愛に絞殺

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第1話 好きの反対は大嫌い


 俺は、愛が信じられない。愛情を恨んですらいる。愛は人を狂わせる。愛は人を傷つける。だから俺は、愛が嫌いだ。


 振り抜いた拳が狙い通り男の頬にぶつかって鈍い音が立つ。手の甲がじんわりと痛んだが、相手の痛みはその比ではないだろう。倒れこむ男に立ち上がる気配がないことを確認しつつ背後に迫る複数の足元に意識を向けた。


「またお前か、神崎かんざき


 見慣れた顔の風紀委員が呆れたように俺を見てくる。五月に転校生が来てからというもの、親衛隊を中心にこの学園の風紀は乱れるばかりだ。転校生とは何度か会ったことがあるが、あいつ自身は悪い奴ではない、のだと思う。それでも、学園の人気者たちがこぞってあいつに熱を上げるとなれば、今までその人気者たちを見つめるだけだった親衛隊たちが黙っているわけがない。親衛隊が転校生への制裁を始め、これまでは問題視すらされていなかった軽度の接触をした生徒にまで制裁をするようになり、その混乱に乗じて今度は見目の良い親衛隊の生徒を襲おうとする奴まで現れる。何が悪いという明確な原因はないが、学園の風紀はかつてないほどに乱れていた。

 殴られた頬が熱を持ち始めて疼き始めたことに苛立ちながら、俺は後ろの木陰で蹲っていた小柄な生徒に視線を向ける。


「また強姦未遂だ。正当防衛以上の手出しはしていない」


 早く保護してやれ、そう言って顎をしゃくって生徒を指した。乱された制服は上からかけられた俺の上着でよく見えないが、長時間屋外にいるのにも人前にいるのにも適さない程度には乱れているのはわかる。お前もあとで事情聴取だからなとだけ言い残して風紀委員は地面に伏したまま拘束されている男たちの間を縫ってその生徒の方へ向って行った。


忠義ただよし


 生徒が保護される様子を見届けていたら、不意に名前を呼ばれるのと同時に顎に手を添えられて顔の向きを変えられる。向けられた先にいたのはこれ以上なく見慣れた顔の長身の優男。


「何度言えば怪我をしなくなるんだ」


 冷えた指先が腫れて熱を帯びる頬を撫でる。他にも何発か攻撃をくらっていたが一番目立って酷いのはそこだろう。冷やされる気持ちよさと触れられる痛みが同時に与えられて思わず眉を顰めた。その手をやんわりと払いのけてから目線を外すようにさとるから距離をとる。


「俺のとこなんかにいないで、忠犬はさっさと飼い主様のところに戻ったらどうだ」


 どうせその飼い主様の命令で俺の様子を見に来たんだろうが、何一ついつもと変わらない。目の前で暴行があったから飛び込む前に風紀に連絡して、正当防衛のために最初に一発くらって、それで風紀や悟が到着するころには全部終わらせてる。誰に命じられたわけでもないし、正義感で動いてるわけでもない。ただ、こいつらに、俺たちの飼い主の親衛隊に大々的に何かあれば飼い主が何かしら動かなくてはならなくなるから、その芽を潰しているだけだ。

 俺は番犬。悟は忠犬。飼い主の家に仕える家に生まれて、そういう風に育った。俺は悟ほど単純に飼い主のことが好きなわけでもないし、むしろ憎らしいとさえ思っている。それでもこの身体に流れる血があいつの身を、名を、立場を、汚させるなと俺を駆り立てるのだ。それこそ、本能のように。


「…ほまれが部屋に来いと」


 その名前を聞くだけで脈動が激しくなる。今すぐに馳せ参じろと血流が俺を急かし、けれど感情が会いたくないと悲鳴を上げる。その名前に固執しすぎて、本人と悟以外がその名を口にすることさえ許せなくなった。いつから俺は、こんなにおかしな人間になってしまったのか。

 俺と悟と、その飼い主の誉は幼馴染だ。俺と誉の父親もまた。悟の父親だけはいくつか年が離れているが親交は深い。俺だけ学年が一つ下だが、そんなこと関係なく俺たちは友人のような兄弟のような距離感で付き合ってきた。歯車がずれたあの日までは。


「夜に行きゃいいんだろ」


 脳裏に泣きながら笑う女の姿が過ぎる。その残像さえ残さないように頭を振ってから悟に背を向けて歩き出した。どこにいくという声に保健室と返せば、手当てをすることに異議はないのだろう。文句も言われなかったのでそのまま歩みを進める。途中すれ違った風紀委員に保健室に寄ってから風紀室に向かうことを伝えて、俺は頬に手を当てた。熱い。痛い。痛い、のは、どこだったっけ?

