灰色の街と青い欠片

aiko3

第1章 灰色の街に降る雨

 目を開けたとき、世界はすでに色を失っていた。

 空は濡れた灰でできていて、遠くの建物の輪郭は、霧の向こうに沈んでいる。

 風がない。音もない。

 ただ、静かに雨の粒だけが、地面と心を叩いていた。


 リラは、濡れていることにも気づかずに立ち尽くしていた。

 足もとには、小さな水たまり。そこに映る自分の顔が、どこか他人のように見える。

 瞳の中の青が、かすかに揺れている。それだけが、この世界で唯一の色だった。


 どこから来たのか、なぜここにいるのか。

 思い出そうとしても、何かが欠けていた。

 まるで、記憶そのものが霧の底に沈んでいるように。


 ふと、足もとで光った。

 雨粒の中に、淡く輝く何かが落ちている。

 それは、爪先ほどの透明な欠片。

 拾い上げると、冷たさの中にかすかな温もりが宿っていた。

 まるで——心臓の鼓動のような震え。


 その瞬間、胸の奥で何かが疼いた。

 言葉にならない痛み。

 泣きたいのか、思い出したいのか、自分でもわからなかった。


 ——ここは、どこ?


 問いかけても、返事はない。

 代わりに、遠くの鐘の音が、雨の向こうから聞こえてきた。

 一定の間隔で、低く、重く。

 まるで、世界がまだ動いていることを確かめるための音のようだった。


 リラは、音の方へ歩き出した。

 濡れた石畳を、靴の底がゆっくりと打つ。

 街は眠っていた。

 窓は閉ざされ、灯りのひとつも見えない。

 けれど、不思議と恐怖はなかった。

 この静けさを、ずっと前から知っていたような気がした。


 やがて、広場に出た。

 中央には、壊れた時計塔。

 針は十二の位置で止まったまま、もう動くことをやめている。

 その下に、一人の少年が座っていた。


 白いシャツが、灰色の雨を吸って透けている。

 肩を抱くように、膝を抱え、顔を伏せていた。

 リラは言葉を失ったまま、その姿を見つめた。

 彼の周りにも、小さな欠片がいくつも散らばっていた。


 ——眠れないの?


 声をかけようとしたが、声は音にならなかった。

 喉が閉じている。

 息だけが震えて、雨に溶けていく。


 そのとき、少年がゆっくりと顔を上げた。

 無表情。けれど、その目は、どこか遠くを見ている。

 リラの中の何かが、その視線に触れてざわめいた。

 彼もまた、何かを探している人の目をしていた。


 「……君も、ここに迷ったの?」


 少年の声は、静かで、少し掠れていた。

 リラはうなずくこともできず、ただ青い欠片を握りしめた。


 ——それが、最初の出会いだった。

 灰色の街で、色を探すふたりの。


 リラは、少年の問いに答えられなかった。

 けれど、その沈黙が拒絶ではないことを、少年はわかっているようだった。

 彼もまた、長いあいだ誰とも言葉を交わしていない人の、そんな目をしていた。


 灰色の雨がふたりのあいだを流れていく。

 音のない雨は、まるで時間のかわりに降り続けているようだった。

 街全体が、それを受け入れるように、静まりかえっていた。


 リラは掌をひらいた。

 そこには、まだ“青い欠片”が光っている。

 指先で触れるたび、ほんの少しだけ温度が戻る。

 心の奥の、失われた場所に、かすかな灯りがともるような感覚。


 少年——ルカは、その光を見つめていた。

 瞳の奥に、遠い記憶の波紋が走ったように見えた。

 けれど、彼は何も言わなかった。


 ただ、手の中から壊れた懐中時計を取り出した。

 文字盤にはヒビが入り、針は止まったまま。

 その裏側に、かすれた文字が刻まれていた。

 〈とけるまえに、わらって〉


 それが誰の言葉なのか、ルカも知らない。

 ただ、それを読むたびに胸が痛くなるのだという。


 リラは、その時計と欠片を並べて見た。

 似ていた。

 壊れたもの。けれど、壊れたままでも、確かにここにあるもの。


 ふと、雨の音が弱まった。

 灰色の空の奥で、かすかな光がにじんでいる。

 夜ではないのに、星のような輝きが街の上を漂っていた。


 リラはその光に、見覚えがあるような気がした。

 どこかで見たことがある——けれど、思い出せない。

 思い出そうとすると、胸の奥が冷たく痛んだ。


 ルカは立ち上がった。

 「行こう」

 そう言って、時計塔の影を離れる。


 どこへ? と訊こうとしたが、声はまだ出ない。

 代わりに、リラはただその背を追った。


 街の路地はどこも同じ灰色で、曲がるたびに景色が少しずつ変わっていく。

 壁には古い絵が描かれていた。

 けれど、その色はすべて剥がれ落ち、残っているのは線だけ。

 まるで、誰かがこの世界の記憶を消してしまったようだった。


 やがて、ひとつの建物の前でルカが足を止めた。

 扉は開いていて、奥からは乾いた匂いと、油絵のような香りが漂ってくる。


 その中に、一人の男がいた。

 黒いコートを羽織り、背中越しにキャンバスへ向かっている。

 筆の先からは、淡い青い光が滲んでいた。


 ——描いている。


 リラは息をのんだ。

 筆が紙をなぞるたび、色のなかった世界に、ほんのわずかな青が生まれていく。

 その青は、リラの欠片と同じ色をしていた。


 男は振り向かなかった。

 けれど、気づいているようだった。

 彼の肩が、わずかに震えた。


 「この街の記録を描いている人だ」とルカが言った。

 「サイレンって呼ばれてる。話すことは、ない」


 リラはうなずいた。

 サイレン——その名前が、胸の奥に響く。

 どこか懐かしい音を思い出しそうになるが、やはり掴めない。


 外では、雨が止んでいた。

 灰色の街に、青の気配がゆっくりと差し込む。

 まるで、誰かの記憶がふたたび息を吹き返すように。


 リラは欠片を胸にあて、目を閉じた。

 静かな心音が、遠くの鐘の音と重なって響いた。

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