他意識過小

永井月月

第一章

 Sの心に焼印を押したのは、子供の頃のある一日だった。褒められなかった。叱られなかった。殴られなかった。彼が何をしても。


 世界は微動だにしなかった。ただ何も言わず、自分をそこに居させてくれた。平和だった。幸せだった。ずっと続けばよかった。続くと思っていた。世界が、勝手にそう思っていた。


 

 朝のリビングには家庭的で平和な音と匂いが満ちていた。妻は息子に持たせる弁当を詰め、残り物から手際よく朝食を取っている。


 身支度を終えたSは自分の弁当を受け取って玄関へ向かい、今一度靴下を引き上げた。起きてきた息子に朝の挨拶をする。


 行ってきます、が短く交わされ、いつも通りのリズムを刻む。


 家を出ると、どこからか漏れ出たテレビの音と鳥の声が混ざり合い、誰もが自分の世界を守るようにすれ違っていく。


 自分が世界の一員である日常に心底Sは安心していたが、他者の世界に触れたくなる衝動がふと胸をつく。平穏を崩すかもしれないのに。


 相反する衝動を抱えながらもSは、平然と、平和に動く世界を一点の曇りもなく愛しているつもりだった。



 朝の通勤ラッシュの光景はいつもと何も変わらず、それぞれが世界の中で忙しなく動いている。


 職場へ急ぐ靴の音、作業員の逞しい声、遮断機の警告音。Sは、渾然とした世界の中に、自分が溶け込んでいる感覚を楽しむのが好きだった。


 突然のクラクションの音で現実に引き戻される。反射的に謝った。車のヘッドライトがこちらを睨みつけている気がした。浸りすぎたか、と少し反省した。



 職場へ着くと、頭を切り替えるために喫煙所へ向かった。入社した時には数多くいた喫煙者はここ十数年の間に大分減ってしまっていたが、それに伴い縮小された憩いの場には馴染みの面子が集まっていた。


 毎日始業前、同じ時間に同じ場所に集まる顔触れは日毎教会へやって来る敬虔なクリスチャンに見えて、なんだかSは可笑しくなった。


 溢れてくる笑いを噛み潰していると、ふいに声をかけられた。


「ニィちゃんおはよう、天気あんまよくねぇなぁ」


 顔馴染みの清掃員だった。


「ですねぇ……」

「こんな日はやる気が出ねぇよな、お互い辛いモンだ。」

「まあ……天気がよくないくらい、平和なもんじゃないですか。」

「はは、違いねぇ。まぁ今日も頑張ろうや。」


 そう言うと、もう吸うところのほとんどなくなったタバコを灰皿に押し付け、周りに軽く頭を下げながら揚々と去っていった。


 清掃員はSが入社した時から清掃員だった。少し伸びた顎髭と短く切り揃えた頭髪が目印だ。ずっと70歳過ぎくらいの印象で止まっていた。


 仕事中に遭遇することは何故か全くなかった。奇妙な存在で、平和な世界と理外の何かを結ぶ線だという確信めいた違和感が、確かにあった。


 内臓が、二本の爪で摘まれて軽く痛んだ。思わず拳をぐっと握り締めた。



 タバコを吸い終えると自席に向かい、早速仕事の準備に取り掛かる。もう何年も配置換えされていない、やり慣れた顧客対応の仕事だった。


 Sにとって仕事は家族を養うための手段でしかなかった。


「Sさんこの仕事好きですか?」


 同僚から聞かれると


「んー……やっぱ、家族はちゃんと養わなくちゃいけないじゃん。」


 なんだか的外れな回答をして、気まずい沈黙を招いたことがあった。


 仕事の大部分は、毎日同じような問合せに対して、訓練されたロボットのようにお決まりの対応を繰り返すものだった。


 商品の機能について聞かれればマニュアルをなぞって回答するし、苦情を受ければまず頭を下げる。Sは一つの役割を演じていた。


 同じ部署で働いていた同僚のほとんどは、嫌気が差して会社そのものを去っていくか、めげずに自己を主張し続けた結果、異動していくかのどちらかだった。


 Sは何度もそういった同僚の背中を見送った。それを憐れむことも羨むこともなかった。


 確かに長くいる部署じゃないよな、と軽く思うくらいで、自分がそこにいさせられ続けることには特に関心がなかった。


 上司からの評価も特筆すべきことはなく、必要とされて部署に残り続けたと言うよりは、良くも悪くも大きいことを起こして来なかったが故の、消去法の残り方だった。



 午前中の業務を終えると、Sは自席で妻が作った弁当を広げた。いつも通り、色に溢れた弁当だった。ピーマン、ゆで卵、トマト、金平牛蒡。白米の上には黒い海苔と焼鮭が乗っていた。


