青炎の冠、闇の盾
推しと愛馬が
二人のプリンセス
その夜、二人の女が神秘の剥がれた世界に降り立った。
満月輝く天鵞絨の夜空は、女たちの纏う魔法をなお輝かせる。夜空を落下する二人はひときわ強く輝き、カーテンの向こうへ隠されるようにその姿を消した。
「だから言ったじゃん! 空を飛ぶ魔法と瞬間移動の呪文は覚えといた方がいいって!」
「そうだな……」
二人がたどり着いたのはとあるマンションの一室。革のソファにくたくたの身を沈め、女たちはそれぞれ風で乱れた髪を手櫛で整える。
「アデーレ、髪が跳ねてるぞ」
「ミカエラも、分け目がぐちゃぐちゃだよ」
ミカエラと呼ばれた女はアデーレの茶髪を撫で付け、アデーレと呼ばれた女はミカエラの黒髪を整えた。
二人が身繕いし合っていると、人間界の月光差す玄関の扉が開く。埃がキラキラと舞ったかと思うと、現れた人物を照らすスポットライトかのように明かりがついた。
「来たな、次期女王ども! 」
「声うるさ」
「久々に聞くとクラクラするな……」
筋肉質な男は名をアダムと言う。二人の女に付けられた監督役だ。大声が響いたミカエラは天を仰いだ。先程まで魔界の紫色の夜空があった場所には、乳白色の天井が広がるばかりだった。
「まったく、次期女王どもが月の淵から落ちるなんてな」
「アデーレが早く行こうとせっつくからだ。昔から感情のまま行動する」
「うん! そお! あたしのせい! ははは……」
二人は魔界の現女王・エリスの実子にして双子の姉妹だ。人間界にいる間に、政治や思想を学び、フィールドワークをし、論文を書き上げ、三年後のヴァルプルギスの夜に提出するのが使命だ。人間界における、大学や大学院の留学生のようなものである。
監督役のアダムは声も大きければ身体も大きく、実際人間界ではジムでトレーナーをしているのだが、優秀な研究者でもある。人間を愛し、行動原理などをまとめ、魔界に提出していたのは後にも先にも彼だけだ。そんなアダムは幼い二人の家庭教師を勤めていたのだが、今再び監督役として白羽の矢が立った。
「それじゃ二人に人間界における注意を二つ述べるぞ。よぉく聞け」
「その一、魔法は秘匿せよ」
「その二、悪夢には近づくな」
「ム……優秀な奴らめ……」
人間界は魔界と違って、マナやエーテルが少なく、基本的に魔法の使用は杖や魔界道具が必須となる。そう言ったものは人間界の科学では解明されていないため、大混乱を招く恐れがあることから、魔法は秘匿することが絶対条件だ。人間界には数多く魔界の人間が紛れ込んでいるが、皆上手いことやって均衡を保っているのだ。
そんな魔界の人間の配慮を打ち砕こうとするのが"悪夢"である。絶望のエネルギーに手を染めなくては生きていけなくなってしまった、闇に潜む魔界の人間のことだ。悪夢は人間界を滅ぼし、王国と戦うつもりで長らく冷戦状態にあったが、今は現女王・エリスが悪夢の王・エーミールと恋愛結婚したことで、魔界は統一された。
「しかし、悪夢に近づくなと言っても、悪夢差別を研究するのが我々の使命。どうすれば良いのか……」
魔界統一の次に問題になったのが悪夢差別である。悪夢は魔界の人間の生気を吸って殺してしまうだとか、親が子に悪夢を未だ悪き存在と教えるだとか、有る事無い事言われ続けているのだ。エリスとエーミールの尽力で差別は撤廃されつつあるが、所詮うわべだけである。
根本的に差別を解決すべく、二人は人間界へ派遣された。如何にして先人たちは差別と戦ったのか、それを研究するのが二人に与えられた課題だった。
「ミカエラは差別撤廃に興味津々だもんね」
