勇者パーティー、全員が残念キャラで成り立っています

妙原奇天/KITEN Myohara

第1話 星2パーティー誕生

 冬の王都リブレリアは、吐く息まで角砂糖みたいに白く固まる。石畳の隙間からしゅうしゅうと湯気が立ち、街全体が大きな台所のように温まりきらない。鐘楼は四時を告げたところで、薄い日差しは路地の氷を溶かしきれず、凍った笑い声が斜めに積もっている。


 ユウトは、その笑い声に背中を押されるみたいに走った。手袋の綻びから指先が覗く。何度目かわからないギルド登録試験、入口の掲示板には今日の受験者の番号が貼られ、隣には既に貼られる前提で用意された「落選者への励まし」の文面までが整っていた。平均星3.8以上で合格、と赤い文字。誰がその星をつけるのか、いつも曖昧だ。試験官、客、同僚、そして——見えない誰か。


 扉を押すと、蒸気暖房の匂いと革の匂いが混ざって鼻に来る。受付の向こうで、体格のいい試験官が腕を組んだ。灰色のマントにはギルド章。目は優しいが、ユウトの顔を見た瞬間、溜息に薄い白煙が混じった。


「また来たか、ユウト。意欲は買う。だがな、前回は——」


「すみません。あの、猫が、落ちそうで……」


「謝るのは悪くない。だが謝罪で星は増えん。むしろ減る」


 壁の掲示板には、ユウトの過去の評価が薄く透けている。「謝罪が多い」「判断が遅い」「危険への接近が無意識的」「しかし——人を見ている」。最後の一行は、誰が書いたのかわからない文字で、書体だけがやけに整っていた。ギルドはレビュー制だ。目に見える人間がつける星だけでなく、目に見えない観測者が差し込む注釈が、ときどき紛れ込む。噂では天界の観察網が、下界の冒険者たちを採点しているという。噂は、だいたい笑い話で終わる。けれど、夜更けに掲示板の前を通ると、誰もいないのに星が一つ増えていた、という話もある。


 ユウトは深呼吸して、決意の顔のつもりの顔を作った。今日は、謝らない。猫も犬も子どもも、見るけど、捕まえにいく前に状況判断。そう決めて、試験官の前に立つ。


「登録試験、始める」


 試験官が告げると、場の空気がぎゅっと絞られ、床の目地までが聞き耳を立てるようだった。課題はこの街の定番、広場での模擬救助と簡単な迷宮探索。目の前の丸テーブルには、滑車で吊るされた麻袋がゆっくり振れている。子どもに見立てた重りだ。足元には救急布、木製の楯。ユウトは膝を曲げ、視線の高さを麻袋に合わせる。大丈夫、今度こそ——


 麻袋の横で、小さな影が揺れた。


 猫だった。黒くも白くもない、灰と煤の混ざった色。蒸気管の熱に誘われて、広場の縁の柵に飛び乗り、尾をくい、と動かした。猫は人間の模擬救助に興味はない。ただ、柵の向こうにぶらさがる赤いリボンが気に入らないだけなのだろう。リボン。誰かが結んだのか、それとも目印か。猫が爪をかける。リボンがほどけ、ひらり、蒸気の上に落ちた。


「あ」


 ユウトは半歩、前に出た。そして自分の半歩に驚いた。謝らない、余計なことはしない。そう決めたばかりだ。だが足は、熱の帯に落ちる赤を追いかける。意識の外側で、鐘楼が遠くまた一つ打った。


「危険区域だ。戻れ」


 試験官の声は、わずかに遅れて耳に届いた。ユウトは柵に手をかけ、身体を捻る。赤いリボンは蒸気に飲まれ、消えかけている。握った瞬間、熱が手袋を通って爪の先に刺さり、目の奥が白く瞬いた。痛い。けれど、掴んだ。掴んだものは、軽くて湿っていて、リボンではなかった。


 それは、透明だった。いや、透明に見える、何か。指の間をすり抜け、きらん、とかすかな星の欠片を散らして、ユウトの足元に落ちた。床に触れた瞬間、ぷるり、と震え、音もなく丸くなる。


