憧盲
杜隯いろり
一
「—さん。少し、お伺いしたいのですが。」
医師は訪ねた。
恰幅がよく、医者らしいといえば医者らしい草臥れた眼。しかしその割には斑ひとつない色白の肌、その冷たくも艶やかな頬が印象的な男だった。
(外に出掛ける趣味の無い人間なのかな。)
年は40代半ばといったところだろうか。
(俺と同じくらいだろう。)
そんなことを思いながら、男は眼前の医者の眼をぼう、と見つめていた。
「—さん、宜しいですか。」
「あ、はい。すみません。なんだかぼーっとしてしまって。」
「……そうですか。」
「訊きたいことがあるんでしたっけ。」
「はい。確認させていただきたいことがありまして。」
「はあ…。」
やけに勿体ぶるな、と男は思った。
四十路を過ぎて初めてこの手の大病院に掛かり、いかにもな待合室で待たされ、色鮮やかなウレタンで囲まれた子供用のスペースで母親が子供に絵本を読み聞かせているのを眺めながら、それはそれは長いこと待たされて診察を受けるこの男は、普通はこんなものなのかな、とも思った。
いや、餓鬼の頃に盲腸を切った時もこのくらい大病院だったっけか。
「その…少し不躾なことですが、御親族のどなたかに早くに亡くなってしまった方っていらっしゃいますか。」
「早く、ですか。」
今の時代喜寿で死んでも早過ぎると言われるくらいだから、男は一体どのくらいが早死になのか量りかねてつと考え込む。
実際、男の母親は一昨年の夏に死んだ。
男は母親が四十手前で産んだ一人っ子だったため、ある程度の覚悟はしていたし、それほど劇的な悲哀は湧かなかった。むしろ驚くべきは死にゆく人の弱る速度の速いことで、スタスタ歩いていたはずの人間が一週間のうちに痩せ細り、そのまま物言わぬ屍になるとは思いもしなかった。
「大体、—さんのご年齢からそうですね、五十代半ばくらいまででお亡くなりになった方とか…。」
「あー…そうですね…今生きてる親戚連中は健康ですけど、祖母の兄弟が確か—殆ど戦争で亡くなってるんですけど—その内の誰かがそのくらいの年齢の時に急に弱って亡くなった、みたいな話は昔聞きました。」
「当時の詳しい病状ってわかったりします?」
「いやあ、どうだろう。そこまでは…。あでも、祖母が言ってたのは、みるみるうちに弱って会話もできなくなって、呪われてるみたいだとかなんとか。実際に祈祷師に診てもらったりしたみたいですけどね。」
「そうですか…。—さん。もう一度今回の症状を確認しますけれど、急にまともな睡眠が取れなくなったり、眩暈がしたり、体がふらついたりした。これが現状三日続いているということで宜しいですか。」
「はい…大体そんな感じです。同僚とかには疲れ過ぎって言われてるんですけどね。有給とって暫く休んだら治ると。」
「いえ。何事にも油断は禁物ですし、今回の—さんのような症状がこれだけ続くというのは、明らかな異常がある可能性が少なくないです。」
「はあ…。」
「ちょっと…できるだけ早く別の検査をさせていただきたいですが…。とりあえずMRIだけでも撮りたいんですけど、今日は予定が一杯なので…。」
「あ、あの。」
男は耐えきれないというように口を開いた。
「何か、重い病の心当たりがあるんでしょうか。」
「えっと…そう、ですね。まだ詳しい検査をしていないものですから、断定的なことを申し上げるのは避けたいのですが…。」
「はい。」
男は何か嫌な予感がして、鼻腔の奥に何か生温いものが流れ込むような心地がした。
「俗に言う、プリオン病ってご存知ですか。」
男はその名前を知らなかった。いや、正確にはどこかで聞いたような音の羅列だとは思ったが、その詳細はとんと知らなかった。
少し間を置いてから、医者は腹を括ったように聊か低い声で唱え始めた。
