第7話 倫理審査と路上の温度
白霧プラントの警笛が夜明け前に止み、街の空が紙の裏側みたいに薄く明るんだころ、研究所の会議室は張り詰めていた。ガラス壁にかかるスクリーンには、黒い帯の上に白い文字が揺れている。「臨時倫理審査委員会 招集」。ミアは紙コップのぬるい水をひと口飲み、舌の奥で温度の行き場がなくなるのをやり過ごした。コップの縁は冷たく、指の腹に静かな痛みを残した。
昨夜の“光の雪”は、想像以上に広がった。SNSのタグは夜のうちに何度もトレンドに上がり、吹き抜けの歩道に並ぶ写真はへたな広告よりずっと人を動かした。「泣けた」「歩けた」「春の匂いがした」。短い文があふれるいっぽうで、「感情に介入する危険な技術」「生体データを勝手に使うな」といった通報も雪崩のように押し寄せ、朝のうちに委員会が立ち上がった。
研究所長は青黒い目の下を揉み、苦い顔で言った。
「EmoHeatの運用は、仮停止を勧告された。こちらの主張を通すには、第三者立ち合いの公開検証が必須だ。ラボの内輪じゃない。路上で、だ」
アルヴィンは静かに頷いた。頷いた首の角度が、剃りたての氷みたいに正確だった。
「分かりました」
ミアは拳を握り、爪の白い弧を見つめた。胸の中のメトロノームが早まる。早い拍は熱を削る。削られた熱は針になる。針の束を飲み込むように、彼女は言った。
「路上で証明します。私たちの“温度”が誰の自由も奪っていないことを」
◇
検証の場所に選ばれたのは、白ノ原の“凍える三叉路”と呼ばれる交差点だった。冬になると毎年、転倒事故が相次ぎ、四方から風が収束して気温が数度落ちる。地面の黒氷は、昼間でも薄いガラスのように光る。角に立つ薬局のシャッターは凍てついた指紋だらけで、郵便ポストの赤は乾いた血色に見えた。
昼下がり、委員たちが現場に集まった。紺のコート、地味なマフラー、腕章。組合代表と市の担当者、報道のカメラ、そして市民有志の腕章をつけた人たち。背後のパン屋の煙突から出る白い湯気は、風にちぎられてすぐに透明に溶ける。その少し離れた場所で、神崎が腕を組んで立っていた。遠巻き。観察者の距離。雪は彼の肩で止まったまま、落ちない。
「条件を確認します」
委員の一人が紙をめくり、眼鏡の位置を直した。
「EmoHeatの小型ユニットは歩道の柵に沿って設置、稼働条件は“歩行者の呼気と表情筋の微小運動を検出した場合に限り、最大で周囲に0.3℃相当の対流を発生”。人がいないときは不稼働の金属箱。同意の明示は?」
「入口に掲示、床面にマークを出します。マークを避けて歩けばデータは採取しません」
ミアは手袋を外して説明し、タブレットの設定画面を開いた。アイコンが脈を打ち、ログの表示が波形を滑らせる。彼女の指が波の上を撫でると、遅延のつまみがわずかに右に寄った。遅延は橋。橋は、すぐには落とさない。
アルヴィンは交差点の中央に立ち、風を数式にほどいた。四方のビルの角がつくる乱流、タクシーの熱風の尾、地下から上がってくる温い空気の渦。彼は無言で、体の周りに「静かな帯」を組み、風の刃を鈍くした。周囲の雪片が、彼の周囲だけ落ちやすくなり、すぐに消えた。
委員のひとりが、ためらいがちに尋ねた。
「つまり、人が“いて”、なおかつ“安心したときだけ”暖かくなるのか?」
ミアは頷いた。
「はい。うちの装置は誰かの自由意志に寄り添うだけです。押し付けの熱は、すぐに冷えます。なので“反応しない人”“反応したくない人”には、何もしません」
神崎が遠くで口の端をわずかに上げた。笑いではない。ひきつれ。彼の足元だけ、黒氷の光が強い。氷は正しさの顔をして、道を塞ぐ。
準備が整い、公開検証が始まった。通行止めはしない。いつもどおりの路上の温度を、少しだけ調律する。委員がサーモカメラを構え、赤外線の画面に交差点の色が滲む。
最初に歩道へ入ったのは、背を少し曲げた高齢の女性だった。杖が黒氷の上で鳴る。ミアがユニットの反応を見守る。女性の呼気が白く伸び、その縁が薄く解ける。センサーが表情筋のひそかな緩みを拾い、ユニットの中のファンがほとんど聞こえない速度で回った。足元の風が一瞬だけ躊躇し、黒氷の光が鈍る。委員がサーモで確認する。
「……プラス零点四。体感は?」
「楽ねえ」
女性は驚いたように笑い、すぐ照れた。笑いの殻ではない、中身のある笑い。笑いは雪に混じって、足元でほどけた。
