第2部 王国を揺らす信頼 11話目 新しい風の街
春の風が吹いていた。
王都を囲む丘の上、帆布を張った屋台の列が、白い波のように続いている。
ここは――「自由市場」。
かつて誰も見向きもしなかった郊外の広場が、いまでは王国一の交易地になっていた。
空には色とりどりの旗。
人々の声が渦巻き、獣の匂いと焼きたてのパンの香ばしさが混じり合う。
その真ん中で、若い商人が立っていた。
ルカ・アシュベル。
かつて貧しい商家の倅と呼ばれた男は、いまや“王都の風”と呼ばれていた。
「……悪くない。今日も風向きは上々だな」
木箱に腰をかけ、ルカは手元の帳簿を眺める。
市場全体の取引量は、三ヶ月前の二倍。
使用される貨幣は、ほとんどが王国通貨ではなく、ルカが作り出した“共信札”だ。
――信頼こそ、真の価値だ。
そう言って笑った、あの日の自分を思い出す。
金ではなく、信用の流れが人を動かす。
それが今、形になっていた。
「ルカさん!」
市場の喧騒を縫うように、明るい声が駆けてきた。
金糸の髪を揺らしながら、帳簿を抱えた少女――エリシア・ハーヴェルだ。
「南区の取引、昨日の記録が出ました!」
「どうだった?」
「前年比で三倍! “共信札”の信用印もほぼ全店舗に!」
「……はは、まさかここまで伸びるとはな」
ルカは頬をかく。
努力の成果だと分かっていても、現実感がまだ追いつかない。
「けど、ちょっと気になる報告も」
エリシアの声がわずかに沈む。
「西区のほうで“別の札”が流通し始めているって」
「別の札?」
「“共信札”と似てるけど、印章が違うの。……“黒商印”って呼ばれてる」
ルカの眉がわずかに動いた。
黒商会――。
数ヶ月前、旧貴族の残党が作ったと噂される、裏市場の組織。
「動き出したか」
「……やっぱり、リオ・カディスが関係してると思う?」
エリシアの問いに、ルカはしばし黙り込む。
リオ。
かつて同じ市場に立ち、そして敗れた男。
冷静で、誇り高く、理想を“力”でねじ曲げようとする天才。
「……分からない。でも、彼ならやる」
ルカは小さく息をついた。
「この街が動く限り、リオも黙ってはいない」
夕暮れ。
市場の灯がともる。
街の外れにある高台の倉庫――そこが自由市場本部だった。
机の上には、山積みになった申請書と信頼印。
商人たちの手書きの文字が、まだ湿ったインクの匂いを放っている。
「ルカ、王都商務院からの使者が来ています」
扉の向こうから、低い声が響く。
現れたのは、元王立官吏の青年、ノエル・ガレット。
彼はルカにとって数少ない“理屈の通じる官僚”だった。
「使者? 珍しいな」
「内容は……“共信札の国営化”の提案です」
その言葉に、ルカはわずかに目を見開いた。
「国営化、だと?」
「はい。王国が管理すれば信用も安定する、と。
ただし、自由市場は解体。運営権はすべて商務院に移譲、とのこと」
ルカは苦笑した。
「つまり、民の信用を奪い返すつもりか」
ノエルは肩をすくめる。
「……王国にとって、“共信札”は危険な存在です。
金ではなく信頼が流通する――それは、支配が効かなくなるということですから」
「分かってる」
ルカは立ち上がり、窓の外を見た。
夜風が吹き抜け、遠くの屋台の灯がゆらめく。
「でも、俺たちはもう後戻りできない。
この札は、金でも国でもない――“人の約束”だから」
その頃。
王都北方の屋敷に、ひとりの影があった。
黒衣の男が机の上の報告書を読む。
光の届かない書斎に、ワインの香りが満ちる。
「共信札の流通率、ついに六割……。あの男、ここまでやるとはな」
男は書類を静かに置いた。
リオ・カディス。
敗者の名を返上し、今や王国有数の交易顧問として復帰していた。
「だが、理想はいつか腐る。
人が扱えば、信頼もまた“通貨”になる」
リオは唇を歪め、薄く笑った。
「――そろそろ、奪い返そう。
“理想”という名の商売を」
翌朝。
空は曇り、王都を包む風が少し冷たかった。
「……で、行くの? 本当に」
エリシアは、ルカの袖をつかんで離さなかった。
「行くさ。話を聞かないと始まらない」
「でも、相手は商務院だよ? 王の息がかかってるって噂だし……」