アデーレの言葉にアダムは一瞬眉を顰めた。無邪気な一言だが、それはアデーレが差別されたことのない幸福な人間だからである。ミカエラは差別されてきた側であるから、無神経とも言えた。しかし、それを指摘するのはまだ早い。これから二人が互いを知り、悪夢を知り、差別を知ることでアデーレが自覚すべきことである。
アダムは自身のスキンヘッドを撫でて、柔らかに笑った。
「今日はもう寝ろ。明日から留学生ということで、大学に通ってもらうぞ。忙しくなるから覚悟しておけ」
「はぁい」
「わかった」
二人はその夜は素直に就寝した。
これから始まる大学生活に心ときめかせながら。
ちゅんちゅん、鳥が鳴く。夜が開けたのだ。
魔界にはない朝が来る。
アデーレとミカエラは、カーテンを開けて、人間界の空の青さに息を呑んだ。美しい青空だ。オレンジや黄色、紫と空の気分によって色が変わる魔界からすると、毎日これほど爽快な青空が見られるのは珍しい。
「いい天気! あたしたちを歓迎してるみたい! 」
「そうだな、アデーレ。きっといい日になる」
二人は顔を合わせて笑った。
人間界での日々が始まる。
人間界に滞在して早くも一月が経った。コミュニケーション能力の高い二人はすっかり大学に打ち解け、人間の友達もできた。いい人達ばかりだが、言動に注意していればマイクロアグレッションや、差別用語を悪意なく使うなどやはり悪意が少しは見え隠れする。そんな友人たちの言動などをメモして、二人の研究は順調に進んでいった。
そんなある日のこと、ミカエラは単独で街に出ることにした。アデーレは思うことがあったらしく、
「あたし図書館行く!」
と、休日の朝から大学付属の図書館へ篭りっきりである。
ならば、とミカエラはフィールドワークだと街に出ることにした。人間観察は得意だから、街を歩けば見えることもあると思ったのだ。
「……迷った」
ミカエラは端末片手に高層ビルの合間、小さなカフェの前で眉を顰めた。
今日は服を見に、ひとりで街に来ていた。人間界の服は魔界とは違った歴史を辿っていて普段着のパターンや色使いが異なるのも興味深い。
これまで城に篭って毎日勉学に励んでいて、あまりひとりで買い物する機会もなかったため街歩きに慣れる良い機会だとも考えた。
しかし、ミカエラの予想を上回るほど人間界の街はぎゅうぎゅうと狭い。魔界では見たこともないような高いビルがひしめき合って、おまけに道も細く複雑だ。そんなところに人も車もみっしり詰まっているのだから、分かりづらいったらない。アダムから支給された端末の地図アプリを開いてみても、操作に慣れない上に自身の方向に合わせて動くカーソルがかえって方向感覚を狂わせ、余計に迷う一方だった。
(休憩しよう)
このまま闇雲に歩いたとて目的地には辿り着けまい。歩きすぎて暑いし、少し足も疲れたように感じる。今晩はフットケアを念入りに行わねば明日に響くな、と考えながらミカエラはカフェのドアを潜った。
端末をモバイルバッテリーで充電しつつ、ミカエラはガラス越しに陽光を浴び、街ゆく人々を観察する。皆一様に俯いて急ぐように歩きながら器用に人を避け、手元の端末を覗き込んでいる。ニュースを見たり、音楽を聞いたり、動画を見たり、様々ではあるが、誰とも目が合わないし誰も他者と目を合わせようとしない。それがミカエラには、少し心地よくもあった。
魔界でミカエラが街を歩けば皆が振り返ったものだが、人間界では誰もその顔を知らない。揶揄する者もいない。ミカエラはこちらの方が好きに生きられるのでは、と考えた。
思考と観察の境が曖昧になる頃、手元のアイスコーヒーのグラスがからりと音を立てた。
透きとおるガラスが汗ばんで、紙のコースターが滲み始めている。ミカエラは随分な時間、思考に耽っていたのだと自覚した。何はともあれ水分を取らなくては。