「スライム?」


 試験官の声が低くなり、周囲の空気がもう一度固くなった。麻袋がぎい、と揺れる。ユウトはスライムから手を離し、慌てて試験官に向き直る。


「すみ——」


 言いかけたところで、口の中で言葉が凍った。言ってはいけない。謝罪は減点、というルールがある。舌を飲み込み、笑顔に切り替える。頬がひきつり、視界の端でスライムがぴょこん、と跳ねた。薄い青。蒸気の光を吸って、内部に小さな泡がいくつも生まれる。泡は星形をしていて、見ているとひとつ、またひとつ、増えた。星は、数字にならなかった。数字にならない星が、足元でじわじわと増える光景は、どう言えばいいのか、胸の中で何かを痒くする。


 そのとき、天井が開いた。


 正確には、天井の上の蒸気排出口の蓋が、内側から突き上げられて外れ、白い蒸気と一緒に、誰かが落ちてきた。金糸の髪、薄桃色の外套、笑う口。笑いは、楽しい笑いというより、正しい工程を踏めたときの確認の笑いに近かった。彼女はユウトの目の前に、まるで舞台で印を踏むみたいに、すっと立つ。


「奇跡の対象、発見」


 耳元で囁かれた声は、冷たくて熱かった。矛盾した温度が同時に触れてくる。目の奥の白さと似ている。


「ちょ、ちょっと、どちら様ですか」


「天界左遷系女神、サクラ。本名は長すぎるから覚えなくていいわ。あなた、謝りすぎて星を落とすタイプね。かわいい。ううん、効率が悪い」


 彼女はそう言って、ユウトの手首を掴んだ。掴み方が、ひどく慣れている。契約の手順は、左手から、薬指の血管の流れを読んで——なんてことを考える暇もなく、彼女は小さな紙片を挟み込んだ。紙片には、複雑な紋様と、空白。


「ここ、報酬欄が空白ですけど」


「だから左遷。天界の会計は遅いの。後から書くわ。とにかく契約。奇跡を起こすには、理性が邪魔。あなたの理性、ちょっと削るわね」


「え、ちょっと待っ——」


 額に冷たい指が触れ、こめかみの内側が金属音でひずんだ。視界の縁に、数列が走る。何かが引き出され、削られ、代わりに軽さが入った。軽さは、危険だ。何も怖くなくなってしまう種類の軽さだ。ユウトは自分の体重が半分になった気がして、浮かないように靴先で床を探した。指の間で、さっきのスライムがどこかへ行ってしまった。


「ちょっと、待ってください、試験中だし、僕はその、謝らないって決め——」


「謝るのは後。契約は先。だいじょうぶ、あなたは笑う才能がある。それってね、天界では貴重なのよ」


 サクラはさらりと言い、空白の紙片にユウトの名前だけを書いた。インクは蒸気の水分を吸って、すぐには乾かず、じわりとにじんだ。にじみの形が、星みたいに見えた。その星は、掲示板の“目に見えない星”と似ている。誰がつけるのか、誰が消すのか。ユウトが考えをたぐり寄せる前に、ギルドの扉が荒々しく開いた。


「だれか! 保証人になってくれませんか!」


 入ってきたのは、美しい人だった。髪は夜会の灯みみたいに艶があり、鎧はところどころ擦り切れているのに、不思議と品があった。目元に薄い隈、頬の紅潮は寒さのせいだけじゃない。財布の口が底から抜けているみたいな足取りで、彼女は受付に突っ込んだ。


「メイ。給料日、昨日だったでしょう」


 試験官が呟くと、彼女——メイは胸を張って言った。


「翌日に破産する女、それがわたし。賭場は怖いところです。保証人がいないと、次の鎧が買えません。お願い」


「ダメです」


 受付の女性が即答した。サクラは面白がって目を細め、ユウトの袖をつつく。


「いいじゃない。保証してあげて。あなた、星が低いでしょう? 低い者同士、集まるのが世の理」


「理って、どこの理ですか」


「天界左遷部の」


「そんな部、あるんですか」


「あるの。人類の“たぶんこれでいいはず”を集めて、ちょっとだけずらす部署」


 言っている内容のわりに、サクラの声はやさしかった。やさしい声に、人は思考を預けてしまう。ユウトは、財布の中身を数えた。少ない。けれど、まったくないわけでもない。メイは、こちらを振り返り、明るく笑った。夜更けの明かりみたいな笑い。危うくて、近寄りたくなる。