 無意識に首に手をかけていることに気が付いて、勢いよくその手を振り払う。その勢いで先程まで痛まなかった肩まで痛みだした。気が付かなかったがきっといつの間にか殴られでもしていたんだろう。

 ぼんやりと考えながら校舎の中に入り廊下を進む。差し込む日差しは暖かく、この中で昼寝でもしたらきっとこの上なく気持ちがいいに違いない。碌に睡眠のとれていない身体が眠ってしまえと誘惑をかけてくるが、どうせ横になっても満足に眠ることなんて出来やしないのだからとその誘いを無視する。柔らかい寝具、暖かい寝床、そんな場所で俺は眠ることが出来ないのだから。

 今頃悟は誉の所に戻って報告でもしているのだろうか。忠犬と言われるだけあって、あいつは八割方誉の側を離れない。それこそ生徒会長になった誉の側にいるために同じ生徒会役員になる程度には。一方で俺は余程のことがなければ自主的にあいつに会おうとしない。大抵は誉が俺を呼びだすか、俺の所にやってくるかだ。番犬の役目は周辺警護。身の回りの世話や護衛は忠犬に任せておけばいい。俺は庭先に入っていくる侵入者を排除するだけ。忠犬と違ってご褒美も餌も逐一飼い主から与えられる訳もない。

 血がそうさせるのか、俺自身の感情なのか、最早分別することなど不可能なのかもしれないが、俺は誉を愛している。これ以上なく。触れたいし、触れてもらいたいし、名前を呼びたいし呼ばれたい。すぐ傍で誉の世話を焼き誉の役に立てる悟が羨ましくもあるが、それでも俺はそれ以上に今の立場で良かったと思える。だって俺は、愛情と同じくらいに誉が憎いのだ。誉への愛情が、もしすべてこの血に刻まれたものに因るものなら、俺はきっと自分も誉も許せない。この血に因る愛情なんていらない。気持ち悪い。そんなものに俺は左右されないし支配もされない。

 近くにいたらその答えが見えてしまう気がして、だから誉の隣にいることのないこのくらいの距離感が俺には丁度いいのだ。愛してる。憎んでいる。それを誉に知られたくもないし、答えも知りたくない。臆病者の番犬は、それすら覚られないように距離を置くのだ。

 保健室で湿布をもらって、風紀室で事情聴取されて、自室に戻って夕食と入浴を済ませれば大体誉の部屋に向かうのにいい頃合いだろう。自分の中のタイムスケジュールに大雑把に予定を書き込んで他に用事がなかったことを確認して俺は歩みを早めた。





 頬に貼られた湿布が微妙に歪んでいるのを鏡越しに睨みながら、俺は脱衣所を出る。保健室に保険医がいなかったのでメモを残して湿布だけいただいて自室に帰ってから手当てしようと先に風紀室に向かったのだが、目敏くそれを見つけた風紀委員によって無理矢理湿布を貼られてしまった。下手に抵抗したせいで皺の入ったそれを剥がすのもまた痛いし面倒だしでそのままにしてあるが、鏡でそれを確認する度に不格好なそれに思わず顔を顰めてしまうのは仕方ないだろう。

 寮の中は私服で過ごす生徒が多い。俺も適当に選んだジャケットを羽織って他の怪我を覆い隠していることを確認する。その最中に財布を制服に入れたままだということに気が付いた。いつも財布の中にカードキーもいれているので、財布がないと外出はできても部屋に戻れないという事態になるのだ。俺は一般生徒だから同室者がいるが、そいつは随分と早くに寝る上眠りも深いから遅くに戻ってしまうと部屋に入る手段がなくなってしまう。

