泡沫
鳴沢 梓
一
海は、息をしていた。
満ちては引き、引いては満ちる。
その度に、世界の輪郭が曖昧になってゆく。
私はその中で生まれ、光というものを知らずに生きてきた。
水の底は静かで、音はすべて丸く、優しく溶ける。
悲しみも喜びも、泡のようにすぐ消えてしまう。
それがこの世界の全てなのだと、ずっと信じていた。
けれどある日、世界に色が差した。
波打ち際に立つ一人の少女。
鮮やかなワンピースが風にほどけ、陽に透ける。
足もとをくすぐる波に笑い、手にした貝殻を耳に当てていた。
その姿を初めて見たとき、
人間の世界は、いつも遠くにある。
私たちは決してそこへ行けないし、行ってはいけない。
けれど、あの少女の笑顔は、
まるで波の向こう側からこちらを呼んでいるようだった。
彼女に触れてみたい。
その想いは、禁忌のように甘く、苦しかった。
抗えなかった。
潮の流れを押し返すように、私はゆっくりと浜辺へ近寄った。
光が刺す。
肌が焼けるような感覚。
それでも、私の瞳はまっすぐにその少女を捉えた。
彼女の黒髪が、キラキラと煌めく。
瞳は澄んだ空の色。
その光を見た瞬間、胸の奥で何かが壊れた。
水に包まれていた心が、はじめて乾いた。
「……だれ?」
彼女が、かすかに息を呑む。
波の音に混じるその声は、光よりもやさしく、私を包んだ。
私は何も言えなかった。
声を出せば、この瞬間が終わってしまいそうで。
ただ、静かに水面を揺らし、彼女を見つめた。
彼女の瞳が、私を見返す。
恐れもなく、好奇心だけを宿したまま。
その眼差しが胸を貫き、
私は、世界が少しだけ変わる音を確かに聞いた。
波の音が、鼓動に似ている。
風の匂いが、彼女の声に混じっている。
海の底には、こんな匂いもこんな色もなかった。
私の世界は今、彼女の笑顔で塗り替えられていく。
水面に差し込む光が、ゆらめいている。
その光の粒が私の頬に触れ、
まるで、彼女の指で優しく撫でられているように感じた。
胸の奥がじんわりと熱を帯びる。
それは痛みにも似ていて、けれど幸福だった。
こんな感覚を、初めて知った。
その瞬間、私は確信した。
この人が、私を変える。
この出会いが、終わりを告げる日まで私を導く。
泡のように儚く、夢のように鮮やかな恋の始まりだった。
遠くで鳥が鳴いていた。
私はその声を聞きながら、
もう戻れない場所へ、自らの意思で歩み始めた。
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