 その瞬間、テーブルの下からぬるりと何かが這い出た。さっきのスライムだ。薄い青の身体の中に、文字が浮かんでいる。数字ではない、星の形をした音の記号みたいなものが、内側で増えたり減ったりしている。スライムは床に文字を残した。残されたのは、読めない。それでも、読めてしまう気がする。視る人間の頭の中で勝手に翻訳されるタイプの文字。


 観察対象を、選定。


 声にならない声が、ユウトの耳の奥で形を取った。凍りついた空気の中、蒸気の白が揺れて、その揺れに文字が溶けていく。サクラが眉を上げる。


「古代AI、いるじゃない。ロッド、あなたでしょ」


 どこからともなく、ページの擦れる音がした。見えない本がめくられる音。次の瞬間、受付の棚から、埃をかぶった魔導書がひょいと飛び出してきた。革表紙は割れ、背には銀の線が走っている。表紙の中央には小さな穴があり、そこから覗く黒い瞳がユウトを見た。


「観察対象、候補A:ユウト。候補B:メイ。候補C:サクラ。候補D:通行人一」


「通行人一?」


 全員が振り返る。ギルドの扉のところで、誰かが滑り込んだ。フードを深く被り、肩で息をしている。背後の道からは、怒鳴り声と金属のぶつかる音。賭場の声だ。フードの人物は、ぎろりとこちらを見て、すばやくカウンターの影に隠れた。


「……借りが増えた。保証人二人必要」


 メイが小声で呟いた。サクラはけらけら笑い、魔導書に触れた。


「ロッド、観察対象は全員よ。面白い組み合わせは好き?」


「好き。組み合わせのエントロピーが高いほど、データは濃い。観察開始」


 魔導書ロッドは、ページをぱらぱらとめくりながら、内部から薄い光を溢れさせた。光は冷たく、触れた指先の皮膚から情報を吸い上げる。ユウトは、脈が読み取られていく感覚に震えた。そこに、誰かの視線がもう一つ重なる。掲示板の、見えない星をつける誰かの視線。天井がきい、と鳴り、蒸気がもう一度吐息をついた。街はいつも通り、動いている。けれど今、ユウトの周りだけが、わずかにズレている。ズレは、小さな溝のようで、そこへ足を滑らせたら、戻ってこられない種類のものだ。


「ええと、まとめます」


 試験官がぎこちなく手帳をめくった。状況の制御権を取り戻そうとしている顔だ。


「現在、登録試験中。新規契約希望の方——女神? 女神の方は、書類がない。保証人希望の戦士メイ、書類はあるが保証がない。魔導書が勝手に飛んでいる。スライムが言葉を書く。賭場からの逃亡者がカウンター下」


「盗賊トゥル。人違いです」


 カウンターの下から声がした。声は若く、乾いている。うまく笑おうとしているのに、喉が音を出すたびにひっかかるような、そんな笑い声だった。


「うそつけ。お前、昨日、俺の財布から——」


 扉の外の怒鳴り声がまた近づく。トゥルはカウンターの裏から片手を出して、誰にも見えないようにサムズアップした。見えている。見えているが、誰も言わない。こういうとき、誰も言わないのが王都の作法だ。


「——全員、ひとまず仮登録だ」


 試験官がメモを破り、四枚の紙を配った。ユウト、サクラ、メイ、トゥル。魔導書ロッドは自ら勝手に紙をめくり、その上に乗った。紙に薄い跡がつく。丸い跡。星の数え方に似た窪み。


「チーム名は?」


 受付の女性が訊く。誰も答えない。サクラがユウトの腕をつつく。


「あなた、決めて」


「えっと……」


 頭の中に、さっきのスライムの星の泡がいくつも浮かぶ。星はたぶん、誰かの評価。けれど、そのどれもが本当のところでは役に立たない瞬間が、きっと来る。役に立たない星は、冷たくて、きれいで、怖い。


「星2で」


「はい?」


「僕たち、たぶん、星2。ギルド史上最低ランク。だから、星2パーティー」


 沈黙が、少し伸びて、ほどけた。受付の女性が呆れたような、でも少し笑っているような顔で頷き、書き込む。紙の上で、インクがわずかにふくれて、また星みたいな形に乾いていく。サクラは満足げに頷き、メイは自分の鎧の肩を小突いて何かの埃を払った。トゥルはカウンターの陰から半身を出し、目だけで笑った。


