第4話 魔法使いをやめた日Ⅳ ―未完成の魔法陣―

 学舎の奥にある古びた書庫は、朝の光が届きにくく、静寂が支配していた。

 木の床に落ちた埃がわずかに舞い、ミナの足音が静かに反響する。


 長年使われていない書棚には、古い魔法書や巻物が積まれ、埃をかぶっている。

 そこには、かつてエリオが書き残した膨大なノートも置かれていた。


 ミナはその中から、一冊を取り出す。表紙は擦り切れ、角は折れ曲がっている。

 ページを開くと、そこには複雑な魔法陣が描かれていた。

 赤、青、金色の線が渦巻き、微細な符号が幾重にも重なっている。


「……これが、エリオの残した魔法陣……」


 息を整え、手を触れると、指先に微かな魔力

 の余韻を感じた。

 これは彼女の手で完成させなければならない魔法陣。

 完成すれば、風の循環を通して人を癒す力を持つ。

 しかし、未熟な魔力で手を加えれば、逆に暴走する危険がある。


「怖い……でも、やらなきゃ」


 ミナの胸は高鳴り、手の震えを抑えながらページをなぞる。

 魔法陣の線が微かに光を帯び、机の上に淡い風が流れ始める。

 息を吸い込み、吐くたびに集中を高める。

 背後で静かな足音が聞こえ、振り返るとレオンが立っていた。長い影が書庫の壁に映る。


「まだ早い……お前には荷が重いかもしれない」


 レオンの声は落ち着いているが、どこか重さがある。

 魔法を使えない自分が、彼女に何を伝えられるのか――その葛藤が透けて見える。


「師匠……私はやります。エリオさんの魔法を完成させたいんです」

「……お前にその資格があるかどうかは、やってみなきゃわからん」


 レオンは静かにため息をつき、机に手を置く。魔法は使えないが、知識と経験で彼女を導くことはできる。

 ミナは頷き、深く息を吸った。


 時間が過ぎる。

 光は書庫の窓から斜めに差し込み、埃の粒を黄金色に輝かせる。

 ミナは魔法陣の細部を確認し、線を描き、符号を正しい位置に置く。

 手が痛くなるほど集中していたが、それでも止まることはできない。


「……ここで間違えたら……」


 頭の中に、失敗したときの光景がちらつく。

 火花が散り、机が吹き飛び、書庫が煙に包まれる。

 しかし、目の前にあるのは希望だ。

 エリオの想いを形にするため、彼女は恐怖を押し殺し、線をなぞる。


 レオンは静かに見守る。

 時折、手で魔法の流れを示し、符号の意味を指摘する。


「その位置じゃ、流れが乱れる。ここはこうだ」

「はい……!」


 緊張の中で、二人の呼吸が重なる。

 教室の子どもたちの声が、遠くでかすかに響く。日常と非日常が交錯する時間。


 午後になると、窓の外の光は少しずつ傾き、書庫の中に柔らかな影を落とす。

 ミナの肩は疲れで重くなるが、手を止めることはできない。

 魔法陣の線が完成に近づくにつれ、微かな風が指先から流れ始めた。


「……感じる。風が……流れてる」


 小さな声で呟く。

 魔力が指先を通して空気を揺らす。

 初めて、自分の力が魔法陣と共鳴していることを実感する瞬間だった。

 背後でレオンが目を細める。


「……やるじゃないか」


 その言葉に、ミナは一瞬肩の力を抜いた。

 しかし、安心する暇はなかった。

 魔法陣はまだ完成ではない。

 最後の符号を置くためには、集中力を最大に保つ必要がある。


 夕方、書庫の窓から差し込む夕日が赤く染まる中、ミナは最後の符号に触れる。

 手が震え、呼吸が乱れる。

 魔法陣が微かに光り、書庫の空気が波打つ。

 小さな風が舞い、埃が踊る。


「……これで……」


 彼女の声が、書庫の静けさに溶けていく。

 指先から流れる魔力は、風となって部屋の隅々に行き渡った。

 魔法陣は完成し、初めて自らの力と共鳴した。

 レオンは微かに笑み、肩の力を抜く。


「……よくやった」


 喜びと緊張の入り混じった瞬間、ミナは初めて達成感に包まれる。

 しかし、心の奥では新たな不安が芽生えていた。


「これで……本当に、外の世界に通用するのかな……」


 魔法は完成した。

 しかし、未知の力が外界には存在している。嵐や危険は、まだ遠くに潜んでいるのだ。

 それでも、ミナは迷わなかった。

 風は今、自分の手にあり、希望はここにある。


「私が……守る。学舎も、子どもたちも、そして魔法も」


 夕日に染まる書庫で、少女の決意は固まった。背後の窓から吹き込む風が、まるで応援するかのようにミナの髪を揺らした。

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