 以前は質素な日の丸弁当の横に二、三個茶色い冷凍食品が押し込んであるのが常だったが、ここ二年ほどは色鮮やかな弁当が続いていた。


 これは自分への愛ではない。息子への愛の副産物だろう。幼稚園へ上がった頃だった。


「あなたの為に作ってるんじゃないからね。あの子のついでなんだから感謝してよ。」


 突き放すような物言いとは裏腹に妻の顔は意地悪そうに笑っていたが、Sの視線はテレビに向けられていた。


「わかってるよありがとう。」


 生返事を返すと、言葉通りに受け取った。妻は何も言わなかった。眉が少し吊り上がっていた。


 Sはどちらの弁当も好きだった。味とか食材の好みではない。弁当箱の蓋を開けると『その日の世界が存在を許してくれる自分のあり方』がわかるからだった。



 昼食を終えると、Sは食後の一服のために喫煙所へ向かった。入口から視線を滑らせ、いつもの定位置を確認する。


 件の清掃員はいない。秩序が欠けているようで何だか落ち着かない。試しに馴染みの一人に聞いてみた。


「お疲れ。あのオヤジさん来てなかった?」

「ん……誰って?」

「いつもいるじゃん、あのほら……あそこにいつもいて、こんな感じの……」


 身振り手振りで伝えようとするが、言葉は喉に詰まる。名前が出て来ない。


「だからほら、オヤジさんだよ。短髪髭面の清掃員。」


「いや知らないよ俺は、そんな奴いたっけ?」


 Sお前疲れてんじゃないの、などと言い足す同僚の言葉はほとんど耳に入らない。気持ち悪い。


 俺が幻覚を見たみたいじゃないか。偶々だろう。偶々知らなかったに違いない。俺はおかしくない。落ち着け……。喉の奥が僅かに渇いた。


 他の面子は皆思い思いに過ごしていた。仲の良い者同士でくだらない会話をする。俯き加減で紫煙を燻らせる。携帯ゲームに時間を費やす。


 Sはそれらを眺め、平静を装って煙を吐く。汗ばむ手に握られたスマートフォンの画面はニュースを流していた。


 何も頭に入らない。妻からSNSで今日の帰宅時間を問う連絡が入る。多分大丈夫、画面をあまり確認せずに返信する。


 OK!と、よくわからないキャラクターのスタンプが送られてくる。空模様は余り良くない。



 午後の仕事は何事もなく終わった。Sにとっては何かが起こることの方が少ない業務だった。


 稀に粘着質な相手に行き当たって上司に迷惑をかけることあったが、基本的にマニュアル通りの対応に徹するSを深く追求することはできなかった。


「もう少し柔軟に対応できないもんかね……」


 顔を多少顰めて小言を言われる程度だった。Sが残業するのは、突発的に休んだ夜間スタッフの代理で業務を行う時くらいだった。



 職場を後にすると、Sは家庭までの道のりを朝と同じ道順で、なるべく朝と同じスピードで逆再生のように辿る。


 途中で何かに躓き、声にならない声を上げた。中身が半分以上残った清涼飲料水のボトルが路上に転がっていた。汚点だった。


 無感情に転がるそれが、平穏を汚した。自分の平穏がたった一つの異物で無意味になる。


 許せない。


 Sは衝動を抑え切れず、力一杯にボトルを蹴り飛ばした。


 幸い周囲に人の姿は無く、見咎められることもなかったが、家に辿り着くまで、臍の左下辺り一体をギリギリと握り潰され続けた。


 強い閉塞感だ。なかなか払い除けられなかった。



 家の外まで着くと、何度かしっかりと深呼吸をしてから玄関ドアを開けた。温かい夕食の匂いがSの鼻腔に届いた。


 ただいま、と言いながら夕食のメニューを予想する。焼魚だろうか。


「あ、パパ!」

「おかえり」

「今日は晩御飯何?」


 答えを期待しての質問ではなく、ただ口を突いて出ただけだった。すると、息子がニコニコと笑いながら何かを後ろ手に抱えSへ近づいてきた。


「じゃじゃーん!」


 目の前に皿を出してきた。


「おぉっ、びっくりした。」


 大袈裟に驚いてあげながら皿の上に目をやると、焼鮭が乗っていた。


 Sの家庭で昼夜続けて同じメニューが並ぶことは珍しかったので、おや、と思っていると顔に出ていたのだろうか。台所から声がかかった。


「なんか不満だった?」

「いや、そうじゃなくて珍しいなぁと思って」