グラスの水滴を拭って、濃いめに抽出された黒を一口。思考が冴える苦味に、わずかな酸味。
美味しい。ここの店名は覚えておこう。
端末のメモ機能に店の名前を書き込んだとき。
首筋を撫でるように冷気が立ち込めた。
「相席をお願いしても?」
甘くハスキーな囁き声が耳をくすぐり、勢いよく顔を上げる。相手に最もときめきを与える魔法である。杖の使用が必須の人間界において、無詠唱で結界もなく魔法を行使するなど基本的には不可能だ。極々一部の実力者でなくては敵わない。
ピンと伸びた背筋に緊張が走る。
ミカエラの鋼の心は甘い声だけでは奪わせない。目の前の人物を燃える琥珀の瞳が睨みつけた。
「はじめましてプリンセス。人間界はいかがかな?」
父、エーミールの胸に宿る黒よりもずっと深く、ずっと澱んだ瞳と目が合い、流石のミカエラも思わず息を呑んだ。光を反射しない闇が、自分を見つめている。
男はミカエラの返事を待たず正面の席に腰掛け、楽しそうに笑った。足元がひんやりと冷えていく。店内の空調ではない。その胸に秘めるであろう悪意は、命を奪い、全ての想いを凍てつかせる冷気を放つ。
覗き窓などせずともわかる、この人物は、父と同じ。
“悪夢”と呼ばれていた者だ。
「俺はセルジュ」
魔法を纏わずとも蠱惑的な響きの声が名を音に乗せる。聞き覚えのある名前だ。
「あなたのお父上やエリアスさんから、話はよくよく聞いています」
「……闇の盾」
「うわっ、その恥ずかしい二つ名で知られてるの。せっかく格好つけたのに、嫌だなぁ」
恭しい態度から一変、芝居がかった動きで男はべ、と舌を出す。チラリと見えた粘膜は蛇のように割れて、魔宝石が煌めくピアスが三つ、肉を貫いていた。
闇の盾、とはセルジュと名乗った魔法使いが持つ二つ名である。
王国の兵士が、とある悪夢の魔法使いを侮蔑を込めてそう呼んだのを、反発の意を込めて悪夢たちも倣い、そう呼びはじめた。
セルジュという魔法使いは、オグルの王たる父エーミール、義兄エリアスよりもずっと光魔法に強い耐性を持つ上級の魔法使いだ。彼の命を穿つために放たれた光槍は展開される闇の渦にあっけなく吸い込まれ、何倍にも強く致死性を持った闇となって牙を剥く。
かつて、王国と悪夢がぶつかる時、年若いセルジュはいつも最前線に出て多くの王国兵を屠ったが、それより多くの数の悪夢の同胞を守った。
故に、牙ではなく、盾なのである。
魔界統一後、セルジュはエーミール直々に人間界行きを命じられ、それ以来ぱったりと噂は聞かなくなった。ミカエラがセルジュを知っているのは、歴史を教えたエリアスから時折その名が上がったからだった。
「今は俺、人間界でヒップホップやってんです。MCね。トラックメイカーもリリックもやる。音に身を任せるのは心地いいから好きだ」
薄く浮かべられた笑みに感情が乗る。少し紅潮した頬に、照れたような声の響きからして、その言葉は嘘ではないようだった。
「結構なことだ。落ち着いて暮らせているなら何より、そのままずっと静かにしててくれ」
「魔界が統一されてからは暇なもんですよ、ご安心を。ここ数十年はなんの命も散らしてない。果敢に挑んでくるラッパーの心くらいです。そっちは砕くとかへし折るって言う方があってますが」
「それだけ攻撃魔法のための装備で身を固めて、よく言う」
耳や口内に付けられたくろがねのピアス。
カラスの爪のイヤーカフ。
火山灰を水晶で固めた指輪。
夜霧を溶かした黒のネイルポリッシュ。
バイコーンの骨を加工した三連のネックレス。
