2、少女の願い
少女は男を地下室から連れ出した。
「こんな暗い場所で話すのは、あれですので」と言いながら。
階段を上がると、空気が一気に変わった。
そこは、まるで別世界だった。
壁は整然とした石造りで、まるで芸術のように滑らかだった。
天井は高く、ゆるやかなアーチを描き、
上部には光を取り込むための窓が並んでいる。
淡い光が家全体を照らし、陰影を柔らかく滲ませていた。
「……眩しい」
男は思わず目を細める。
地下の暗闇で目を酷使していたせいか、光が痛い。
少女はそれを見て、
「ちょっと待って」と微笑み、男を暖炉のそばの椅子に座らせた。
部屋の中央には四角い木のテーブル。
少し小さめのカップが一つ、伏せられて置かれている。
少女は椅子に腰を下ろしかけて、何かを思い出したように手を打った。
「あっ、そうだ!」
勢いよく立ち上がり、ぱたぱたと台所の方へ走っていく。
その足音がやけに軽やかで、今にもスキップを始めそうなほどだ。
しばらくして、遠くから声が響く。
「コーヒー、要りますかー?」
遠くから響いた少女の声に、男はきょとんと目を瞬かせた。
コーヒー? コーヒーってなんだ?
言い方てきには物の名前か?
だが、声の響きは柔らかく、敵意も恐怖も感じられない。
「……えっと、はい。お願いします」
とりあえず答えてみた。
が、言った瞬間に急に不安が込み上げてくる。
コーヒー。未知の単語。
「……ちょっとだけで、大丈夫ですー!」
思わず保険をかけるように、語尾が上ずった。
奥から「ちょっとだけって、なにそれー!」と元気な声が返ってくる。
その明るい調子が、石造りの部屋に反響して、少しだけ暖かく感じた。
男はため息をひとつ吐き、見上げた天井の高みに目をやる。
天窓から差し込む光が、彼の肩を照らしていた。
「はい、どうぞー!」
明るい声と共に、少女が戻ってきた。
小柄な体で、両手に湯気の立つカップを持っている。
暖炉の火がその湯気を照らし、細い煙のように揺らめかせていた。
テーブルの上に置かれたカップの中には、真っ黒な液体。
光を吸い込んで、底の見えない闇のように沈んでいる。
男は、思わず身を引いた。
これを……どうすればいい?
液体なのは分かる。
黒いそれは、どこか燃料か薬のように見えた。
香りも鼻を刺すように強く、刺激的で、明らかに自然の味ではない。
「……これは、どう……するものなんですか?」
恐る恐る尋ねると、少女は一瞬きょとんとしたあと、くすっと笑った。
「飲むんですよ?」
あっけらかんとしたその言葉に、男の思考が止まる。
飲む?
この黒い液体を?
この焦げ臭い匂いのする得体の知れないものを?
少女はそんな彼の警戒をよそに、自分のカップを手に取って口をつけた。
唇が触れた瞬間、ふう、と息を漏らす。
「あぁ、生き返る」
その表情があまりにも幸せそうで、男は逆に恐ろしくなった。
毒を飲んで笑っているようにしか見えない。
「え、だいじょうぶ?」
「だいじょうぶですよ?」
少女は目を細め、笑った。
その笑顔があまりにも自然で、男の中の警戒心が少しだけ緩む。
「……ほんとに飲むの?」
「ほんとに飲むんです」
「死なないですか」
「むしろ、生き返ります」
そんな会話のやりとりをしながら、
男は覚悟を決めたようにカップの取っ手を掴んだ。
熱い。思わず指先がびくりと跳ねる。
顔をしかめながら、それでもそっと口を近づける。
苦い。
口に入れた瞬間、全身の神経が警鐘を鳴らす。
眉をしかめ、舌を引っ込め、喉の奥に何かが引っかかる。
「うぇ……!」
思わず変な声が漏れた。
少女は目を丸くしたあと、耐えきれずに笑い出した。
「ははは! 毒飲んだみたいに!」
「毒だろこれ……!」
男がむせながら言うと、少女は頬を赤らめて、
「変わった方」と笑う。
暖炉の火がパチ、と音を立てた。
外の光が少しずつ傾いていく。
男はまだ舌の奥に苦味を残したまま、
それでも、少しだけ温かい気持ちになっていた。
カップを机の上に置き、軽く咳払いをする。
暖炉の火がパチ、と音を立て、木の焦げる匂いが鼻をくすぐった。
なんだか落ち着く空間だ。
だが、落ち着いている場合でもない。
「……色々、聞きたいんだけど」
椅子の背もたれに軽く体を預け、
男はできるだけ冷静に、しかし切実に声を出した。
少女は向かいでうんうんとうなずく。
真剣な顔で、まるで大切な講義でも聞くように。
完全に、何も分かってない。
「まず……俺、どうしてこうなってるんですか?」
「それは私も知らないです!」
元気よく即答。
間髪入れずに笑顔。
男は一瞬、思考が止まった。
あまりに潔い答えに、怒る気すら起きない。
「……いや、知らないって、そんな……」
「でもですね!」と少女は身を乗り出した。
