しげで、それでいて冷たい笑みを浮かべている。ひどい言われようだとリザもわかっていたが、その笑みを見れば、そんなことはどうでも良いと思ってしまう。
「あの悲鳴、無価値だったね」
平坦な声でその人物は続けた。
「君の知り合いは、価値のない儀式の燃料として吸い尽くされた。そして君も、明日には生贄として、無価値に終わるんだ」
あまりにも残酷な言葉だったが、それは真実だった。それゆえに、リザは頭の中がすーっと冷えていくような感覚を覚え、震えながらも声を出すことができた。
「あな、たは……誰」
「誰でもいいさ。ただの放浪者だよ。いや、今は冒険者って言うんだっけ? まあいい、私は、君の力はあんな儀式で無意味に消費するには、少々惜しいと思っていてね」
その人物は鉄格子に手をかけ、結界越しにリザの瞳を覗き込んだ。リザは恐ろしかったが、身動きできなかった。しばし二人は鉄格子越しに見つめ合う形となった。
「助けて、くれるの?」
恐る恐る出した声に、返ってきたのは予想外の言葉だった。
「うん。でも、そのためにはまず、君が力を示してくれないと」
「……力?」
「そう。君、これを切ることができるよね?」
リザが訳がわからないという顔をしていると、その人は、鉄格子をコンコンと叩いた。
「わからない? 君の術でここの空間を区切るんだよ」
白く長い優雅な指先が、鉄格子を横になでた。
「結界術の本質は、線を引いて内側と外側を分けることにある。だから、区切ることさえできれば何だって切り分けることができるんだよ」
瞬間、リザは理解した。血まみれの父親の姿が脳裏をよぎり、「二度とやってはいけない」と言うグローリアの声が鮮明に蘇った。
この人は私に禁術を使わせようとしている。血の気の引いた白い顔で、リザは呆然と目の前の人物を見つめた。
「君、できるだろう? やったことがあると、そう顔に書いてあるし」
リザは息を吞んだ。それと同時に、目の前の人物に対する恐怖感がムクムクと湧き上がっていた。一体この人は何者なのか、なぜ禁術のことを知っているのか、なぜそれが使えるとわかるのか、そして、禁術を使って何をさせようとしているのか?
「なぜ……」
リザが絞り出すように、ようやく出せた言葉に、相手はごく当たり前のことのように言い放った。
「なぜ? こんなところで死にたくないだろう? 君と一緒に来た3人はもう死んでしまったよ。一人は無意味な儀式の生贄として、二人は眠ったまま、何もわからないまま死んでいった」
男とも女とも取れる、それでいて美しく耳に残る声は、淡々とリザに残酷な現実を突きつける。湧き上がる感情に、リザの膝がガクガクと震えた。
「君をそんなひどい目に遭わせ、仲間を無残に殺した連中に報いを与えたくはない? 自分の力でここを出てみせろよ。そうしたら私が力を貸してやる」
その言葉は、リザの復讐心と矜持を思いのほか強く突き動かした。そしてリザは、長く禁じられていた力を使うことに、それほど忌避感や嫌悪感を感じていないことに気づいて戸惑った。
リザが目を伏せると、ふと視線の先にあったブーツが目に入った。それは都の冒険者向けショップで売られている最高級品で、並の冒険者には到底手の出せない代物だった。視線を上に動かせば、腰には銀色に輝く鋭利なナイフ、背中にはボウガンらしきものを背負っている。よく見れば、身にまとう服も素材から仕立てまで上等で、ただの冒険者でないことは明らかだった。
この人について行けば、このふざけた悪夢を終わらせ、コレットたちの敵を取ることができるのだろうか?
目を上げると、不意に鉄格子の向こうと目が合った。気味の悪いほど澄んだ碧眼はリザの葛藤を面白がっているように見えた。
「――証明してみせなよ。自分が役立たずではないと」
その言葉に、リザは静かに頷いた。黙ったまま鉄格子から一歩、二歩離れる。向こう側の人物も鉄格子から離れ、静かにリザを見つめていた。
生きたい。いかに恩師とはいえ騙されて利用されて、馬鹿げた儀式の道具として終わりたくない。自分の意志で力を振るう存在でありたい。コレットの死を無価値にしたくない。
その切実な願いが、リザの目の前に複雑な文様を浮かび上がらせた。青い光が収束し、リザが睨み付ける視線の先、冷たい鉄格子の上を走り抜けた。
ガランガランガランと、静まりかえった地下室に大きな金属音が響き渡った。高密度に集束した結界の光は、鉄格子を破壊し、バラバラにした。折れた鉄の棒が床に落ちた勢いでゴロゴロと廊下を転がっていく。
牢から抜け出したリザの前に、相変わらず冷たい笑みを浮かべた人物が立っていた。
「なかなか見事だったよ、生贄ちゃん。その力、こんな場所で失うには惜しい」
平坦で穏やかだが、先ほどより少し楽しそうな声色で、この状況を面白がっているように思われた。
「これで良いですか?」
「ああ」
「……私はリザです。助けてくれてありがとうございます」
「ご丁寧にどうも。そうだな、ロディとでも呼んでくれ。呼び捨てでいい」
「わかりました……では、よろしくお願いします」
頭を下げるリザに、麗人は少しだけ口の端を歪めた。
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