人間が見れば派手なアクセサリーを愛好するだけに見えるが、魔界の人間が見れば呪い、怨嗟、他者を傷つけるための装備で固めた危険人物だ。ミカエラは冷静に会話しているように見えて、その実冷や汗をかいている。セルジュの指がグラスをなぞり、舌が回るたび、何の魔法が飛び出してくるかわからない。
「なんで俺がこんな格好してるか、叡智の星たるあなたがまさかお分かりにならない?悪夢差別は人間界でこそ健在ですよ」
ぴくり、とミカエラの整えられた眉がわずかに動く。それを見逃さず、セルジュは意地の悪い笑顔で続けた。
「取り締まる人がいませんからね!同じ国の、同じルーツを持つ者に今でも危害を加えられるんです。ある時は生卵、ある時は鉢植え、ひどい時はそれこそ攻撃魔法が頭を狙ってくるんだぜ。あなただって心当たりがあるはずだ。したくてこんなジャラジャラ装備してるわけじゃあないって、わかってくれるでしょう?」
身を乗り出してセルジュはミカエラに顔を近づけた。深い深い黒い瞳には、絶望が共感を求めて渦巻いている。
嗚呼、軽薄な言葉に、痛みが乗っている。
「……」
幼い頃から、ミカエラは絶望せずとも悪夢が使用するような闇の魔法を行使出来た。父エーミールの性質を強く受け継いで、母エリスの浄化能力が可能にしたことではないか、と言われてきたが、理由は謎のままである。
それを嫌った一部の悪夢に対する差別主義者は、なんどもミカエラの暗殺を企ててきた。生死の境を彷徨ったことは片手では収まりきらない。女王エリスの働きで王国内における差別はここ数十年で随分と見られなくなったが、それはうわべだけ。ミカエラは王国の民から恐れられていることに自覚的であり、元老院に名を連ねるエリアスも「悪夢は王宮には相応しくない」という声があると知っている。
なぜミカエラが叡智の星と呼ばれるのか?簡単なことだ。
魔術を知らねば身を守れない。
解毒、呪い返し、防御壁、攻撃、魔術だけでなく体術だって、学べることはなんでも学んだ。もとより知的好奇心が強い性質だったのも幸いして、ミカエラは乾いた砂に水を注ぐが如く知識も技術も己がものとしていった。
それが功を奏し、何かが起こっても軽傷で済んだり、未然に防げるようになってからはそういった動きも見られなくなった。
故に、彼の言わんとせんことはわかる。王国内にいたミカエラも、ドレスの下に忍ばせたアクセサリーは、今のセルジュに似通ったものばかりだったので。
元は悪夢も王国も、同じルーツを持つ同じ民族だ。同じ痛みを感じる魔界の人間なのだ。
王国の都合で、一方的に負の歴史を押し付けられ、絶望に手を伸ばした『悪夢』と呼ばれるはらから。ミカエラは自身の責務はそこにあると思った。
私の代で差別をなくす。
真の意味で憎しみの連鎖を断つ。
ミカエラの学びはその視野を広く、またその志を高くした。徐々に身を固めていた攻撃魔法や解毒のための装備はゆっくりと数を減らし、今では何も身につけていない。
真に持つべきは武器ではないのだ。対話と覚悟、行動。それらがきっと、きっと、王国に根強く残る偏見や差別を無くす。
「お前の気持ちは分かるが、平穏を望むならばこそ、まず威嚇のための武器はおくべきだ」
「はは、我らが女王エリスはたいしたお人だ。教育がなってらっしゃる」
間髪入れず帰ってきた返答に皮肉の色を感じ取り、ミカエラはセルジュの目を強く見返した。
「おっと、すみませんね。別に俺は貴方に喧嘩を売りにきたわけじゃあない。そういう己の信念を語るのはもっと互いを知ってからにしましょうよ」
セルジュはひらひらと両手を顔の高さまで上げて、降参を示すようにおどけてみせた。ここで深追いしたって良いことはない。ミカエラは深呼吸をして、肩の力を抜いた。