エリシアの声には、心配よりも怒りが滲んでいた。
“信頼”を武器に築いた市場を、権力の都合で奪おうとする。
それがどれほど理不尽なことか、誰よりも彼女が分かっている。
「大丈夫だ」
ルカは軽く笑い、肩を叩いた。
「俺たちは嘘をつかない。嘘をつくのは、いつだって上の奴らさ」
「……ほんと、そういうところ、ずるいよ」
エリシアは唇を噛み、ほんの少し微笑んだ。
「信じてるからね」
「その言葉がある限り、負けないよ」
ルカはそう言って、王都の中央区へと歩き出した。
商務院。
白い大理石の建物は、どこか冷たい。
“信頼”よりも、“権威”の匂いがする。
会議室には、王国の官僚たちがずらりと並んでいた。
彼らの視線は、ルカを見ても笑わない。
ただ“観察”している。まるで珍しい獣でも見るように。
「アシュベル殿。お噂はかねがね」
中央の席で、宰相補佐官が口を開いた。
「あなたの“共信札”、実に興味深い。……ですが、少々行き過ぎでは?」
「行き過ぎ?」
ルカは笑みを返した。
「商いに“行き過ぎ”なんてありますか?」
「あるとも」
補佐官の目が冷たく光る。
「貨幣は王の権威を象徴するものだ。
それを“民”の手で勝手に刷るなど、叛逆に等しい」
会議室の空気が一瞬にして凍る。
ルカは椅子の背にもたれたまま、静かに息をついた。
「俺は、金を作ったつもりはありませんよ」
「では、あれは何だ?」
「――約束です」
ざわ、と人々が動揺した。
ルカは言葉を重ねる。
「誰かを信じると書いて、“信用”と読む。
俺たちは、それを札にしただけだ」
「……詭弁だな」
補佐官は苦く笑った。
「その“約束”が国を脅かしている。ゆえに、王の命により――
自由市場を、国の管理下に置く」
机の上に、一枚の文書が置かれた。
「市場国営化令」
ルカは一瞥し、すぐにその紙を返した。
「悪いが、俺たちの市場は“自由”だ。
誰のものにもならない」
「……反逆と受け取っていいのですね?」
「受け取り方はご自由に」
補佐官が目を細めた。
「愚かな。あなたが築いた理想は、数行の命令で消える」
「なら、やってみろ」
ルカの声には、怒りよりも静かな確信があった。
「理想は命令で消えない。
信頼は、誰かの中に残る。……たとえ俺がいなくなっても」
その夜。
自由市場の広場に、見知らぬ札がばらまかれた。
黒い印章。
精巧な偽造。
裏面には、ひとつの刻印が押されている。
――《黒商印・保証済》。
翌朝には、市場の一部で混乱が起きた。
「この札、どっちが本物なんだ?」
「共信札の印と違うぞ!」
「うちの店、受け取っちまったんだ!」
ルカが現場に駆けつけた時、商人たちは口々に叫んでいた。
信頼の象徴だった札が、いまや争いの火種になっている。
エリシアが駆け寄る。
「やっぱり、黒商会が――!」
「そうだな。……早い」
ルカは札を手に取り、裏を透かして見た。
細工は完璧。
もはや偽札とは呼べないほどの完成度だった。
だが、ルカは静かに笑った。
「面白い。なら、こっちも試される番だ」
「ルカ?」
「本物の信頼は、印章じゃない。
――誰の言葉を信じるか、だ」
彼の声は、夕陽に染まる市場に溶けていった。
その頃、遠くの貴族屋敷で。
「動いたか」
リオ・カディスは、薄く笑った。
机の上には、黒商印の札が一枚。
「民が混乱するほど、秩序を欲する。
そして秩序を与えるのは、いつだって“上”だ」
赤いワインを揺らしながら、リオは小さく呟く。
「理想の市場か……。
なら、その理想ごと買い取ってやるさ」
窓の外では、夜風がゆっくりと街を撫でていた。
混乱は、想像よりも早く広がった。
朝の市場では、誰もが札の裏を確かめながら取引していた。
“共信札”か、“黒商印”か。
どちらが本物か分からない。
どちらを信じていいか、誰も答えられない。
たった一晩で、風向きが変わったのだ。
「うちの店、昨日の札で仕入れしたんだ! 今さら使えねぇって言うのか!」
「印が違うだけで同じ価値だろ! なんで受け取らねぇ!」
「俺は騙されないぞ、あんたらグルなんだろ!」
怒号。罵声。
これまで笑顔で交わしていた言葉が、刃に変わって飛び交う。
