中編
(寝不足、最悪……)
翌日。
目の下にクマをくっきりと刻み付けた私は、ゾンビのような足取りで出社した。
おまけに、昨夜の蕎麦(と、極度の緊張)のせいか、胃がキリキリと痛む。
「おはよー、美桜。……うわ、顔色ヤバくない? 大丈夫?」
「ユカ……おはよ……大丈夫じゃないかも……」
同期のユカが、心配そうに私の顔を覗き込む。
彼女は、黒崎課長のお気に入り(と私が勝手に思っている)、明るくて優秀な同期だ。
「昨日、黒崎課長と二人で残業してたんでしょ? また怒られた?」
「怒られた……というか、その後、メシに連行されて……」
「え!? 二人で!? あの黒崎課長と!?」
「うん……地獄だった……」
「はぁ!? あんた、それ地獄とか言ってんの!?」
なぜかユカが、私以上に興奮している。
「いい? 美桜。あの黒崎課長が、部下、それも若い女の子とサシでご飯なんて、天地がひっくり返ってもないことなんだよ!」
「え、そうなの?」
「そうだよ! 私たち、この前みんなで飲みに誘った時も『そういうのはいい』って一瞬で断られたんだから!」
「……あ、そういえば、そんなことも……」
(じゃあ、なんで昨日は私と……?)
『お前のミスのせいで』という私の仮説が、早くも揺らぎ始める。
「……もしかして、黒崎課長、あんたのこと……」
「ストップ、ユカ。それ以上は言わないで。勘違いは身を滅ぼすって、ばあちゃんが言ってた」
「どこのばあちゃんなのよ……」
ユカが何か言いたそうにしていたが、その時、フロアの入り口から、カツ、カツ、と聞き慣れた足音が響いた。
黒崎課長の出社だ。
フロアの空気が、ピッと引き締まる。
私も慌てて背筋を伸ばし、パソコンの電源を入れた。
(……やばい、緊張してきた)
昨日の今日だ。
どんな顔をして「おはようございます」と言えばいいのか分からない。
黒崎課長が、私のデスクの横を通り過ぎる。
私は、意を決して、彼に……ではなく、彼の背中に向かって、蚊の鳴くような声で言った。
「……おはよう、ございます……」
(聞こえなかったかな。うん、聞こえなくていいや)
そう思った、次の瞬間。
黒崎課長の足が、ピタリと止まった。
「……おはよう」
低く、静かな声。
それだけ言うと、彼は今度こそ自分のデスクへと歩いて行った。
「……」
「……」
私とユカは、顔を見合わせる。
「……美桜」
「……なに」
「……今、課長、返事したよね?」
「……した、みたいだね」
「(小声で)しかも、なんか、声、優しくなかった!?」
「(小声で)気のせいだよ! 寝不足で幻聴聞こえてるんだよ!」
そんな馬鹿なやり取りをしていると、今度は内線チャットがピコン、と鳴った。
差出人は、黒崎課長。
(ぎゃー! 朝イチで呼び出し!? 昨日のメシ代の請求!?)
恐る恐るメッセージを開くと、そこには、短い一文だけが書かれていた。
『体調管理も仕事のうちだ。無理するな』
「……」
(……はい、キターーーーー!)
(これ、遠回しに『寝不足の顔で出社してくんな、プロ意識ゼロか』って怒られてるやつーーー!)
私は、デスクに突っ伏した。
胃の痛みが、さらに増した気がする。
「美桜? どうしたの、チャット?」
「……ユカ。私、もうダメかもしれない。黒崎課長からの、最後通告が来た……」
「は? なんて?」
「『体調管理も仕事のうちだ』って……」
「……え、それだけ?」
「うん……『無理するな』とも……」
「……」
ユカが、なんとも言えない顔で私を見ている。
そして、深いため息をついた。
「美桜……あんた、本当に、本っ当に、ポンコツだね……」
「え、ひどい!?」
「恋愛偏差値が、だよ! それ、普通に心配されてるだけじゃん!」
「違うよ! これは『戦力外通告』だよ! 『無理する(=使えない)なら(辞めろ)』ってことだよ!」
「どんだけネガティブなのよ……」
ユカは呆れ果てたように、自分の仕事に戻ってしまった。
私は、黒崎課長からの冷たい(としか思えない)チャットを、何度も何度も読み返す。
(私、やっぱり嫌われてる……)
その確信は、午後になってさらに強まることになった。
お昼休み。
給湯室でコーヒーを淹れていると、黒崎課長が、営業部のエースである美人な先輩・白鳥さんと、楽しそうに(私にはそう見えた)話しているのを目撃してしまったのだ。
「黒崎課長も、好きなんですね、甘いもの」
「……ああ。疲れている時は、特に」
「奇遇ですね、私もです。駅前の新しいカフェ、今度一緒に行きませんか?」
「……検討しよう」
(……検討しよう、だと!?)
私との食事は「連行」で、白鳥先輩とは「検討」!?
なにその差!
しかも、黒崎課長の表情、いつもより確実に緩んでる!
