第10話 再構の風(後編)

 風が止んだ。


 まるで、世界が一度だけ息を吐き、沈黙したかのようだった。

 焼けた大地の上で、炎はまだ微かに燻っている。

 その火は燃え広がらず、ただ光のように漂っていた。


 エインは膝をついたまま、拳を地に突き立てていた。

 腕の表面は焦げ、装甲の隙間から煙が上がる。

 内部の熱が抜けきらず、赤い光が皮膚のように脈を打つ。


 息を吸い、吐く。

 呼吸が重い。

 肺の奥に、まだ風の圧が残っていた。


 「……ティナ。」


 名を呼ぶと、遠くで小さな声が返る。

 「ここにいる……!」


 丘の影から、彼女が駆け寄ってきた。

 ランタンの灯を抱えたまま、足元の灰を踏みしめる。

 炎はもう、光としてしか残っていない。


 ティナは膝をつき、エインの腕に触れた。

 熱い。

 けれど、その熱は生きている証のように思えた。


 「……大丈夫?」

 彼は頷く代わりに、息を吐いた。

 呼吸の音が、久しく聞こえた音だった。


 風が戻り始めていた。

 だが、もう先ほどのように冷たくはない。

 温度を取り戻した風が、砂を撫で、草を揺らす。


 ティナが空を仰ぐ。

 白く霞んでいた雲の隙間から、淡い青が覗いていた。


 「……風、帰ってきたんだね。」


 エインは顔を上げた。

 視線の先、戦場の中心にひとりの影があった。

 カイム。


 胸の装甲が砕け、片膝をついている。

 風は彼の周囲を静かに漂い、命令の形をなしていなかった。


 エインが立ち上がる。

 「……終わってはいない。」


 彼の声に、ティナがわずかに肩を震わせた。

 「まだ、戦うの?」


 「違う。」

 エインは首を横に振る。

 「今の彼は、戦っていない。――風を、探している。」


 カイムの背から、壊れかけた結晶羽がひとつ落ちた。

 地面に触れた瞬間、それは粉のように崩れ、風に溶けた。


 ティナはその様子を見つめ、ランタンを抱きしめた。

 灯が揺れる。

 その光が、倒れたカイムの胸の傷を照らす。


 わずかに、そこが光った。


 エインが息を呑む。

 「……まだ、動いてる。」


 ティナは目を細めた。

 「違う。――“生きてる”んだよ。」


 風が、ふたたび吹いた。

 音を持つ風だった。

 世界が再び、息をした。


 空はまだ青白く、風は弱かった。

 焼けた地表の熱を冷ますように、やさしく流れている。

 だが、その風にはもう、命令の匂いはなかった。


 ティナはカイムの前に立っていた。

 地面には風で削れた跡が幾重にも刻まれている。

 その中心で、カイムは片膝をついたまま動かない。


 彼の装甲には無数の亀裂が走り、胸の奥でかすかな光が明滅していた。

 それは炎でも魔力でもない。

 まるで心臓の鼓動のような、柔らかい揺らぎ。


 ティナはランタンを胸の前に掲げた。

 炎が、風に呼応するように小さく揺れる。

 その灯は、風を怖がるように、それでも消えなかった。


 「……あなた、聞こえてるんでしょう?」


 声は届かない。

 風が音を奪う。

 それでも、彼女は言葉を続けた。


 「戦うためじゃなくて、守るために……その風を返して。」


 カイムの瞳がわずかに動いた。

 命令では説明できない“反応”が生じる。

 風が彼の周囲で螺旋を描き、動きが乱れる。


 ティナは一歩近づいた。

 「あなたの風は、誰かの祈りに生まれたものでしょう。

  命令なんかじゃない。

  だから、戻ってきて。」


 ランタンの灯が風を包む。

 炎が大きくなり、空気が温かくなった。

 その一瞬、風が形を失った。


 空気の粒がかすかに共鳴し、声のかたちを結ぶ。


 『……命令が……聞こえない……』


 その声は冷たく、空虚で、風そのものだった。

 蒼い薄光がほどけ、四方へ散りながらも、完全には消えない。

 消滅ではなく――拡散だ。


 エインは後方でそれを見つめていた。

 ただの風の揺らぎではない。

 命令波の流れが乱れ、外部から干渉を受けている。

 祈りが、命令を通して伝達していた。


 「……届いてる。」


 エインの声は低く、驚きよりも確信に近かった。

 祈りは、理屈を超えていた。

 命令の隙間――そのわずかな“間”に、風が息を吹き返していた。


 ティナの髪が揺れた。

 風が戻る。

 音を持つ風。

 それは、命令ではなく、応答だった。


 カイムの唇がわずかに動く。

 「……誰が……呼んでいる……?」


 その声に、ティナは目を見開いた。

 命令にはない言葉。

 それは、確かに“問い”だった。


 ランタンの炎が一度、大きく揺れた。

 風が光を拾い、丘の上を駆け抜ける。


 ティナは微笑んだ。

 「――風だよ。あなた自身の。」


 カイムの胸の光が、脈を打った。

 それは命令の再起動ではなく、心の律動だった。


 高空へほどけた風は、測器にもかからぬほど薄い波形となって、北東――帝都の空域へ流れていった。


 