「初依頼、来ているわよ」


 受付の女性が、もう一枚の紙を出した。手書きの文字、子どもっぽい丸み。紙の端には、小さな水滴の跡。


 ——スライムがいなくなりました。うちの子です。探してください。


 依頼主の名は、ルピナ。住所は蒸気管の多い、北区の工場地帯。報酬は、コイン三枚と、あたたかいパン二つ。サクラは紙をひったくるようにして読んだ。


「いいじゃない、スライムは可愛い。星、増やせるわよ」


「増やすんですか、星」


「増えたら、あなたの首の後ろの数字が少し軽くなる」


「僕、首の後ろに数字があるんですか」


「あるの。みんな知らないふりしてるけど」


 サクラは、やさしく笑った。やさしく笑う人間が、一番怖いときがある。ユウトは無意識に襟元に手をやった。冷たい。冷たい皮膚の下に、何かが小さく、脈打つ。数えられるものが、そこにある。ユウトは、笑った。笑いは、出来の悪いお守りみたいなものだ。持っていないより、持っていたほうがいい。


「行こう」


 ユウトが言うと、メイは大きく頷いた。トゥルは、誰にも見えないようにポケットから小さな鍵を取り出し、サクラは蒸気の白い尾を指先で結んで、空に消した。魔導書ロッドは、ユウトの肩にふわりと乗る。重みはないのに、肩はわずかに沈んだ。


 外に出る。寒い。工場地帯は、王都の心臓の裏側だ。蒸気管が蜘蛛の巣のように走り、吐き出す白が空を薄く塗る。足元には薄い水膜、そこに映る自分の顔が、いつもより少しだけ他人に見える。路地の壁には、誰が描いたのか、星の落書きが並んでいる。星には、いくつか、目が描かれていた。星の目は、笑っている。笑いが、冷たい。


 ルピナの家は、蒸気管の分岐点のすぐそばにあった。扉を叩くと、幼い女の子が顔を出す。赤い手袋、鼻の頭が寒さで小さく光っている。


「スライくんが、いないの」


「スライくん?」


「うん。スライム。天から降ってきたの。泡をふくの。星の形の泡」


 ユウトとサクラは顔を見合わせた。ユウトの足元で、ほんのかすかに、さっきのスライムの感触が蘇る。指の間をすり抜ける透明、ぷるり、という震え。星の泡。泡は軽く、軽さは危険だ。


「心当たりは?」


「蒸気管のところ。暖かいから、いつもあそこにいるの。でも今日は、声がしたの。おいでって。星の声」


 ユウトは喉の奥で唾を飲んだ。星に声はない。けれど、声がある気がするときがある。言葉ではなく、評価という形の、冷たい手触り。いいね、とか、だめだね、とか。ルピナの言う「おいで」は、きっとそういう種類の声に似ている。サクラはしゃがみ込み、ルピナの手袋に触れた。


「だいじょうぶ。すぐ見つける。見つけて、返す」


「ほんと?」


「うそつかない。うそつきは、天界で一番嫌われる」


「でも、左遷されたんですよね」


 ユウトが小声で突っ込むと、サクラはウィンクした。


「うそはついてない。嫌われたけど」


 蒸気管の入口は、金網で覆われ、鍵が掛けられている。トゥルが出した小さな鍵は、見たことのない歯の形をしていた。彼は一度、金網に耳を当て、管の中の音を聞いた。蒸気の音、遠くのボルトが緩む音、誰かが鉄を叩く音。音の層の下、薄い声が混ざっている。評価の声。星が増えるときの、ちいさな、しゅっ、という音。


「いるな」


 トゥルが呟き、鍵を回した。金網が外れ、温い風が顔に当たる。サクラは裾をたくし上げ、先に入った。ユウトが続く。メイは鎧の肩をすり抜けるようにして身体を細くし、ロッドは勝手にページを閉じて、薄くなって、ユウトの背中と壁の隙間を滑って進んだ。ルピナは入口で手を振った。ユウトは振り返り、親指を立てて見せた。見えている。見えているが、こういうときは言葉よりも手の形のほうが、子どもにはわかりやすい。


