第7話 遥のブレンド① 迷いの午後
教師になる夢を追いかけてきた遥。
けれど、教育実習を終えた今、心には迷いが残っていた。
「私、本当に向いてるのかな」
そんな午後、彼女はもう一度、あの扉を開ける——
教育実習が始まって三日目。
遥は、帰り道をわざと遠回りしていた。
校門を出た瞬間から、胸の奥が重たくて、まっすぐ家に帰る気になれなかった。
教室では笑顔でいようと決めていた。
でも、子どもたちの前に立つたびに、心がざわついた。
「先生」と呼ばれるたびに、自分が誰かになりきらなければいけない気がして、息が詰まりそうだった。
その日も、授業でうまく話せなかった。
子どもたちの反応が薄くて、何かが届いていない気がした。
「向いてないのかも」——そんな言葉が、頭の中をぐるぐる回っていた。
歩道の端に立ち止まり、深呼吸をしてみる。
でも、空気はうまく入ってこなかった。
胸の奥が、ずっとざわざわしていた。
ふと、目に留まったのは、木の扉と手書きの看板。
「カフェ・デ・ソルテ」
知らない店だった。でも、なぜか足が止まった。
扉の向こうに、静かな場所がある気がした。
意を決して、扉を押す。
カラン、と鈴の音が鳴った。
店内は、外のざわめきとは別世界だった。
木の床と、柔らかな照明。
棚には、古い本と小さな植物が並んでいる。
空気が、少しだけ甘くて、温かかった。
カウンターの奥に、マスターが立っていた。
白いシャツに、深い色のエプロン。
穏やかな目をしていて、遥に向かって微笑んだ。
「いらっしゃいませ。今日の気分は、いかがですか?」
その声は、静かで、でも芯があった。
遥は、言葉を探しながら、少しだけ俯いた。
「……落ち着きたいです。
なんだか、心がざわざわしてて……」
マスターは頷き、静かに豆を選び始めた。
中煎りのグアテマラと、香り高いエチオピア。
不安に寄り添い、静かに整えるブレンド。
豆を挽く音が、店内に響く。
その音は、遥の心のざわめきを、少しずつ整えていくようだった。
湯を注ぐ音が、静かに広がる。
香りが立ち上る。
それは、誰かに見守られているような香りだった。
「どうぞ」
遥はカップを受け取り、そっと口をつけた。
柔らかな酸味と、静かな甘さ。
心の奥に、ふっと灯りがともるような味だった。
一口飲んだ瞬間、胸の奥に溜まっていたものが、少しずつほどけていく。
呼吸が、自然にできるようになった。
ようやく、周りの景色が目に入ってきた。
窓際の席には、読書をしている女性。
棚の上には、季節の花が飾られている。
カウンターの奥で、マスターが静かに次の豆を選んでいる。
その姿が、なぜか安心感をくれた。
この店は、誰かの心を受け止める場所なんだ——そう思えた。
「……おいしいです。
なんだか、ちゃんと息ができる気がします」
マスターは微笑んだ。
「その一杯が、あなたの心を整えてくれますように」
その言葉が、遥の胸に静かに染みた。
それから、遥は何度かこの店を訪れるようになった。
教育実習の帰り道、心が揺れた日、誰かに話したくなった午後——
この店は、いつも静かに迎えてくれた。
そして今日も、遥は扉を開ける。
「こんにちは……また、来ちゃいました」
マスターは、変わらずカウンターの奥に立っていた。
「おかえりなさい。今日の気分は、いかがですか?」
遥は、少しだけ考えてから答えた。
「……自分の灯りが、見えなくなった気がします。
夢だったはずなのに、今はちょっと、怖いです」
マスターは頷き、静かに豆を選び始めた。
中煎りのコロンビアと、優しい香りのパナマ。
迷いに寄り添い、心にそっと灯りをともすブレンド。
豆を挽く音が、店内に響く。
その音に包まれながら、遥は教育実習のことを思い出していた。
——朝の教室。
子どもたちの笑顔。
失敗して落ち込んだ日。
それでも、「先生、ありがとう」と言ってくれたあの子の声。
そして、実習仲間の佐藤くんの言葉。
「子どもたちの目って、すごいですよね。
自分が試されてる気がするけど、でも……ちゃんと見てくれてる」
その言葉が、ずっと心に残っていた。
湯を注ぐ音が、香りとともに広がる。
遥は、そっと目を閉じた。
「どうぞ」
カップを受け取り、口をつける。
柔らかな酸味と、静かな甘さ。
心の奥に、ふっと灯りがともるような味だった。
「……この味、好きです。
なんだか、ちゃんと前を向けそうな気がします」
マスターは微笑んだ。
「灯りは、遠くにあるとは限りません。
誰かの笑顔の中に、あなた自身の中に、きっとありますよ」
遥は、カップを見つめながら頷いた。
「向いてるかどうかじゃなくて……
私、教えることが好きなんです。
それだけは、ちゃんと信じていたいです」
「その気持ちがあれば、きっと大丈夫です。
あなたの一杯は、いつでもここにありますから」
店を出ると、春の光がまぶしかった。
風が、少しだけ優しくなった気がした。
遥は、スマートフォンを取り出した。
画面には、佐藤からのメッセージが届いていた。
「今度、教育実習の打ち上げしませんか?」
彼女は、少しだけ笑って、返信を打った。
「うん、行きたい」
そして彼女は、歩き出した。
灯りの教室へ、そして誰かと並ぶ未来へ向かって——。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます