愉快な悪魔は不幸を笑う

葉月木蔭

前半 娘視点

 


 なんだか、長い長い夢を見ていたような気がします。──



「……ィア、ソフィア!」


 誰かに名前を呼ばれた気がして、私は目を覚ましました。

 目の前には、見慣れぬ天井。

 そして、


「ソフィア──ッ!!」


 大好きな父の顔が、目の前にありました。

 私は喜んで、父に抱きつきました。


「お父様、おはよう!」

「ソフィア、ソフィア……」


 この日の父は、少し変でした。

 私を抱きしめて、離そうとしません。


 それに、ゴツゴツと骨ばった背中。


「お父様、知らぬ間にお痩せになったのね」

「……」


 父は、泣いていました。

 怖い本でも読んだのでしょうか。

 それなら、泣いたって仕方がありません。

 だって、私も、怖い本を読んだらトイレにいけなくなってしまいますから。


「お父様……?」


 いつまでも、いつまでも、お父様は私を抱きしめたままです。

 いくら私が辛抱強くたって、我慢できないものもあります。

 私のお腹がなりました。


「お父様、お腹が空いたわ」


 私がそう言うと、父は慌てて私の身体から離れました。


「そうだね、一緒にご飯を食べよう」


 父は私の手を取り、にこやかに言いました。

 そこで、私は今更ながら、今いる場所が家ではないと知りました。


「お父様、ここはどこ?」

「ここはね、私達の新しいお家だよ」


 ──新しいお家!

 私はなんだかわくわくしてきて、スキップをしながらダイニングテーブルに着きました。


 朝食は、固いパンと冷めたスープ。

 私はがっかりしました。

 何よりも寂しかったのは、母がどこにもいなかったことです。

 父に聞いても、もうすぐ会えるよ、としか教えてくれません。

 新しいお家は、歩くたびに叫び、よく涙を流す古い家でした。


「おうちに帰りたいよ……」

「ソフィアのお家はここだよ。じきに慣れるさ」


 父はそう笑って、自分のぶんの固いパンを私にくれました。

 母がいない家に慣れるなんて、絶対に嫌でした。


 私は、新しい家で食事を取ることを、泣いて拒みました。

 父は苦笑し、なだめようとします。

 でもだめです。私は大声で泣き叫びました。

 そのうち根負けしたのか、父は言いました。


「じゃあ、ソフィアが朝食を食べてくれたら、お母さんのところに連れて行ってあげるよ」

「ほんとう!?」


 ──母に会える!

 私は嬉しくなって、父のぶんの料理まで平らげてしまいました。

 少し、古くて新しいこの家が、好きになりました。



────



 父に連れられた先には、白くて大きな建物が並んでいました。


「すごい、大きい!お母様はお城に住んでいたのね!」


 私は大はしゃぎをしました。

 でも、中に入ってみると、残念。

 そこは、私の大嫌いな場所、病院でした。


「どうしてお母様は私の嫌いな場所にいるの?」

「ここがお母さんのお家だからだよ」


 母は、何故私の家には来てくれないのでしょうか?

 私のことを、嫌いになったのでしょうか?


 固い扉の先の小さな部屋に、母は住んでいました。

 ベッドに寝そべり、窓から外を眺めています。


「お母様ああ──ッ!!」


 私は母の元に駆け寄り、ベッドにダイブしました。


「……」

「お母様、お母様!早くお家に帰りましょう!」

「……」


 母は、ぼんやりと私の顔を見つめていました。


「お母様……?」


 私が首を傾げていると、父が私の頭をなでました。


「アンナ、見てくれ。ソフィアが帰ってきたんだよ。

 あの頃とそっくりそのままのあの娘だよ。

 ほら、君の大好きな一人娘の──」


 父は、母に向かって、意味のわからないことを言いました。

 それでも、母は無反応です。

 人形のように、じいっと、私達を見つめていました。

 私は、なんだか怖くなりました。

 目の前にいる人が、母には見えませんでした。

 母の皮を被った妖怪のように、私には見えました。


 違う。違う。これは、お母さんじゃない。

 偽物の母だ。


「うわああああん、お父様の嘘吐きィ!!

 お母様なんてどこにもいないじゃない!」


 私は思わず泣きじゃくりました。

 父は驚き、優しく私を抱きしめました。


「お母さんならここにいるだろう?

 ほら、ちゃんと挨拶をしないとだめだぞ」

「違うもん!こんなのお母様じゃない!」

「ソフィア……」


 父は悲しそうな目をしました。

 そして、走って部屋から出ようとした私を抱き上げ、ベッドに座らせました。

 偽物の母と、目が合いました。

 私はより一層泣きました。


「嫌だ、帰るぅ!帰る帰る帰る!!本当のお母様がいいよぅ!お母様ああああああ!」


 私は駄々をこね始めました。

 あやそうと思っておんぶをした父の背中で暴れ、床の上を転がり、地団駄を踏み、駄々をこねまくりました。

 父と私の格闘は、私が泣き疲れて眠るまで続きました。

 父は私を抱き上げ、名残惜しそうに病院を後にしました。


 しばらくして、古くて新しいお家のベッドで、私は目を覚ましました。

 もしかしたら、本物のお母様がいるかも知れない。

 そう思って、私は家中を探して回りました。

 どこにもいませんでした。


 探しているうちに日は昇り、お昼の時間になりました。

 今朝と同じく、美味しくないスープに、美味しくないパン。

 やはり、母は食卓にいません。


「本当のお母様は、どこに行ったの?」

「……」

「もう会えないの?私を置いて、遠くに行ってしまったの?」

「違うよ、お母さんはいつでもソフィアのことを見守っているんだよ」


 父は、私の頭を優しくなでました。


「じゃあどうしてどこにもいないの?」

「心配しなくても、会えるときはくるよ。

 その時は、また三人で食事を取ろうね」


 会えるときは、何故今ではないのでしょうか。

 母は、意地悪だ。

 私は、終始不機嫌なまま昼食を食べ終えました。


 この日、父は私に可愛い人形をたくさんくれました。私の大好きなハンバーグを、夕食に作ってくれました(かなり焦げていましたが)。夜も、私が眠りにつくまで、ずっと手を握ってくれました。

 それでも、母がいなくなった寂しさは、埋まりませんでした。


 私が母の事を問うたびに、父は苦々しく笑います。

 私は、父に母の話をしてはいけないのだと、悟りました。




 それから、新しい家での父と私との新しい生活が、始まりました。

 父は、私の欲しいものは何でも買ってくれました。

 父は、私が食べたいといったものを、必ず作ってくれました。

 父は、私が癇癪を起こしても、暖かく抱きしめてくれました。

 父は、──

 父は、私にとても優しかったです。

 とてもとても。

 ──怖いくらいに。


「ソフィア、勝手に家の外に出てはいけないよ」


 ある日、外で遊ぼうとしていた私を、父は止めました。


「どうして?」

「外には危ないものがいっぱいあるからだよ」

「でも、前の家にいたときは、自由に遊べたじゃない」

「今の家では、だめなんだよ」


 父は私をひょいと抱き上げると、家の中に入れてしまいました。

 そして、そのまま玄関の扉を閉め、鍵をかけてしまいます。


「今日からは、家の中で遊ぼうね」


 父は微笑みました。


「外に出たら、駄目だよ?」


 私は、一生外に出られなくなったのです。

 気分は、囚われのお姫様。

 優しい父は、私の人形遊びに、延々と付き合ってくれます。

 ずっと、ずっと、ずうっっと……



───




 その日から、噛み合いの悪い歯車のように、私達の生活は、少しずつ変わっていきました。


 父は、私の自由を少しずつ禁止していきました。

 高い所に登ってはダメ、火をつけてはダメ、一人でお風呂に入ってはダメ、台所に入ってはダメ、部屋の片付けをしてはダメ、──


 私の周りには、父と人形しかいませんでした。

 他には何もありません。

 丈の長いドレスも、温かい薪ストーブも、ベッドも、羽ペンも、ナイフとフォークも、全部。


 抑制された暮らしに反発するように、私は我儘ばかり言うようになりました。

 あれが欲しい、これが欲しい、父はどんなものでも買ってくれるのです。

 父は、日に日に痩せていき、服も擦り切れがひどいものばかり着ていました。

 一方の私は、父がくれた豪華なワンピースを着て、狭い家を踊り回っていました。


 そしてある日を境に、父は同じ服ばかり着るようになりました。

 私は、我儘を言うのをやめました。


 私は、精神的苦痛で押しつぶされそうになりました。

 父が買ってきた服を破ることで、心を落ち着かせました。

 それを見た父は、悲しそうな顔をします。

 私もなんだか悲しくなって、それからは服を破くことはやめました。

 破った服は、父が直してくれました。


 父は、相も変わらず優しいのです。

 優しくて優しくて、恐ろしいのです。

 私は、おかしいのです。

 大好きな父を見て、恐怖を抱いている。

 私を第一に思っている父を見て、憎悪を覚えてしまう。

 大好きだよ、という言葉が、呪いのように私にまとわりつくのです。

 でも、その言葉を聞いて、どうしようもなく嬉しく思う私もいるのです。


 私は、可笑しくなってしまいました。

 いつもいつも、前の家のことを思い出します。

 父と母と、私。小高い丘の上で過ごした、かけがえのない日々。

 ああ、あの頃に戻りたい。どうしようもなく戻りたい。

 私の頭はぐちゃぐちゃでした。


 もう、母の声も顔も、思い出せないのです。

 父の笑顔すら、思い出せないのです。




 壁に激しく頭を打ち付けます。

 血が出て、激しく狼狽する父の姿。

 大好きで、大好きで、大嫌いで、憎くて、怖くて、──でもやっぱり大好きな、父の姿。

 歪んだ世界の中、懸命に私を介抱する、父。

 優しくて、世界で唯一人の、父。


 ああ、そうだ。

 母がいなくなったのも、私がおかしくなったのも、父が貧しくなったのも、すべて、この家のせいだ。

 この家のせいで、私達一家は不幸になったのだ。


 ──壊してしまおう。


 私は、父の首を包帯で締めました。

 やせ細った父は一切抵抗せず、すぐに動かなくなりました。

 私は、台所へ駆け、床に油をばら撒きました。

 火をつけます。

 ぱちぱちぱち、と小気味の良い音がして、世界が徐々に茜色に染まっていきます。

 家具が、苦しげに踊っています。

 息ができなくなってきました。


「──ッィぁぁあああッ!!!!」


 意識を取り戻した父が、咳き込みながら、私の名前を叫びました。

 私を助けようと、家の中を苦しげに這いずり回っています。

 でも、もう遅いのです。

 私は、熱に浮かれて、炎の中を踊り狂っていました。


「ソフィア、ソフィア、ソフィアッ!!助けてやる、今、父さんが、ソフィア、熱いだろう、早く、早く……」


 父の声が、段々遠くなっていきます。


 大丈夫だよ、お父様。

 忌々しいこの家は、もうじきなくなります。

 私達は、またあの頃に戻れるのです。

 だから、怖いことなんてない。


 だからね、お父様、私は、お父様のことが、……


「ぃすき……」


 私は、豪火に飲まれました。

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