第9話 星と地の底で

 ブリーフィングルームの空気は、フィルターを通した機械音だけが響くほどに冷え切っていた。巨大なモニターに映し出された地底の構造図が、青白い光で三人の顔を照らす。阿久津は、テーブルに置かれた報告書の角を指でなぞりながら、重々しく口を開いた。


「――結論から言う。地底探査隊〈アンダーライン8〉を結成。例のポイントへ直接アプローチする」


 レイナの眉がわずかに動いた。宮田は、待ってましたとばかりに身を乗り出した。


「じゃあ、あのネットの写真は、やっぱり本物だったんですね!」


「ああ。先行調査隊〈アンダーライン7〉からの、最後の通信記録だ」


 その言葉に、今度はレイナが鋭く反応した。


「待ってください。公式調査隊の機密データですよね? それがなぜ、ネットに?」


 阿久津は答えず、レイナをじっと見つめた。レイナは、はっと息をのんだ。最高レベルのプロテクト、外部からのアクセス痕跡はゼロ。考えられる可能性は……。


「……まさか、課長が?」


 その場の空気が凍りつく。宮田が、信じられないものを見る目で二人を交互に見た。 阿久津は、ふっと口の端を歪めると、面白そうに言った。


「……俺がやったんなら、まだ可愛げがあるさ」


「え……?」


 レイナの顔に、困惑の色が浮かぶ。阿久津は、灰皿に煙草を押し付けると、椅子に深く体を預けた。


「外部からのアクセス痕跡はゼロだ。人間の仕業じゃない。考えられる可能性は、一つしか残らん」


「……まさか」


「ああ。”あいつら”が、流したのさ」


 レイナは絶句した。宮田も、目を丸くしている。


「何のために……」


 レイナが絞り出すように問う。


「さあな」


 阿久津は煙草に火をつけ、その煙の向こうから二人を見据えた。


「だが、一つだけ確かなことがある。――俺たちは、呼ばれてるのさ。地の底へ、な」


 その言葉は、まるで深淵からの響きのように、静かな部屋に重く尾を引いた。 これは、単なる探査任務ではない。巧妙に仕組まれた罠、あるいは抗いがたい招待状。


「……メンバーは?」


 重い沈黙を破ったのは、宮田だった。彼の瞳には、恐怖よりも、好奇の色が強く浮かんでいる。


 「ここにいる三人だ」


 阿久津の言葉に、レイナが即座に反論した。


「待ってください。民間人を危険な未確認領域に? 規定違反です」


「規定が地球を救ってくれるのか?」


 阿久津は静かにレイナを見据える。


「“奴ら”の微弱信号は、宮田にしか捉えられない。そして、現場の指揮とシステムの掌握は、お前以上にできる人間はいない。これは命令だ」


 有無を言わさぬ口調。レイナは唇を噛んだ。作戦の成否が、論理ではなく、彼の正体不明な“特殊性”に委ねられる。光り輝く宮田の姿が浮かぶ。常識を逸した検知能力。いまだに信じられない……その横で、宮田は満面の笑みを浮かべた。