 帝都アイゼンブルク。

 夜の中央制御局は、無数の光が縦横に走っていた。


 階層の最下部、観測区画。

 薄暗い部屋の中央で、黒い円形の装置が静かに脈動している。

 その中心に映るのは――風。


 戦場の映像が、断片的な数値となって浮かび上がっていた。

 風速、圧力、魔力干渉率、命令反応値。

 どれも正常値を外れている。


 研究官のひとりが口を開いた。

 「……観測不能領域、拡大中です。

  第十七号体の命令波が一部消失しています。」


 指揮台に立つ男が振り返る。

 ヴァレン・クロウズ。

 帝国軍務局監督官にして、再構兵計画の実戦統括者。


 「“消失”とはどういう意味だ?」


 「命令波が断続的に途絶しています。再送信も受け付けません。

  現地端末との通信は生きていますが、指令層が……空白です。」


 クロウズは端末を覗き込む。

 命令波のグラフに、奇妙な揺らぎがあった。

 ノイズではない。

 波形が規則的に膨らみ、収縮している。


 「……これは、脈動か?」


 周囲の研究員が一斉に首をかしげる。

 「脈動……とおっしゃいますと?」


 「命令波が生体波に似ている。

  規則ではなく、律動だ。」


 沈黙が落ちた。

 クロウズは指先でグラフを拡大する。

 波形の合間に、確かに小さな“間”がある。


 「この空白……ここに何が入っている?」


 研究官が慌てて端末を操作する。

 「検知不能領域です。命令反応値がゼロ。

  しかし――周囲の風速が不自然に安定しています。」


 クロウズの口元がわずかに歪んだ。

 「……風が、命令を拒んでいるのか。」


 彼は背後の壁に埋め込まれた記録装置を指差す。

 「このデータを隔離しろ。

  他の再構体には伝えるな。」


 「ですが、軍務局への報告義務が――」


 「不要だ。これは“命令の裂け目”だ。

  我々の技術が初めて、命令を逸脱した。」


 室内が静まり返る。

 誰も言葉を発せない。


 クロウズの瞳が冷たく光った。

 「……祈りを殺すはずの命令が、祈りを生み出す。

  この現象が再現できれば――」


 彼は端末の通信キーを押した。

 《再構プロジェクト 第壱段階 再起動》


 「“命令の裂け目”を再構せよ。

  祈りの構造を、命令の中に取り込むんだ。」


 赤い警告灯がゆっくりと回転する。

 機械の唸りが低く響き、制御室の空気がわずかに震えた。


 クロウズは小さく呟いた。

 「――これでようやく、神の真似ができる。」



 帝都の夜は、黒い硝子のように静まり返っていた。

 街路を照らす灯りはすべて制御下にあり、明暗の境界はひと筋も乱れない。


 中央制御局の最深部、再構研究区画。

 冷気に満ちた実験室の中央で、巨大な球体装置がゆっくりと回転していた。

 表面には数千の光の線が走り、脈打つように光が広がっていく。


 クロウズは観測窓の前に立っていた。

 その視線は一点――球体の中心に封じられた、風のデータ。


 戦場で消失した第十七号の命令波。

 そこには、説明不能の“律動”が刻まれていた。


 「……命令が脈を打つとはな。」


 隣に立つ研究官が、恐る恐る口を開く。

 「生体的なリズムです。命令信号では再現不可能な……」


 「再現できるようにするのが、我々の仕事だ。」


 クロウズの声は冷たく平坦だった。

 彼は端末に指を滑らせ、命令波の解析図を開く。

 グラフの中央――そこに、ひとつの“間”があった。


 命令の流れが途切れ、空白が生まれる。

 その“間”の内部に、微弱な光が記録されている。


 「これが“祈り”か。」


 クロウズは笑わなかった。