「プリオン病と言うのはですね、脳にはプリオンタンパク質というものがあるのですが、これが変性を起こして異常プリオンに——。」
医者が何か資料を持ち出してきて懇切丁寧に説明を始めたが、男は例によってぼう、としてしまって詳しいことは殆ど頭に入らなかった。が、最後の一節はそれまでが嘘のように鮮明に聞き取ることができた。
「——ですので、もし本当にプリオン病の一種であった場合は…その、大変申し上げ辛いのですが…現代の医療では…。」
「え?」
男はよく響く、惚けた声を出した。
「死ぬんですか?僕が。」
「…もしそうだったらの話です。まずは検査を。」
思わぬ言葉に医師は束の間眼を見開いて、そして今度は男から眼を逸らした。
この医師がこれまでの生涯で幾度患者に余命宣告をした経験があるのかは知る由もないが、この状況に耐えかねてのことだろう。
しかし医師の態度とは裏腹に、男の頭はそれこそ三日振りに明瞭に澄んでいた。自分でも何故こんなに落ち着いているのか分からなかった。
そして男は、まるでそれが予定されていたかのように一言一句噛み締めながら問うた。
「じゃあ。」
「はい。」
「もし僕がその病気だったら、何年くらいは元気でいられるんでしょうか。」
「そう、ですね。何の病気かにもよりますが、短くて半年…長ければ一年ほどは。」
「…そうですか。」
(意外と短いんだな。)
それを聞いても、男はそう思っただけだった。
寧ろ、目の前の医師が、余命を告げる患者に気を遣いながら、一言告げるたびに自分の顔色を伺う様が滑稽な感じさえしていた。
それから暫く説明を受けたり、検査の日程を調整してから、一先ず男は病院を出た。次に来るのは明後日である。
病院を出てから、男は来る時と異なってタクシーを使わずに駅まで歩くことにした。
時間を惜しむことさえ莫迦莫迦しく感じた。
道端の色々な景色を見ては、その名前を口ずさみながら歩いた。
アスファルト、その上を這う蟻。ガードレール。薬局。コンビニエンスストア。下り坂を抜けた先の交差点、カーブミラー。やや遠くに望む駅ビル。青空、形を崩しながら進むやや流れの速い鱗雲。
(余命宣告、か。)
男はいつになく感傷的だった。
かと言って、全くと言っていいほど暴力的な絶望には支配されていなかった。
男は身近に訪れる死を愛するほど老成していなかったし、また、咽び泣いて道行く人に縋るほど若くもなかった。
ただただ、事実だけをありのままに受け止めていた。
また足元に眼をやった時、男は一匹の蟻を踏んでいたことに気がついた。よろよろ、最後の力を振り絞って、やがて動かなくなった。
そして次に男の胸には、軽率で楽観的な気持ちが沸々と湧いてきた。その蒸気で宙を舞えそうなほどに。
(死ぬんだ。俺は。余命宣告されて、小説の主人公のように美しく死ねるんだ。明日からもう辛いことも、苦々しい思いも恥も、何も俺を陥れることは叶わないのだ。心配をかける家族も俺にはいない。誰にも迷惑はかからない。)
男は経験したことのない類の快楽に酔い痴れていた。
「死に至る病」
医者の話を聞いてからずっと、その単語が男の頭のどこかで燻っていた。
(キェルケゴールよ見てみろ。これが、これこそが死に至る病ではないか。癌も恐れぬ現代医療を打ち負かすほどの絶望は、お前には想像もつかないことだろう。フロイトにも聞かせてやりたい。何が死への欲動だ。俺は死に愛された。死が俺を選んだのだ。)
古の哲学者達ですら手に入れ得なかった無慈悲な終焉。圧倒的優越感。
自分でも抑えられない高揚感から、駅に着くまで男の口角は上がったままだったが、結局本人は気づかないままだった。
一週間後、MRIや髄液検査等を基に、男には「クロイツフェルト・ヤコブ病」の可能性が高いとの診断が下された。
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