「あれ、言わなかったっけ。親戚からたくさん送られてきちゃって、冷凍庫に入り切んないのよ。」

「あぁ、そういうこと。」

「文句あるなら食べなくていいですけども。」


 妻の冗談めかした物言いの中に一匙の不穏さを感じた。Sは、少し苛立ちを覚えたが、怒れば世界の何かが欠ける気がして素直に謝った。


「ごめんって……いただきます。」


 予定調和な会話をこなしながら、Sは息子と一緒に夕食を取り始めた。少し遅れて簡単な洗い物を済ませた妻が食卓に加わる。


 息子は楽しそうに今日は誰々と遊んだだとか、ドングリをたくさん集めただとか、小さな冒険譚を披露してくれていた。


 話に熱中して手が止まっていることを妻から軽く注意される。


「わかってるよぉ。」


 バツが悪そうに言いながら食事に集中しようとしていたが、まだまだ話し足りなそうに妻とSの方を見て口をもごもごさせている。


 そうこうしている内にSと妻は食事を終え、優しく息子を促す。食卓は、彼ら三人が家族であることを確認するための一種の聖域だった。



 夕食を終えた家族は、少しの間それぞれの時間を過ごす。妻は洗い物に手を掛け、息子はテレビでお気に入りのアニメを見始めた。


 Sはタバコを吸いに家の外へ出た。いつもと変わらない流れだった。


 もうすっかり暗くなった外の空気はどこか生ぬるく、首筋にべっとりと纏わりつく。タバコの味がいつもより重く感じられて少し汗ばんだ。


 吸い殻を携帯灰皿にしまうと、自由時間は終わりを告げた。


 Sがリビングに戻ると、気付いた息子が大袈裟に鼻をつまんだ。


「くさい!くさいよパパ!早くタバコやめてよー……」


 非難の中にも多少のおふざけがあった。妻はそれに乗じて攻撃してきた。


「ホント、いつになったら辞めるのそれ。お金と時間の無駄なんだけど。」


 冷たく言い放つ。腹の底から。不味い流れになったと感じたSは、取り敢えず笑って誤魔化す。


 息子に何かをせがまれる度、Sは満更でもない顔をしながらも、今日だけだよ。と出来るだけ要望に応えていた。


 それでも禁煙だけは約束出来なかった。その場凌ぎの笑いに業を煮やした妻が追撃してくるより早く、Sは息子に声をかけた。


「ほら、いいからお風呂入ろう。」

「えーやだよぼく今これ見てるじゃん。」

「いいからほら、早く。こっちおいで。」


 Sは半ば強引に、逃げるように息子を連れて脱衣所に移っていった。妻は大きく溜息を吐くと、諦めた様子で家事を再開した。



 息子を風呂に入れるのはSの担当だった。担当と言っても、頭と体を洗ってやって、浴槽に入れると後は息子なりに自由に遊ぶので、特にもうやることもなかった。


 その日も先に息子の世話を済ませてから、Sは自分のことに取り掛かった。シャワーを浴びていると、ふと視線を感じた。


 横を見ると息子はいつも通り持ち込んだ玩具で遊んでいる。間違いない──息子はこちらを見ている。見ていない筈がない。


 水滴と共に、冷たい何かが背骨を伝う。無感情な視線だ。刺される。人として欠けた部分を舐め回される。肌が粟立つ。


 おかしいおかしい俺がおかしいのか。息子はSを見つめていなかったが、様子がおかしいことに気付く。


「……パパ、どしたの?」


 そう言った息子の目が、合っていない。片方だけが、Sの背後に向けられている。瞳は小刻みに、不自然に揺れていた。


 その視線の先にいる何者かの吐息が、Sの髪を揺らす気がした。振り返ることが出来ない。力一杯目を瞑って、震える声で応える。何者かを振り払うように。


「ごめんごめんぼーっとしてたよ。」


 精一杯の虚勢だった。自分の勘違いだ見間違いだ考え違いだ、と言い聞かせて不安をかき消そうとした。


 どうにか入浴を終えると、もう息子は瞼を擦っていた。急いで寝支度を手伝い寝室へ連れて行くと、あっという間に眠りに落ちて行った。


 寝顔は穏やかで愛おしいものだった。


 しかし、Sは風呂場で感じた視線を思い出して、きっと再び同じことが起こると確信した。彼の世界は軋み始めていた。


 そして、世界が少しでも軋む度、身体の何処かで何かがザラリと蠢き、喉の奥がかすかに焼かれるのだった。

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