続いて、保育園の散歩隊がやってきた。黄色い紐を持った子どもたちが、息を白い綿のように吐きながら歩く。先生が「滑らないようにね」と声をかけると、子どもたちの笑いがユニットに“安堵パルス”を刻んだ。波形の山が丸く立ち上がり、交差点の風目が一枚、二枚と開いていく。アルヴィンが帯の角を撫で、風の刃を折り返す。レポーターがマフラーを直しながら、思わず声を上げた。
「体感が変わりますね……あ、足先が」
「足の指の付け根だけ、先に温めています」
ミアは波形を見つめながら答える。先端に短い春を、先に置く。体は先端に引っ張られて、全体を思い出す。
そのときだった。群衆の端で、黒いフードの集団が立ち止まった。顔は見えない。首筋の筋肉が硬い。彼らは息を合わせて呼吸を抑え、胸ではなく背中を固めるようにして目を閉じた。周囲の空気がひと段低く鳴り、ユニットの発熱ログが“逆相”に揺さぶられる。風の刃が増え、雪片が真っ直ぐ落ちる。EmoHeatの表示に、逆熱の谷が出た。谷は深く、広い。押し返したら割れる。
「受ける」
ミアは短く言って、緊急遅延を挿入した。ユニット群を“待つモード”に切り替え、すぐに熱を上げない。キャパシタに微細な熱の粒を貯め、出力の位相を遅らせる。アルヴィンが歯を食いしばり、気流を再配分した。冷気の刃は帯の内側に入る前に速度を落とされ、丸い輪郭に触れて速度をなくす。輪郭は、彼の得意技だ。輪郭の中では、刃は針に戻る。針は抱ける。
三十秒が長い。長い三十秒の終わりに、フードのひとりが足を滑らせた。黒氷は正確だ。支えようと伸ばされた腕は、空を掴んだ。近くにいた市民が反射的に飛び出して、肩を支える。肩から肩へ、体重が移る。移るとき、安堵が生まれる。安堵は、波形の山をひとつ作る。ひとつの山が連鎖して、ユニット群が一斉に“柔らかい対流”を吐いた。冷気は弾かれない。抱きしめられた形でほどける。ほどけた冷たさは、床の上で粉になる。粉は風に混じり、色を失う。色を失ったものは、ただの空気になる。
レポーターが口を押さえ、マイクを持ち直した。
「……今の、見えましたか? 温度表示はプラス零点三。ですが、まるで……」
「抱き止められた感覚ですね」
委員の一人がそう言い、顔をこわばらせていた別の委員が、ゆっくりと眉間の皺をほどいた。
「“強制”ではない、のだな……」
ミアは呼吸を整え、言葉を選んだ。
「この装置の原則は“遅延”です。人の気持ちが追いつくのを待つ。冷やすことは必要なときもある。でも、冷やしっぱなしだと凍ります。私たちは、その間をつなぐ道具を作りたい」
神崎は遠くで肩をすくめ、唇だけ動かした。甘い。音にならない言葉。彼の周りで雪は光らない。彼は正しい壁を背にして立ち、壁に名前を書いている。壁の文字は消えない。消えないものは、温度を持たない。
検証は続いた。通勤途中の会社員、車椅子を押す青年、ベビーカーの若夫婦、犬を連れた老人。ユニットの反応は、どれも似ていて、少しずつ違う。指の先から温めると楽な人、背中に薄い風が必要な人、足首の内側だけを守ると歩ける人。どれも、選べる。選べるものは、奪わない。委員の表情が、少しずつ人間の顔に戻っていく。はじめから人間だったのに、寒さの仮面は似合いすぎる。
逆に、黒いフードの何人かは途中で列を離れ、路地へ消えた。消え際、ひとりがこちらを向いた。目は見えないのに、彼の目の奥で何かが折れた音がした。折れる音は小さく、長い。長い音は、夜まで残る。
最後に、委員長が歩道の端に立った。細い体。鞄の革は古く、手入れが行き届いている。彼は深く息を吸い、吐いた。吐いた息の白さは短く、すぐに消えた。消え方がうつくしい。彼は頷き、資料を閉じた。
「仮勧告は見直す。条件付きで運用継続を承認する。データは匿名化を徹底、同意の明確化、そして第三者監査の導入。運用記録は定期的に提出してほしい」
拍手が起きた。手袋越しの音は厚く、鈍い。鈍い音でも、意志は伝わる。グレス親方が腕を組んで「あたりまえだ」と言い、保育園の先生が笑って子どもたちの列を動かした。レポーターは短く「ありがとうございました」と頭を下げ、カメラは空を一度だけ見上げた。空には何もない。何もないのに、さっきより明るい。
ミアは深く頭を下げ、息を吐いた。吐いた息は、顔にかからずに横へ流れ、アルヴィンの白いコートの袖を薄く濡らした。彼は小声で言う。
