第21話
ジェントルがいなくなってしまっても、コートニーはあの温室を忘れることができなかった。
もう誰もいない場所なのに、ただそこにいるだけで、青い小鳥が残した幸福の余韻を味わうように、毎朝温室に通った。
学園に着くと真っ直ぐ温室へ向かって、古びたソファに座れば、くすんだ硝子壁からは薄っすら日射しが差しているのがわかった。
ソファから見えた景色が、ジェントルが見ていたものだと思ったときに、無性に淋しさを覚えたのである。
ジェントルに会うために温室通いをしたのは、実際はほんの数日のことだったのに、青い小さな紳士は、コートニーに鮮明な記憶を残した。
ジョゼフは今も変わらずコートニーの前の席にいるし、授業の合間に会話もしている。
けれど、青い鳥を眺めながら、彼の横にしゃがみ込んで話した他愛もないお喋りは、砂糖水を煮詰めて蜜にしたような濃蜜な甘さを伴っていたと思う。
コートニーは朝ばかりか、昼の時間も温室に通うようになった。温室で食べるために、料理長に兄には内緒でランチボックスを頼んだ。
滅多に頼み事をしないコートニーに、彼は快く引き受けてくれた。
「また用事なのか?」
ベネディクトに一緒の昼食を断ると、数度目にはあからさまに不機嫌な顔をされた。
「すみません」
「一体、なにをしているんだ?」
「お友達に誘われて、そちらとご一緒しているのです」
「どこで」
「え?」
「どこで食事をしているんだ」
教室の扉の前で、ベネディクトは長々とコートニーに確かめた。はっきりしない返答をするうちに、すっかり焦れてしまったらしく、ベネディクトは珍しく苛立つような顔をした。
「君と過ごせる時間は昼食時しかないというのに」
「すみません」
「わかった。時間を作るよ」
ベネディクトは休日も忙しそうで、学園以外では月に二度ある茶会でしか彼と会うことはなかった。あとは公爵家が招かれる茶会に同伴するくらいだった。
「でも⋯⋯ベネディクト様はお忙しいでしょう?」
「君のためならそれくらいするよ」
そう言って、ベネディクトは指先でコートニーの頬に触れた。当たり前だが教室には他にも生徒がおり、彼らの面前であるにも構わず、最近のベネディクトはコートニーにこんな接触をするようになっていた。
ベネディクトは身分も高く見目も良く、気質も高位貴族らしく、その割に一見すれば気さくで爽やかな青年である。その為に彼の人気は高いのだが、そんなベネディクトがコートニーに甘い顔を見せることは、このころには周囲からも認識されるようになっていた。
「ベネディクト様、皆様がお待ちですわよ」
まだ扉の前でコートニーに構けているベネディクトに、後ろからハリエットが声をかけた。
「ああ、そうだな。コートニー、君も考えておいてくれないか。友人と婚約者、できれば私を優先してほしいものだな」
ベネディクトは皮肉混じりなことを言いおいて、ハリエットとともに食堂へ向かった。
ベネディクトがそうであるのだから、当然、兄からも詮索された。同じようなことを答えれば、
「春には卒業するのだから、一緒に食事できる機会もあと
と、どこかベネディクトと同じようなことを言った。
一日ごとに寒さは増して、暖房のない温室は底冷えするようになった。コートニーは自室からブランケットを持ち込んで、ぐるぐる巻きのマフラーと、それから手袋も欠かさなかった。
コートニーは、真っ赤な手袋を買った。甲の部分に縄編の模様が入ったミトンを選んだ。
ジョゼフから借りた五本指ではないのだが、それでもお揃いの手袋を持てたように思えて嬉しかった。
一人きりの温室で、コートニーはこのところ読めずにいた小説を開いた。
現実のコートニーは、ジェントルと会ったりジョゼフと温室通いをしたり、生徒会活動の見学をしたりと変化のある日々を送っていたが、久しぶりに開いた小説は、栞の挟まれたところから一歩も前には進んでいなかった。
物語は、そろそろエンディングに向かっていた。
残りのページは厚みを失って、主人公は、自分の進む道を選択する場面に差し掛かっていた。
こんな盛り上がりの場面であるのに、コートニーは何日も読みかけのままにしていた。それくらい、ジョゼフとジェントル、二人と過ごせる時間を優先していたのである。
その日も、いつになくしつこかったベネディクトを見送って、ランチボックスと小説を片手に、もう誰も来ない温室に向かった。
物語に没頭すると、感情移入しやすいコートニーは、容易く現実から意識を離すことができる。
昨日まで読んでいた場面を思い出しながら、続きはどうなるのかと、そんなことを考えて手慣れた調子で温室の扉を開いた。
中に一歩足を踏み入れた途端、いつもと空間が違うことに気がついた。人の気配があるのを感じて、コートニーは静かに後ずさった。
誰がいるのかわからない、そんなところで他人とかち合うのは危ないと思った。
だが、用心深く踵を返すところで、奥のほうから声がした。
「コートニー嬢?」
つい数分前まで前の席に座っていたジョゼフだった。
「ジョゼフ様?」
互いに姿は見えないのに、互いの名前を呼びあった。
「こっちにおいでよ」
その声に引き寄せられると思った時には、コートニーは狭い通路を早足になって進んでいた。
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