「プリンセスはこの街に来るのははじめて?」
「軽薄だな。そうだが」
「ご案内しますよ。見た感じ、迷子でらっしゃるでしょう?しかも、スマホの扱いに慣れてない」
「む……」
図星だ。
その通りである。思わず手に持っていたグラスを強く握れば、セルジュはふにゃりと笑って頷いた。
「分かりますよ、魔界と街並みも人の歩く速さも違えば、魔法で事足りることが全部機械を必要とするんですから、魔界の人間はまず戸惑います。俺もはじめて人間界に来た時は目的地に辿り着くまで十分のところ、三時間彷徨いましたからね。どうなってんだってな」
「三時間」
「そ、冬だったからまだ歩けましたけど、夏だったら汗だくで死んでましたねぇ。そんで、プリンセスはどこに行きたいんです?サン・ローラン?ディオール?あなたの身を飾るに相応しいブランドのブティックはこの辺にはありませんけど」
この魔法使い、死ぬほど口が回る。ずっとひとりで喋っていられそうだ。そしてそれが、相手の心に入り込むうまさでもある。警戒を無意識に解きかけた自身に気づき、苦い顔をしてミカエラは口を開いた。
「いや、若者向けの、価格帯が安い普段着が売ってるところに行きたい」
「ああ、じゃあここからすぐの商業施設に行きましょうか?歩いてそれこそ十分かからないくらい。脚の疲れとか大丈夫そうならすぐにでもお連れしますけど、どーします?」
「……行く」
「そんじゃあ行きましょうか!さ、お手をどうぞ」
さりげなく伝票を取って、空いた手でセルジュはミカエラに手を伸ばした。エスコート慣れしているらしい。所作はわざとらしくも、見様見真似ではなくきちんと仕込まれたものの動きだった。
いつ火花が散るかもわからぬ手を取って、ミカエラは店を出た。支払いにセルジュが使ったのは黒いカード。稼いでいるのは本当らしい。
「自分の分は自分で」
「カッコつけさせてくださいよ」
財布を出させることなく、セルジュはスマートにカフェの扉を開け、先にミカエラを外に出るよう促す。
「さ、ご案内します。手を繋いで行きましょう。カップルと思わせた方が色々楽ですよ」
「む、そうなのか」
「男女二人、こんだけ顔も違うんなら、兄妹より恋人でしょう! 」
「そういうのはよくわからない」
「そりゃそうだ、箱入り娘ですもんねえ」
セルジュの良く回る口に相槌を打っているうちに、目的地についた。とは言っても、人間界の若者向けの服とはよくわからない。セルジュを見上げると、
「もちろんご案内します! 」
と上の階からミカエラに似合う服が売っている店をピックアップしていった。
「似合う!やっぱりこういうシルエットが出る服の方が貴方の持つ気品は更に磨かれますね。ただちょっと肌が出すぎかな?お姉さん、羽織るものはありませんか」
「はい、ただいまお持ちします!」
試着室から出ると、待ち構えていたセルジュは手を叩いて喜んだ。先ほどから何を着ても第一声は基本「似合う!」である。本当か疑問に思うが、愚問でもある。必ず褒めた後に、具体的な感想が述べられるため聞くまでもない。
それに、人間界での普段着はセルジュの方が詳しい。街中で彼を熱い視線で見つめる人間が多いところを見るに、その装いやセンスは適したものと思われる。となると、文句をつけようにも難しい。
結局彼や店員の勧めるまま、服を十着ほど着替えている。式典の衣装替えほど手間がないが、慣れていても着替えは面倒だ。
「おい、いつまで私を着せ替え人形にするつもりだ。それに、こんなに選んでどうする。小遣いは決められているんだぞ、私の手持ちがそれほどあると思うな」
「俺が買いますよ?当たり前でしょう」
「この量を?初対面相手に正気じゃないぞ」