「君の“待つ”設計に、救われた」
「あなたが“輪郭を与えて”くれたからだよ」
彼は目を細め、光のない笑いをほんの少しだけ浮かべた。笑いは殻ではない。殻を作る暇がない場所で生まれた笑いは、雪の中で温度を保つ。
◇
検証が終わり、機材の撤収が始まるころ、神崎が一歩だけ近づいた。距離はまだ遠い。遠いままで、声だけが届く。
「今日の君らは、うまくやった。だが、倫理は結果で正当化されない」
「倫理は、過程にも宿ります」
ミアは答えた。神崎の眉がわずかに動く。動きは小さいのに、風がほんの少しだけ冷たくなる。彼は口を閉じ、背を向けた。肩の雪は落ちない。落ちない雪は、今はもう、彼の性格ではなく、彼の選択の名札だと思えた。
交差点の向こうで、監察官カイルが市民有志と話していた。彼は目立たないコートの襟を直し、頷く。頷きは短く、確信は長い。彼がこちらに気づいて目を上げる。視線が重なった一瞬、昨夜の迷いが薄く溶けた気がした。彼は何も言わず、手を挙げ、また人混みへ戻っていった。背中の名札は、半分だけ透明になっている。
ミアはユニットの電源を落とし、柵から外す。金属の冷えが手袋越しにも沁み、腕に登ってくる。冷えは真面目だ。真面目なものは、油断すると体を奪う。奪わせないための遅延。遅延はいつも、こちら側の武器だ。
「帰ろう」
アルヴィンの声は、雪より軽く、金属より少しだけ温かい。ミアは頷き、工具箱の蓋を閉めた。蓋の金具が鳴る。鳴った音は、氷ではない。人の生活の音だ。生活の音は、倫理より先に、街を温めることがある。
◇
夕方、研究所の会議室で、再びスクリーンが明るくなった。委員会からの正式文書。条件付き承認。匿名化、同意、監査。所長は目を閉じ、短く息を吐いた。
「戦いは、これからだぞ」
「はい」
ミアは紙に目を落とし、文字の黒の濃さを確かめた。濃い黒は、軽い。軽い黒は、持ち運べる。持ち運べるものは、道具になる。紙の端で指を切らないように、彼女は気をつけた。切った痛みはすぐ冷える。冷えた痛みは鈍る。鈍った痛みは忘れられる。忘れる前に、線を引いておく。
窓の外で、白霧プラントの方向に低い雲がたまり、光を飲み込んだ。警笛は鳴っていない。鳴っていないのに、耳の奧で想像の音が響く。想像の音は危ない。危ないけれど、準備になる。準備は、恐怖の遅延だ。
「今日のログ、まとめる」
アルヴィンが言い、ディスプレイに風の帯の履歴を呼び出した。糸のような線が集まり、ほどけ、また集まる。ほどける場所に、ユニットのゆらぎが重なる。重なったところだけ、色が薄く変わる。変わった色は、温度では測れない。体感の色。人間の色。倫理の色は、たぶんそれに似ている。
「ねえ、アルヴィン」
「うん」
「次に誰かが“冷やす権限”を使ってきたら、私たちも“権限”じゃなくて“権利”で返そう。歩く権利。立ち止まって息を吐く権利。泣く権利。泣かない権利。選ぶ権利」
彼は頷いた。頷きの角度が、今日の風の角度と同じに見えた。偶然だ。偶然でいい。偶然が重なると、季節が変わる。
帰り道、路面の黒氷はまだ残っていた。交差点の角で、昼間の高齢女性とすれ違う。彼女は丁寧に会釈し、杖の先を少し高く持ち上げてから、そっと着地させた。着地が上手くなっている。上手くなることは、温度だ。温度は、倫理よりもはっきりしていることがある。倫理はそのあとから、足もとに追いついてくる。
「寒い?」
アルヴィンが尋ねた。ミアは空を見上げ、白い息をひとつだけ吐いた。
「うん。でも、待てる寒さ」
彼は笑い、襟を少し上げた。ふたりの息が合う。合った息は雪に触れて、すぐに消える。消えたあとの空気は、なぜかさっきより軽い。軽い空気は、明日の準備を手伝ってくれる。明日は、検証ではない。戦いでもない。路上の温度を、もう少しだけ正確にする仕事だ。正確という言葉が、誰かを凍らせないための正確さであるように。
夜、ミアはノートに一行だけ書いた。
——押し返さない。受けて、溜めて、戻す。
書いた線の上に、指をそっと置く。紙は冷たい。冷たい紙に、体温が薄く移る。移った熱はすぐ消える。消えるのに、移したことだけが残る。残ったものは、いつか誰かの足もとを、黒氷からほんの少しだけ遠ざける。そう信じられる夜は、冬でも少しだけ、春の匂いがした。
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