 ただ、淡々と呟く。

 「祈りは不完全だ。言葉も形もなく、理に還元できない。

  だが――命令で囲えば、完全に制御できる。」


 彼の背後で、金属の扉が開いた。

 数名の技術兵が運び込んだのは、透明の容器。

 その中に、人の形をした“骨格”が静かに浮かんでいる。


 人工筋組織、精霊核の擬似結晶、そして制御回路。

 再構計画――RXシリーズ。


 クロウズは歩み寄り、容器越しにその顔を見つめた。

 「……炎の欠片を持つ兵器が、風の祈りに触れた。

  ならば次は、祈りそのものを最初から造ればいい。」


 研究官がためらいがちに問う。

 「……命令に、祈りを混ぜるのですか?」


 「混ぜる? 違う。」

 クロウズは短く息を吐いた。

 「祈りを命令にするんだ。」


 彼は装置の端末に手を伸ばし、起動コードを入力した。


 《再構体 RX-01 アーセラ 起動準備》


 低い振動が床を這う。

 周囲の灯が一斉に消え、赤い警告灯が点滅した。

 空気が熱を帯び、精霊の気配が一瞬だけ走る。


 クロウズはその反応を見て、わずかに笑った。

 「……祈りを封じた命令。これが、次の神だ。」


 ガラス越しに見える人工の瞳が、微かに光を帯びる。

 それは命令の光ではなかった。

 世界が知らぬ、新しい“朝”の色をしていた。



 夜が明けかけていた。

 焼けた丘の上に、淡い朝の光が差し込む。


 風は静かに流れていた。

 もう命令の形をしていない。

 柔らかく、自由に、世界を撫でていた。


 エインは座り込んだまま、胸に手を当てた。

 炎核の脈動が、ゆっくりとした呼吸のように響いている。

 その律動は穏やかで、どこか懐かしい。


 「……聞こえるか?」


 彼の声に、ティナが顔を上げた。

 「風の音?」


 「違う。……心音だ。」


 ティナは耳を澄ませた。

 確かに、風と炎が重なって聞こえる。

 一定ではなく、まるで誰かの鼓動のように揺れていた。


 「……風が、息をしてる。」


 エインはゆっくりと頷く。

 「命令で止まっていたものが、動き始めた。

  風が、生き返ってる。」


 ティナのランタンの炎が揺れた。

 光が風に溶け、丘を包む。

 その炎が吹き消されることはなく、むしろ風と共に踊っていた。


 エインは空を見上げた。

 淡い雲が流れ、朝焼けの光が金色に変わっていく。

 彼は目を細め、静かに呟いた。


 「……祈りが、世界を直すなんて、誰も信じないだろうな。」


 ティナは笑った。

 「でも、私は信じる。

  だって、いま風が返ってきたもの。」


 風が彼女の髪を撫でる。

 その流れが、かすかに音を立てた。

 命令ではない、祈りの音。


 カイムの身体は、まだ動かない。

 だが、胸の奥で微かな光が瞬いた。

 風が彼のまわりを漂い、息を合わせるように脈を打つ。


 ティナがそれに気づき、そっと目を閉じた。

 「……この風、きっと彼にも届いてる。」


 エインは立ち上がった。

 膝の傷が軋む。

 けれど、足取りは重くなかった。


 「行こう。帝国はまた何かを始める。」


 「うん。でも、今度は負けない。」


 ティナはランタンを掲げる。

 風がそれを照らし返す。

 炎と風――二つの律動がひとつに重なった。


 世界が再び息をする。

 朝の光が丘を包み、戦場だった場所が新しい色に染まる。


 その風の中で、エインは小さく呟いた。


 「……命令じゃなく、意志で歩こう。」


 風が応えるように吹いた。

 炎が微かに笑った。 

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