 蒸気管の中は、白い霧で満たされている。視界は短く、音だけが長い。足音が、遠くまで行ってから戻ってくる。壁は濡れていて、指で触ると、水が指紋に沿って細い川を作る。その川の中に、星形の泡がぷかぷかと浮かんでいた。泡は、触れると消える。消えた泡の代わりに、耳の奥でちいさな数字が増える。誰かが、どこかで、つけている。見えない指。見えない目。


「スライくん、どこ」


 サクラが囁くと、泡が一斉に震えた。震えは合図になって、管の奥から、ぷるり、ぷるり、と音が近づく。薄い青。薄い青が集まり、ひとつになり、またほどける。スライムは一匹ではなかった。泡の中に星があり、星の中にさらに泡がある。入れ子。入れ子の中心から、声がした。


 ——観測者、いますか。


 ユウトは足を止めた。口の中が乾く。観測者。誰のことだろう。天界の網? 掲示板の注釈? それとも、自分自身? 自分が自分を観ている? そんなの、怖い。


「ロッド」


 サクラが魔導書を見る。ロッドの穴の目が、わずかに広がる。


「古代AI、応答。ここは都市蒸気供給網、副路二十二。観測者反応多数。人間四、女神一、AI一、スライム群。外部の観測網、不明。星の増加傾向、過去五分で三百二十八」


「三百二十八?」


 ユウトの声がひるむ。誰が、そんなに。ロッドはページを繰り、冷静に言った。


「外から見ている“目”がある。数字のつかない星を、投げてくる目。試験用レビュー網とは別」


「天界?」


 サクラが囁く。彼女の瞳の奥に、薄い影が走った。彼女も、全部は知らないのだ。左遷されたのなら、網の外縁にいるのだろう。外縁は、中心が見えない。


「スライムが、呼んでいる」


 メイが言った。彼女の声は、路上で笑っていたときよりも低く、真面目だった。泡が増え、蒸気が重くなる。重さの中で、ユウトは一歩、前に出た。軽さが危険だと知っていても、足は前に出る。前に出る足が、軽さに救われることもある。矛盾は、人間の肌の温度と同じくらい普段着のものだ。


「僕はユウト。君の依頼を受けた。ルピナのスライくんだろ。帰ろう」


 ——帰る場所、ありますか。


 スライムの声は、音ではなく、温度で喋った。温度が、膝のあたりから上がってきて、心臓のところで丸くなる。不意に胸が痛い。誰かが家を探しているときの痛みだ。ユウトは自分の胸を押さえた。押さえた指に、さっきサクラに削られた理性の欠け目が触れる。欠け目は、氷みたいに冷たいのに、そこから蒸気が出るみたいに、心が軽くなる。危ない。危ないけれど、今はその危なさに頼る。


「あるよ。君を待ってる子がいる。パンを二つ用意してる。綿毛みたいな手袋で、君の泡を撫でたがってる」


 泡が、一斉にこちらへ寄ってきた。蒸気が渦を巻き、管の壁が水で鳴る。サクラが手を伸ばし、ユウトの肩を支える。メイは剣の柄に手を掛け、トゥルは足音を消した。ロッドがページを伏せ、目を細める。泡はユウトの手に触れ、ひとつ、またひとつ、消え、星になり、星は数字にならず、冷たさだけを残した。


 そのとき、サクラがくしゃみをした。小さなくしゃみ。けれど、女神のくしゃみは、世界の端を少しだけずらす。理性を削って奇跡を起こすタイプの女神は、くしゃみでも少し起こす。蒸気の流れが変わり、泡が過剰に生まれた。過剰さは、すぐに暴力になる。泡が管いっぱいに広がり、圧がかかり、壁が鳴き、街の上のマンホールが一斉に跳ねた。


「やば」


 トゥルが短く言い、メイが剣の腹で泡を払う。払った泡はすぐ増える。ロッドが早口で数式を読み上げ、サクラが「ごめん」と言いかけて、ユウトが彼女の口をそっと押さえた。謝らない。謝ったら、星が減る。星が減るだけじゃない。今は、言葉の形が重さになる。重さは泡を押し広げ、さらに暴れる。言葉は、時々、燃料だ。