ルカは市場の中央に立っていた。
何人もの商人が彼の名を叫ぶ。
「アシュベルさん! どうすればいい!」
「本物を教えてくれ!」
「どっちを信じればいいんだ!」
ルカは黙って空を見上げた。
曇天の隙間から、一筋の光が落ちてくる。
――信頼は、見えないからこそ価値がある。
だが今、人々は“見えないもの”を信じられなくなっていた。
エリシアが駆け寄る。
「どうするの!? このままじゃ、みんな……」
「……もう一度、信じさせるしかない」
ルカの瞳に、決意の光が宿る。
「誰が本物か、見える形で示す」
夕刻。
自由市場の中央広場に、大きな布が張られた。
その前に立つのは、ルカと仲間たち。
商人、職人、農民、そして旅人まで――誰もが息を呑んで見守っていた。
「みんな、聞いてくれ!」
ルカの声が、風に乗って響いた。
「確かに、偽の札が出回ってる。
でも、俺たちは“印章”で取引してるわけじゃない!」
人々がざわめく。
ルカは続けた。
「信頼とは、印じゃない。名だ。
俺は今日から、すべての札に“発行者の名”を刻む!」
布が外され、巨大な札の見本が現れた。
――そこには、署名欄がある。
発行者の名と、受け取り手の名を記す欄。
「これが、“共信札・改”。
これからの札には、誰が誰を信じたかが残る。
そして、信頼を裏切った者の名も残る」
その瞬間、群衆の中から小さな拍手が起こった。
やがてそれは、波のように広がっていく。
「これなら、偽物はすぐ分かる!」
「俺の名前で、堂々と取引できるのか!」
「……アシュベルさん、やるじゃないか!」
人々の顔に、再び笑顔が戻っていった。
エリシアが、ほっと息をつく。
「……よかった。本当に、よかった」
「いや、まだだ」
ルカは低く呟いた。
「この混乱を起こした奴を、突き止めないと」
夜。
市場の裏通り。
ルカはノエルと数人の仲間を連れて、黒商会の情報を探っていた。
路地の奥、古びた倉庫の扉の隙間から、微かな灯り。
人影が動く。
「……黒商会の連中だな」
ノエルが囁く。
ルカは頷き、静かに扉に手をかけた。
中では、数人の男たちが札を数えていた。
机の上に積まれた札束――その裏面に、見覚えのある印。
「“黒商印”は、本物より価値があるんだぜ。
王都商務院も裏で買ってくれるらしい」
その言葉に、ルカの背中を冷たい怒気が走った。
――やはり、裏に“上”がいる。
その瞬間、倉庫の扉が音を立てた。
「誰だ!?」
「しまっ……!」
ルカが踏み込もうとした刹那、
奥の影がゆっくりと振り向いた。
整った顔立ち、金の瞳。
あの笑み――忘れるはずがない。
「久しぶりだな、ルカ」
「……リオ・カディス」
沈黙が、倉庫を支配した。
リオは淡い笑みを浮かべたまま、札を一枚掲げる。
「素晴らしい仕組みだ。
信頼を“記録”するとは、なかなか商売人らしい発想じゃないか」
「貴様が壊した信頼を、取り戻すためだ」
「壊した? 違う。俺は“試した”だけだ」
リオは歩み寄り、低く囁いた。
「ルカ。理想は綺麗だが、脆い。
お前の“信頼”は、いつか必ず裏切られる」
「――それでも構わない」
ルカの声は揺るがなかった。
「裏切られるたび、俺はまた信じる。
それが、俺の商いだ」
リオの微笑が、わずかに崩れる。
「……やはりお前は面白い」
次の瞬間、倉庫の灯りが一斉に消えた。
黒煙が立ちこめ、男たちの叫びが響く。
「退け!」
ルカが叫び、エリシアの腕を掴む。
倉庫の外へ飛び出すと、背後で爆ぜるような音が響いた。
振り返ると、炎が夜空を照らしていた。
燃え上がる倉庫。舞い上がる黒煙。
その中で、リオの姿は――もうなかった。
「逃げられた……」
エリシアが肩で息をしながら呟く。
「いや、あいつは“姿を見せた”んだ」
ルカは炎の向こうを見つめた。
「宣戦布告だ。俺の市場に、再び火を点けた」
燃え尽きる倉庫を背に、ルカは拳を握りしめた。
夜風が吹き抜ける。
炎に照らされた彼の横顔は、まるで新しい時代を見据えているようだった。
「――信頼の価値を、もう一度証明してやる」
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