 自分の部屋に入って目に入るのは、まずきれいに整えられたままのベッドとその向こうの床でぐしゃぐしゃに丸められたシーツと毛布だろう。円形になったそれはまるで犬の寝床のようだといつも思う。その犬の寝床が、俺の寝床だ。実家のベッド以外では碌に眠れずに起きてしまう俺だが、そこに温もりと柔らかさがなければ幾分かマシだということに気が付いたのはいつだったか。流石に睡眠を取らないわけにもいかないので、苦肉の策で床にシーツを引いてその上で毛布に包まってみたら案外眠れたのでそれ以降この睡眠方法をとっている。もちろんこんな眠り方では身体はそう休まらないし長時間の快眠という訳でもないのでいつも寝不足気味にはなってしまうのだが。

 誰にも言えないこの寝床を見るたびに惨めだと思う。それでもどうしようもないのだから、これも俺の個性の一つだと妙な納得のさせ方で飲み込んでしまう。

 ハンガーに掛けられたスラックスから財布を抜き取ってパンツの後ろポケットにねじ込む。誉の部屋に行くのに特に必要なものもないからこのまま向かってしまおう。まだ夕食後のデザートを楽しんでいた同室の奴に声をかけてから玄関に向かい、誉の部屋へと俺は足を向けた。


 俺と悟と誉は互いの部屋の合鍵を持っている。俺だけは二人部屋なので都度相部屋の奴にも了承を取ってからになるが、二人は二年の時からずっと生徒会役員の特権で一人部屋なので特に問題はない。

 その合鍵を使って誉の部屋に入れば室内は暗闇に包まれていた。廊下の奥にあるリビングの窓から差し込む月明かりしか光源がない。俺や悟を呼び出すときはいつもリビングで待っているのにと思いながらも誉の私室の方を見れば扉の隙間から光が漏れていた。部屋にいないわけではないんだなと安心しながら廊下を進んで扉の前に立つ。室内は静寂に包まれていたので俺がここにいることなどきっと足音で丸わかりだろうが、それでも一応とノックをして反応を待つ。


「…誉、忠義だけど」

「入れ」


 即座に返ってきた応えに遠慮なく扉をあける。暗い廊下から照明のつけられた部屋へ入ったので目が慣れずに思わず誉を睨みつけるようにしてしまう。誉はそんな俺を無表情で見詰めながら、手に持っていたハードカバーの本をぱたりと閉じて手近な机へと置いた。そのまま自分が腰かけているベッドの隣のスペースをぽんぽんと掌ではたく。


「ここ座れ」

「は?」


 思いがけない言葉に返事もできない。報告やらなんやらで呼びだされる時、誉や悟はソファに座っていてもいつも俺は立ったままだった。それは、誉から距離を取る為でもあったしその距離は俺には許されていないのだと自分を戒めるためでもあった。それが何故今日に限って。


「別に、このままでいいだろ。用件はなんだよ」

「忠義」

「っ…」


 名前を呼ぶな。そう叫びたくなる。

 誉の声で俺の名を呼ばれる。それだけで背筋に電流が走ったような感覚に襲われる。無条件で言いなりになってしまいたくなる。理性も感情も、すべてが溶かされる。

 何も言えずに俺は弱弱しく首を振った。それでも、視線だけは誉から外せない。外すことを許されない。


「おいで、忠義」


 もう一度、さっきよりも低い声で名前を呼ばれてしまえば、もう言う通りにするしかない。のろのろと鉛のように重い足を動かして、指定された場所よりも少しだけ誉から距離を置いた所に腰を下ろす。わざと空けた距離が俺の最大限の譲歩だ。これ以上詰められたら、本当に頭がおかしくなる。それなのに、誉は許さないとばかりに瞬時にその距離を零にして俺の顎に手を添えた。


「また怪我して…悟にも言われなかったか?」

「…うるせ」

「それにまた寝れてないんだろう。それなのにこう連日学園の暴行事件に自分から巻き込まれて…」


 身体がもたないのも当然だと続ける誉の声はどこか遠くで響くようだった。顎から頬、湿布の上を通って目の下に広がるであろう隈を指先で優しく撫でられる。その感触に俺は歓喜に震え、官能に震える。無意識の内に熱い吐息をもらす自分が浅ましくてたまらない。

