Soar -ソア-
無咲 油圧
プロローグ ―星の約束―
夜の帳が街を包みこむころ、千紗は丘を登っていた。
息を白くしながら、手に持った古びた望遠鏡を握りしめる。
この道を歩くのは、もう何百回目になるだろう。
彼女にとって、星を見ることは日課であり、そして祈りでもあった。
丘の上には、小さな広場がある。
街の光が届かず、風が静かに通り抜けていくその場所で、
千紗はひとり夜空を見上げるのが好きだった。
大学では天文学を専攻している。
星の誕生や滅び、光のスペクトル、恒星の進化
そんな難しい理論を追いながらも、心の奥では、もっと素朴な想いを抱いていた。
――星の中には、誰かの想いが眠っている。
亡くなった人の魂が星になるなんて、幼い頃に聞いた話を、今もどこかで信じていた。
だからこそ、夜空を見上げるたび、千紗の心は少しだけ安らいだ。
その夜も、いつものように望遠鏡を組み立てていたとき、不意に背後から声がした。
「こんばんは」
驚いて振り向くと、そこには青年が立っていた。
月明かりの下、黒いコートを着て、少し照れくさそうに笑っている。
「ここ、よく星が見えるって聞いたんです」
千紗は警戒よりも、むしろ不思議な懐かしさを感じた。
この場所に他人が来ることは滅多にない。
けれど、青年の瞳は夜空と同じ色をしていた。
「あなたも、星が好きなんですか?」
「ええ。新しい星を見つけたくて」
その言葉に、千紗の手が止まった。
青年は静かに空を指さした。
「ほら、あの辺り。見えるでしょ?あの群れの中に、きっと誰も知らない星がある。小さくても、確かに光ってる。それを見つけたいんです」
“新しい星を見つけたい”――
その響きが、千紗の胸の奥に染み込んだ。
研究者としての興味ではなく、まるで祈りのような言葉だった。
「名前は、翔(しょう)です」
そう名乗った青年の笑顔が、夜空に溶けた。
風が吹き抜け、二人の髪をそっと揺らす。
見知らぬはずなのに、どこか懐かしい。
その夜、千紗の中で何かが静かに動き出した。
それから、二人は時折この場所で会うようになった。
星座の神話を語り、光年の向こうに想いを馳せた。
翔の夢――“新しい星を見つける”という言葉は、やがて千紗自身の夢にもなっていく。
季節が巡り、夜空の形が変わっても、
丘の上だけは変わらなかった。
そこにはいつも、ふたりの声と笑顔があった。
――だけど、永遠なんて、きっと幻だ。
ある夜を境に、翔は来なくなった。
どれだけ待っても、どれだけ空を見上げても、
彼の姿は、もうどこにもなかった。
あのときの風の冷たさを、千紗は今でも覚えている。
そして、数年後。
彼女が新しい星を見つけた夜。
その星の名を、千紗は迷いなくひとつだけ書いた。
“Soar”――翔。
それは、彼の夢であり、彼の名前だった。
そして、今も空のどこかで光り続けている。
――あなたの光、ちゃんと届いたよ。
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