閑話5 佐藤のブレンド・揺れる距離感
教育実習を終えた佐藤は、遥の言葉と笑顔を思い出していた。
「また一緒に授業できたらいいな」——その一言に込めた想いは、まだ届いていない。
カフェ・デ・ソルテで過ごす午後、一杯のコーヒーが、彼の背中をそっと押してくれる。
午後の街は、蒸し暑さを含んだ風が吹いていた。
佐藤は、大学の構内を出て、ゆっくりと歩いていた。
教育実習の最終日。
子どもたちの笑顔と、教室のざわめきが、まだ耳の奥に残っていた。
「佐藤先生、また来てね!」
「今日の授業、楽しかった!」
その言葉に、胸が少しだけ熱くなった。
でも、それ以上に心に残っているのは——
「また一緒に授業できたらいいな」
そう言ったときの、遥の表情だった。
彼女は、少し驚いたように目を見開いて、それから笑った。
その笑顔が、ずっと頭から離れない。
佐藤は、ため息をひとつ吐いた。
あの言葉、軽かっただろうか。
浮ついていたと思われたかもしれない。
でも、本当は——
「もっと、ちゃんと話したかったんだ」
そう呟いたとき、ふと思い出した。
遥が話していた、静かで落ち着くカフェのこと。
「カフェ・デ・ソルテ」
彼女がよく通っていると言っていた店。
地図を頼りに歩いていくと、木の扉と手書きの看板が見えてきた。
午後の光に照らされて、店は静かに佇んでいた。
カラン、と鈴の音が鳴る。
店内は、外の喧騒とは別世界だった。
木の床、柔らかな照明、棚に並ぶ本と植物。
空気が、少しだけ甘くて、温かかった。
カウンターの奥に、マスターが立っていた。
白いシャツに、深い色のエプロン。
穏やかな目をしていて、佐藤に向かって微笑んだ。
「いらっしゃいませ。今日の気分は、いかがですか?」
佐藤は、少しだけ迷ってから答えた。
「……誰かに近づきたいけど、怖いです。
踏み出すのが、うまくできなくて」
マスターは頷き、静かに豆を選び始めた。
深煎りのマンデリンと、香り高いコスタリカ。
誠実さと揺らぎに寄り添う、静かなブレンド。
豆を挽く音が、店内に響く。
その音に包まれながら、佐藤は遥とのやりとりを思い出していた。
——授業の準備を一緒にした日。
子どもたちの前で、彼女が絵本を読んでいた姿。
「教えることが好きなんです」と言ったときの、まっすぐな瞳。
その言葉が、眩しかった。
自分も、誰かにそう言えるようになりたいと思った。
湯を注ぐ音が、香りとともに広がる。
佐藤は、そっと目を閉じた。
「どうぞ」
カップを受け取り、口をつける。
深みのある苦みと、華やかな香り。
心の奥に、ふっと灯りがともるような味だった。
「……この味、好きです。
なんだか、ちゃんと向き合える気がします」
マスターは微笑んだ。
「その気持ちが、あなたの誠実さになります。
誰かと歩く未来も、きっと温かいものになりますよ」
佐藤は、カップを見つめながら頷いた。
「……もう少しだけ、勇気を出してみます」
店を出ると、午後の光が少しずつ傾き始めていた。
風は湿り気を帯びていて、季節の境目を静かに知らせていた。
スマートフォンを取り出し、メッセージを打つ。
「今日、少しだけ話せて嬉しかったです。
もしよかったら、今度ゆっくりお茶でもどうですか?」
送信ボタンを押したあと、胸の奥に小さな灯りがともった気がした。
佐藤は、夕暮れへ向かう街を歩き出した。
誰かと並んで歩く未来へ向かって——。
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