「ついに、ご対面ですね! 地底人と!」


 彼はレイナに向かって、ぱっと右手を差し出した。


「主任、最高の宇宙旅行ならぬ、地底旅行にしましょう!」


 その屈託のない笑顔と差し出された手を、レイナは氷のような視線で一蹴した。手を無視された宮田が、きょとんとして宙で手をさまよわせる。


「……あなたは、この任務の意味を理解しているの?」


 冷たく言い放ち、レイナは阿久津に向き直った。


「リスク管理はどうなっていますか。万が一の際のプロトコルは」


「万が一、地底の有機体に接触し、“汚染”されたと判断した場合――」


 阿久津は一拍置き、二人を射抜くような目で見つめた。


「――その汚染は、決して地上へ持ち帰るな。いかなる手段を以てしても、だ。以上だ」


 阿久津の言葉が、部屋の温度をさらに数度下げた。




      ※




 その夜、宮田は自室で古い星図を眺めていた。壁一面に貼られた宇宙の写真や、手作りの探査機モデルに囲まれた、彼の小さな宇宙。


 コン、コン、と控えめなノックの音に、首をかしげてドアを開けた。そこに立っていたのは、レイナだった。


「……主任? どうかしたんですか」


「少し、話があるの」


 硬い表情のまま部屋に入ってきたレイナは、雑然とした部屋を見渡し、小さくため息をついた。そして、まっすぐに宮田を見据えた。


「昼間のあなたの態度、看過できない」


 レイナのただならぬ態度の宮田は戸惑った。


「え? 僕、何かしましたっけ……」


「確かに、あなたは何かが見えるかもしれない。でも、うぬぼれないで。あなたのめざす夢で、人が死ぬことだってあるのよ」


 その言葉は、静かだが刃物のような鋭さを持っていた。宮田が息を呑んだ。


「……こんな事件が過去にあったわ」


 レイナは、遠い目をして語り始めた。それは、彼女が心の奥底に封じ込めてきた、氷の記憶だった。


「観測所にいたある女性技術者。彼女も夢を語るのが好きだった。人一倍、努力して、必死に勉強して。周りの目も気にせず、いつもキラキラした目で、未知のデータに胸を躍らせていた。あの日もそうだった。火災による警報が鳴り響く中、彼女は貴重なデータを諦めきれなかった。『このデータさえあれば、新しい発見が……!』、そう言って聞かなかった彼女は、同僚に危険な指示を。そして……殺した……」


 僅かな声の震えを宮田は見逃さなかった。これが阿久津のいう、レイナの心の傷なのか――


「わかる?  人一倍、強い夢は、誰かを救わない。むしろ、それは取り返しのつかない過ちを生むことすらあるの。あなたに、その覚悟はあるの? 半端な気持ちで、あの地の底へ足を踏み入れるつもりなら、今すぐ断って」


「……でも」


 宮田の声が、静寂を破った。


「それでも僕は、夢を信じたいんです」


 その目に宿る光は、レイナの言葉をもってしても、少しも揺らがなかった。レイナは思わず一歩、詰め寄った。


「なぜ!? あなたにはわからないのよ。自分の理想が、すぐ隣にいる誰かの命を奪うかもしれない恐怖が!」


「僕には、最初から隣にいる誰かなんていませんでしたから」


 宮田は、悲しそうに、だがどこか穏やかに微笑んだ。


「僕は、宇宙で生まれたんです」


「……え?」


「試験管の中で。宇宙生誕プロジェクト……スペースベイビーってやつですよ。親もいない。地球に降りても、僕の戸籍は正式には認められなかった。僕という存在は、この世界のどこにも記録されていないんです」


 レイナは絶句した。目の前の男が、いつも冗談めかして口にする「宇宙」が、彼の現実そのものだったのか。


「世界中から、お前は存在しないって言われてるみたいだった。自暴自棄になったこともあります。なんで僕だけが、って……」  


 宮田の声が、わずかに震えた。


「学校にも通えませんでした。僕の存在は、公的には“ないもの”でしたから。唯一、僕という人間を誰も気にしない場所が、街外れの古びた図書館でした」


 彼は、遠い昔を思い出すように目を細めた。


「ある日、そこで偶然手に取った一冊の写真集。そこに、宇宙の写真が載っていました。真っ暗な闇の中に、無数の星が輝いている。見たこともない星雲が、渦を巻いている。その写真を見た瞬間、思ったんです。この広い宇宙のどこかに、きっと僕みたいに孤独なやつがいる、って」  


 その発見は、彼の暗闇に差し込んだ一筋の光だった。


「それから、僕は必死に勉強しました。物理学、天文学、電波工学……誰に教わるでもなく、図書館にある本を片っ端から読み漁った。いつか、僕と同じ『宇宙生まれ』の仲間を見つけるために。彼らからのメッセージを受け取るために」  


 彼はレイナに向き直った。その瞳は、狂信的ともいえるほどの、純粋な決意に満ちていた。


「彼らの存在を見つけること。それが、僕が僕として生きていくための、たった一つの夢なんです」


 レイナは、言葉を失った。彼の夢は、彼女が知る自己満足や功名心とは全く違う次元にあった。それは、彼の存在証明そのものであり、孤独な魂が宇宙に向かって放つ、祈りのようなもの。


 壮絶な告白に、戸惑いと、これまで彼に抱いていた認識を根底から覆されるような衝撃が胸を渦巻いた。レイナは動揺を悟られまいと、咄嗟に顔をそむけた。


「……しっかりするのよ」


 かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。


「あなたのその馬鹿みたいな夢に、こっちを巻き込むんだから……足を引っ張らないでよね」


 精一杯の強がりを口にして、レイナは踵を返した。宮田の返事も聞かずに部屋を出て、冷たい廊下の壁に背を預ける。心臓が、早鐘のように鳴っていた。あの瞳。あの、絶望の底から見出した、一つの星のような光。自分は、あの光を否定することなど、できるのだろうか。レイナは、固く握りしめた拳が、小刻みに震えていることに気づいていた。


 




 

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