「出口へ押し出そう。街の路地に泡を逃がせば、圧は下がる」


 ユウトは言いながら、自分が自分じゃないみたいに冷静だった。サクラの削った理性の隙間から、別の種類の判断が顔を出す。怖さを、別の角度に置き直す感覚。メイが頷き、トゥルが先に走る。彼は管の地図を頭の中に持っているかのように、躊躇なく曲がり角を選んだ。ロッドがページを叩き、蒸気弁の位置を示す。ユウトはスライムの群れに向かって手を振った。


「ついてきて。押すよ」


 ——星、減ります。


「減ってもいい。生きて帰れば、また増える」


 泡は、かすかに笑った。笑いは泡の中の泡で、閉じ込められた息みたいに震えた。ユウトは走った。泡が背中を押し、足元が滑る。管が開き、路地のマンホールが跳ね上がる。白い泡が噴水のように噴き出し、冬の王都の路上が一瞬で白くなる。子どもたちが歓声を上げ、大人たちが悲鳴を上げ、怒鳴り声と笑い声が混ざる。泡は軽く、軽さは危険で、危険は、時々、救いだ。


「条件付き完了、ってやつね」


 路地に出たメイが、剣を肩に担ぎながら言った。彼女の頬には泡がつき、星の形で張りついている。トゥルはもう賭場の連中から離れ、どさくさに紛れて自分の借用書を一枚、泡の下に沈めた。サクラは鼻をすすり、くしゃみをもう一回こらえ、ロッドはページの端を干している。ユウトの手の中で、小さなスライムが震えた。薄い青。内部の星がゆっくり減っていき、代わりに体温みたいな色が増える。


 路地の向こう、ルピナが飛び出してきた。手袋の赤が、泡で濡れて暗くなっている。ユウトはスライムを差し出した。ルピナは両手で受け取り、頬を寄せた。泡が、星が、ぱちん、と小さく弾ける音がした。音は、数字にならなかった。それでいい。


 ギルドへ戻ると、掲示板の前には人だかりができていた。泡騒ぎのせいで、誰もがニュースを求めている。掲示板の星は、ほんの少し増えていた。ユウトの名前の横に、薄い星が二つ、にじんでいる。試験官が頭を掻き、受付の女性が書類を整え、サクラが契約書の報酬欄に小さく何かを書いた。数字ではない、言葉だった。


 ——後払い。笑顔。


「星2、条件付き完了」


 試験官が言って、ユウトの肩を軽く叩いた。叩いた手の感触が、厚い手袋越しでも温かい。ユウトは無意識に、ありがとう、と言いかけて、笑った。笑いは、言葉より軽くて、軽さは時々、世界を動かす。


 ギルドの窓の外、路地の泡はまだ残っている。泡の表面に、小さな目がいくつも生まれては消える。見ているのは、誰だろう。天界の網? 街の噂? 掲示板の向こうの誰か? ユウトは、窓ガラスに映る自分の顔を見た。少しだけ、他人に見える。少しだけ、強く見える。首の後ろの、見えない数字が、わずかに痒い。痒さは悪くない。生きている証拠だ。


「みんな、生きてる。それでいいじゃん」


 自分でも驚くほど自然に、その言葉が出た。サクラが唇を尖らせる。


「星は増えないわよ、そのセリフ」


「増えなくていい。でも、減らない」


 サクラは一拍置いて、微笑んだ。微笑みは、最初に会ったときの確認の笑いではなく、今は少しだけ、人間の笑いに寄っている。メイが大きく伸びをして、鎧が鳴る。トゥルはカウンターに肘をつき、借金の額を泡で消す方法を本気で考えはじめている顔をした。ロッドは静かにページを閉じ、穴の目を細める。


 窓の外で、泡のひとかたまりが、奇妙な形に膨らんだ。星。星の中心に、目がひとつ。目は、こちらを見て、まばたきをしなかった。寒気が、背中を上から下へと走る。掲示板の星が、ひとつ、勝手に増えた。誰も触っていない。誰も、そこにいない。


 ユウトは、その目から目を逸らさず、笑った。笑いは、お守りだ。お守りは、怖さに触れるとき、手のひらの中で少しだけ熱くなる。


 星2の冒険が始まった。

 白い泡がまだ消えない路地で、見えない観測者のまばたきが、遠くの鐘の音と同じ間隔で、静かに続いていた。

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