第13話 苗床

この物語はフィクションであり、特定の個人、団体とは一切関係ありません。



それから駅に着くまで、何度聞いても、徳ちゃんは『母が祖母に愛されたかった』という言葉の意味を教えてくれなかった。

確かに、親子であれば、子が親に愛してほしいと願い、親もまた、子を愛することが普通だろう。

でも、徳ちゃんの言い方には、それだけではない、何かが込められていた。

僕は家に帰っても、その疑問が頭から離れなかった。母に聞ける話ではないし、家では、父や祖父、それから兄には、世界光明真教だけでなく母方の親族の話をすることも禁忌だった。

考えあぐねた僕は、母が入浴中に、手がかりを求めて、母の部屋にこっそりと忍び込んだ。

徳ちゃんが言っていた、母と徳ちゃんが文通していたころの手紙がないかと思い、僕は本棚や水屋の中、文机の引き出しを開けてみた。

几帳面な母が、徳ちゃんとの手紙を残している可能性はかなり高いはずだ。

しかし、予想に反して、徳ちゃんとの手紙は見つからず、それとは別に、僕は文机の引き出しのいちばん奥から、古い日記を見つけた。

その日記の間には、その日記よりもさらに古い日付の、母が祖母に送った手紙の控えが挟まっていた。

取り出して広げてみると――


『地区長様へ

取り急ぎ、用件のみお伝えします。

結論から申し上げます。

この家の取り込みには失敗しました。

残念ながら夫とその父は、お光様の威光に対し、不遜な態度を続けています。

私が長男を連れてお参りに参加しようとしたところ、義父から『家を継ぐ長男を巻き込むのであれば、世間体が悪いが、離婚を選択せざるを得ない』と言われました。

やむを得ず、義父、夫および長男の取り込みは諦め、次の子を作り、取り込みを図りたいと考えています。

長男でなければ、おそらく世間体と天秤にかけたとき、義父もそこまで強硬な態度には出ないと思われます。

義父と義父の会社の者たちの監視が厳しく、しばらくそちらに行けませんので、状況のみ手紙でお知らせする次第です。

追って、監視が緩めば、直接ご報告にあがります。

すべてはお光様のために。

平成19年3月12日 綾子』


という内容だった。

僕は震える手で手紙を日記に挟むと、日記を文机の元の場所へ戻した。

『地に足がつかない』とはこういうことか――。

僕はそれが本当であることを体験した。

自分が急いで母の部屋を出ようとしている一方で、自分の視点が天井まで上がり、上から自分を見下ろしていた。足が床をうまく踏みしめられないような感覚だった。

歩みを進めているにもかかわらず、前に進んでいないようでありながら、きちんと部屋を出て襖を閉めたことを認識している。

自分が分離し、一方は体の中に、もう一方は上空を漂いながら自分を見つめている。

夢の中で何かに追われ、必死に足を動かしているにもかかわらず、足が滑り、まったく前に進めない自分を、第三者の視点から客観的に見つめているようだった。

「取り込まれたんじゃない、僕は。最初から苗床として……」

猛烈な吐き気が体の底から吹き上がり、僕はトイレに駆け込むと、便器を抱えて吐き始めた。

夕食を吐き戻し、胃液を吐き、もうよだれすら出ない状態になっても、僕は吐き続けた。

自分の中のすべてのものだけでなく、自分自身をすべて吐き戻し、苗床のすべてを下水に流さなければならない――そんな思いが頭をよぎるたびに、次から次へと吐き気と嫌悪が僕の心に押し寄せていた。

延々と続く自己嫌悪の中で、善意で人の死を喜ぶ祖母、その祖母に愛されることに手段を選ばない母、道具として生み出され、道具に過ぎないのに陽子姉さんを刺した自分、逃げ延びた兄、二男ならと僕を差し出した祖父や父、ありとあらゆる思考が僕の中で渦巻き続ける。

僕は口の端に吐瀉物をつけ、よだれを垂れ流したままトイレを飛び出し、風呂上がりに髪を乾かしている母のもとへ走った。

母は鏡越しに僕に目をくれただけで、そのままドライヤーで髪を乾かし続けた。

「常に苛立っていたのは、僕が不本意な予備だからか、それとも兄の取り込みに失敗した自分に対してか、どっちだ?」

僕は絶叫した。

母は一瞬、驚いた顔を見せたが、振り返りもせず、ドライヤーのスイッチを切り、鏡台に置くと、長い髪を両手で広げた。

「両方よ。」

そう言って、再び鏡越しに僕を無表情で見つめた。

「なぜそんなことができるんだ。子どもまで作るなんて。なんでそんなことが……。」

僕は膝をついて、畳にうずくまりながら叫んだ。

母は僕の頭の上から、低く、地の底から響くような声で言った。

「すべてはお光様のために。」

母の信仰心は異常すぎる。他の家を巻き込み増殖をはかり、その手段として子を成す。

母は徳ちゃんと同じだ。世界光明真教もお光様も、何ひとつ信じていない。

僕は立ち上がり、母を指さして

「神狂いの母にそんなに愛されたいのか!」

と高笑いをした。

その途端、母は左手でドライヤーを握り、振り返りざま、薙ぎ払うように僕の側頭部へ振り抜いた。

母の手を離れたドライヤーは、僕の頬をかすめてガラス戸に激突し、大きな音を立てた。

何事かと家族が駆けつけてくる間に、僕は家を飛び出した。

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