 愛おしい、愛おしい。だから、憎らしい。俺がどんなに愛しても俺を愛してくれないくせに。それなのに俺ばかりがおかしくなっていく。底のない沼に落ちていく。もう這い上がれないような深みまで。


 どさりと耳元で音がして初めて俺は誉によってベッドに仰向けに倒されたことに気が付いた。


「誉…?」

「おまけにこの眼だ。お前どんな眼して俺のこと見てるかわかってんのか?」


 身体に伝わる柔らかいマットレスの感触。肌触りのいいシーツと毛布。逆光。俺を見下ろす人影。

 人影、影、見えない、これは、この人影は、誰だ?


「あ、いやだ、放せ、いや、やめろ」

「忠義」

『忠義…』


 柔らかい掌。暖かい掌。いつも優しく俺を撫でてくれる、いつも俺を優しく抱きしめてくれる、これは。冷えた指先。強張った指先。温もりしかなかった瞳の中に揺れる憎しみと愛情と、俺に降り注ぐ水滴。優しかった掌で、泣きながら俺の首を絞める、この人は。


「かあ、さ…」

「俺を見ろ、忠義」

『大好きよ、忠義。愛してるの。でも、このままだときっといつか不幸になってしまう』

「くるし…やめて、母さん」

『だから、その前にここで一緒に…』


 息ができない、苦しい。抵抗したいのに、振り払いたいのにどんどん腕からは力が失われていく。温もりも一緒に失われて、体中から体温と一緒に血液やら体力やら生きようとする身体の機能が流れてどこかへ行ってしまうようだ。

 母さんは愛していると何度も俺に囁きながら涙を俺の目尻に落として、まるで俺が泣いているような錯覚を覚えた。やめて、愛してるなんて言わないで。こんなに苦しいものが愛なら、俺を殺そうとするものが愛なら、俺はこんなもの、愛なんてもの、


「忠義!」


 耳元で呼ばれた自分の名前に身体が跳ね上がる。沸騰したように体中を血が駆け巡り一気に体温が戻ってきた。

 定まらない視線を泳がせて、ようやくさっきよりも随分近くにいる誉と目が合った。


「…悪いな、こういうのはゆっくり癒していくもんだとはわかっているが、俺がもう限界だ」

「あ…なに…?」

「俺を見ろ、お前の前にいるのは、お前の瞳に映ってるのは、誰だ」

「…誉?」

「そうだ、俺だ。いい子だから、そのまま俺のことだけ見てろ」


 耳元から髪を掻きあげるようにして指をさしこまれる。こんなに長時間誉と見詰めあったのは久しぶりかもしれない。触れ合う指先から、足先から侵食する体温は普段なら不快でしかないはずなのに、今は心地好いとしか感じられない。ベッドの上の体温なんて、いつもなら跳ね起きて嘔吐でもしてるところなのに。

 俺の気持ちを落ち着かせるように優しく撫で続ける誉の指先が気持ちよくて、瞼を閉じて吐息をもらせばそれを拾うように何かに唇を塞がれた。髪を撫でる指先と唇に触れる体温が心地好くて瞼が開けられそうにない。


「物欲しそうな顔で俺のこと見てる癖に…。いい加減俺のことが憎いんじゃなくて、愛しすぎてどうにかなるのを怖がってるだけだって自覚しろ、この馬鹿犬」

「あ…誉…?」

「明日起きたらもう逃がさねぇからな…これ以上他人に傷つけられてたまるかってんだ」

「なに…」


 唇から離れた体温が首筋へと降りる。時折ぬめりとした感触のあとひんやりとした冷たさに襲われて体を捩っても圧し掛かるように俺を拘束している誉によって身じろぎも碌にできない。それでもその体温がまた心地好くて、瞼はもう開けそうになかった。


「大体、俺の匂いか体温がないと寝られねぇ体質になっちまった時点で、お前は俺に捕まる運命なんだよ」


 俺は、愛が信じられない。愛情を恨んですらいる。愛は人を狂わせる。愛は人を傷つける。だから俺は、愛が嫌いだ。だけど、





好きの反対は大嫌い


(誰よりも愛に飢えていた)

(愛が欲しくて、愛に飢えて、飢えていることすら気が付かないくらいに)





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