(やっぱり……)
(黒崎課長は、白鳥先輩みたいな、綺麗でデキる大人の女性がタイプなんだ……)
(私みたいな、ミスばっかりの、寝不足ゾンビとは違うんだ……)
ズキッ、と胸が痛む。
これは、胃の痛みじゃない。
明らかに、心の痛みだ。
(もう、やめよう)
(こんな、期待するだけ無駄な片思い)
私は、淹れたてのコーヒー(それは、彼が好きだと言っていたブラックコーヒー)を、自分で一気に飲み干した。
苦くて、熱い。
まるで、今の私の心みたいだ。
(……よし。今日こそ、定時で帰る)
(そして、黒崎課長のことなんて、金輪際、意識するの、やめる!)
そう固く決意し、私は午後の業務に(半泣きで)取り組んだ。
ミスをしないよう、いつも以上に慎重に。
黒崎課長に、これ以上「嫌われる」材料を与えないように。
だが。
神様というのは、本当に意地悪だ。
「――というわけで、佐藤さん。悪いんだけど、この資料、今日中にまとめてくれないか」
「……はい?」
定時五分前。
私にそう声をかけてきたのは、別の部署の、ちょっと厄介なことで有名な(そして定時ダッシュ常習犯の)鈴木先輩だった。
「いやー、俺、今日この後、大事なアポ(=合コン)があってさ! 頼むよ!」
「え、でも、これ、今日中って……」
「大丈夫、大丈夫! 佐藤さんならすぐできるって! じゃ、お疲れ!」
嵐のように、鈴木先輩は資料の束を私に押し付け、去っていった。
……もちろん、定時チャイムと同時に。
「……うそでしょ」
残された資料は、どう考えても「すぐできる」量ではなかった。
少なくとも、二時間はかかる。
フロアのあちこちで「お疲れ様でしたー」という声が聞こえ始める。
ユカも「美桜、帰ろー!」と声をかけてくれたが、「ごめん、急ぎの仕事入っちゃって……」と力なく返すしかなかった。
「えー、また? ……あ、それ、鈴木先輩の資料でしょ! あの人、いっつも美桜に押し付けて!」
「いいのいいの……早く帰って、合コン……じゃなくて、アポ、成功するといいね……」
「美桜は天使か! ……手伝おうか?」
「ううん、大丈夫。ユカこそ、彼氏とデートなんでしょ。早く帰りな」
「……ごめんね。じゃあ、あんまり無理しないでね!」
ユカを見送り、フロアには、またしても私一人が残された。
……いや、一人ではなかった。
(……黒崎課長、まだいた……)
彼は、私が鈴木先輩に仕事を押し付けられているのを、一部始終見ていたはずだ。
だが、何も言わなかった。
(……そうか。やっぱり、私なんてどうでもいいんだ)
(『デキない部下』が、さらに仕事を増やされて残業してる。……滑稽、だよね)
涙が、じわりと滲んできた。
胃も、心も、もう限界だった。
パソコンに向かい、資料を開く。
……涙で、モニターがよく見えない。
「……佐藤」
また、あの声だ。
私は、もう顔を上げる気力もなかった。
「……すみません。今、取り込み中、です……」
「……それ、お前の仕事か」
「……違いますけど、でも、私がやらないと……」
「鈴木は?」
「……アポ、だそうです」
「……そうか」
黒崎課長は、それだけ言うと、黙り込んだ。
(ほらね。助けてもくれない)
(ただ、私がみじめに仕事してるのを、確認しに来ただけなんだ)
もう、どうにでもなれ。
私は、涙を拭うのも忘れ、必死でキーボードを叩き始めた。
カチ、カチ、カチ……
不意に、隣の席(ユカの席だ)に、誰かが座る気配がした。
「え……」
横を見ると、そこには、黒崎課長が。
彼は、ユカのパソコンを勝手に(!)起動し、当たり前のように言った。
「……半分、よこせ」
「へ?」
「資料だ。半分、俺がやる。……その涙で濡れたモニターじゃ、まともに作業もできんだろ」
「!!!」
私の顔が、カッと熱くなる。
泣き顔、見られた! 最悪だ!
「だ、大丈夫です! 課長のお仕事じゃ……」
「いいから、よこせ。これは、俺の『体調管理』だ」
「……え?」
「『無理するな』と、言ったはずだ」
黒崎課長は、私から資料の束をひったくると、猛烈なスピードでキーボードを叩き始めた。
その横顔は、相変わらずクールで、無表情で。
でも。
(……あれ?)
私は、自分のデスク(の内線チャット)に、こっそり視線を落とした。
チャット画面は、まだ開きっぱなしだ。
『体調管理も仕事のうちだ。無理するな』
(……もしかして、これって……)
(『無理する(=使えない)なら(辞めろ)』じゃなくて……)
(本当に、文字通り、『無理するな』って……)
「……なにをボーッとしている。お前も、自分の分をさっさと終わらせろ」
「は、はい!」
私は慌てて、自分のパソコンに向き直る。
さっきまであんなに重かった指が、今は少しだけ、軽い気がした。
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