ミカエラの視線がセルジュの足元に向く。
そこにはいくつもの買い物かごに、これでもかと服が積まれていた。比較的安価のものとはいえ、量を買うのだからそれなりどころかいい靴やバッグが買える値段にはなるだろう。
セルジュに視線を戻すと、別の服を見繕ったその顔には、貼り付けるような笑顔が浮かんでいた。
「正気なんか捨てられたガキの頃に失ってますよ」
絶句するミカエラを尻目に、セルジュは手に持ったタイトスカートを試着室へ放り込んで、ぱちりと片目を瞑った。
「あなたは論文を書く、フィールドワークをするのが仕事でしょう。お手伝いさせてくださいよ」
「そんなことしてお前になんのメリットが……」
「メリットなんかないですよ」
カーテンを閉め、布一枚の向こうに行ったセルジュが暗い声を出す。
「誰が頭になろうと、俺たち悪夢の生きづらさってのはそうそう変わらない。エーミール様にも、女王にも、エリアスさんにも、あなたにも期待してないんだ」
渡されたタイトスカートとカーテンの向こうを見比べて、結局ミカエラは履くことにした。試着室を占拠するのも申し訳ないし、突っ返すのも違う気がして、ボトムスを履き替えながらセルジュの言葉に耳を傾ける。悪夢の言葉は貴重だ。聞き逃したくない。
「この大都会、あなたほどの人って実はそんなに珍しくない。教養も、美貌も、品格も、金を出せば手に入る。手をかければ身につけられる。分かります?あなたが魔界でせっせと身につけてきたものは全部、間違いなく武器にはなるが決定打にはならない」
セルジュの語りを聞きながらカーテンを開けると、思ったよりも柔らかに笑っている彼がそこにいた。
「ただね、あなた目の輝きが、炎が迸るように綺麗だったから。見てみたいなって思ったんです。青炎の冠を戴く、その日を」
ミカエラの心に火が灯る。そうだ、私は自分の代で差別を撤廃する。人間界で苦しむ男が目の前にいるのだから、黙ってなんかいられない。
「お前の僅かな期待に必ず応えよう、セルジュ」
「あはは! 初めて名前呼んでくださいましたね! 嬉し」
セルジュが心底嬉しそうに笑うと、レジへさっさと行ってしまった。着ているタイトスカートはタグを切られ、着たまま歩くことが確定する。
その後、セルジュは散々ミカエラの買い物を楽しみ、夜まで連れ回した。流石に門限があるからと言うと瞬間移動魔法で送ってくれたが、逆に言えば門限がなければ何処までも連れ回されたに違いない。
「また会いましょうねプリンセス。俺ならアダムでは連れ出せない世界をお見せできる。爆音のEDMにご興味は? 熱狂のフロアに憧れは? 眠れぬ夜にはぜひお電話を。お迎えにあがります」
小慣れたウインクと共に寄越されたのは闇色の名刺。金箔で名前とMCネームが刷られた、夜に生きる者のための小さな紙。裏返せば私用の連絡先がシルバーのインクで書き留めてある。魔法の万年筆で書かれたものだ。パリパリと名刺から文字が剥がれると、端末に吸い込まれていった。
ミカエラはそれを、破り捨てることができなかった。
よふかしの冒険も、朝帰りもせず、ひたすらに知識を詰め込んだ半生だった。自ら望んだことではあった。
だからこそ、こうして手招きされると知りたくて堪らなくなる。
絶望を溶かした輝く世界。
ミカエラが知らずに過ごしてきた多くが詰まっている時間。
どきどきと耳元で拍動が聞こえる。血潮が駆け巡る音がする。自らの高揚が表に出ている自覚があった。
セルジュが小さく笑い、ミカエラの空いた手の指先にキスをした。
──夜が、私を呼んでいる。
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