手を胸の前で組みながら、どこか誇らしげに言う。
「あなたは私のお父様に託されたんです!」
「……お父様?」
「はい! そして、そのお父様も、そのまたお父様に託されて! そのお父様もさらにお父様に!」
男は呆然とする。
少女は楽しげに、どこかリズムをつけるように話を続けた。
「それで、そのお父様もお父様に! そのまたお父様もお父様に! さらにそのお父様も、」
止まらない。
永遠に続くお父様の連鎖。
すでに会話というより、もはや詠唱だ。
(お父様……もういいよ……)
頭の中で何度目か分からないお父様の響きが木霊する。
何回聞いたか、もう数える気力もない。
今までの記憶は何もないが、たぶん、いや確実に。
人生で一番「お父様」という単語を聞いた日だ。
少女がようやく息を吸い込み、ふう、と満足げに微笑んだ。
頬はうっすらと紅潮し、まるで達成感でいっぱいのようだった。
「つまりは……」
男が促す。
「はい! なにも分かりません!」
キラキラと笑顔。
まるで「褒めてくれていいですよ」と言いたげに胸を張る。
男は額に手を当て、天井を仰いだ。
木目の天井に走る焦げた筋が、まるで自分の頭の中の混乱をそのまま映しているようだった。
思わず小さく笑いが漏れる。
なんなんだ、この子。
しかし、少女はまだ終わっていなかった。
「あなたが目覚めたこと! これがどれだけ凄いか分かってもらえますか!?」
声が急に大きくなる。
身を乗り出し、手をばたばたさせながら、熱弁を始めた。
「今まで、どの代のお父様でも、あなたが目覚めることはなかったんです! でも! でもですよ!? 私の代でお目覚めになった! これはつまり――!」
そこまで言うと、少女は一瞬間を置き、胸をぐっと張った。
「私が女だからですね!」
勢いよく指を自分の胸に向けて突き立てる。
誇らしげというより、もはや演説だった。
「ほんとに、やっぱり男の子って、胸筋の大きな女の子に弱いんですね~!」
……沈黙。
その場の空気が一瞬、凍りつく。
暖炉の火だけがパチパチと音を立てていた。
男は何かを言いかけて、やめた。
確かに胸はある。
だが、言うほどでも。いや、やめよう。
口にしたら絶対に面倒なことになる。
「……そ、そうか。まあ……うん。すごいことなんだな」
曖昧に笑いながら相槌を打つ。
彼女の話のテンションに押されつつも、心のどこかでは納得していた。
確かに、そんなに長い間目覚めなかったものが今、自分として存在しているのは不思議だ。
理由があるなら、それを知りたい。
男は少し考え込み、指先でカップの縁をなぞった。
黒い液体は未だに熱を持っている。
――あの時、目覚めた瞬間に頭の中に響いた言葉。
"イリム"
あれはいったいなんだったのか。
「なぁ……イリムって、分かるか?」
少女が瞬きをする。
小さく首をかしげ、上の方を見ながら考える仕草をする。
「イリム、ですか? えっと……人の名前、ですか?」
ゆっくりとした口調。
その声にはまったく“知っている”気配がなかった。
男は小さく息を吐いた。
「……知らないならいいや。気にしないでくれ」
その言葉を聞くと、少女はほっとしたように笑い、
手元のティースプーンをくるくると回し始めた。
男は改めて姿勢を正す。
この状況を整理しなければ。
「じゃあ、ここはどこで、君は誰なんだ?」
そう尋ねた瞬間、少女の手がぴたりと止まった。
スプーンがカップの縁でカチリと鳴る。
ほんの一瞬、彼女の笑みが消えた。
火の光が揺れ、彼女の横顔に淡い影を落とす。
「ここは、《ルディア邸》。……私の家です」
その声は、さっきまでの調子とは違っていた。
どこか静かで、少しだけ寂しげだった。
「私は、リオラ。リオラ・ルディア」
男は無意識に、もう一度その名を口の中で転がす。
「リオラ、ね……」
暖炉の火がぱち、と弾けた。
「それより、あなたはなんて言うんですか?」
少女が机に乗り出し気味にしながら、顔を近づけて聞いてくる。
しかし、男にはそれに答えることはできなかった。
「俺、名前わかんないんだわ。ていうか、何もわかんねぇ」
そういう男に少女は口を大きくあけながら、少しがっかりした様子で乗り出した体を机の中にしまい、手を机の上に両手とも伸ばしながらえーーーと言ってる。がっかりしているようだ。
「古代のこと聞けると思ったのに~」
少しすねた声で少女がそう言う。
確か、お父様のお父様の……みたいなこと言ってたから少なくとも数百年ぐらいは昔の人間?ってことだよな。それで俺が古代の人と期待して色々聞こうと思ってたってことか。
「ごめんな。なんか期待させちゃって」
「いえ、別にお気になさらないでください」
そう言うものの、その声には明らかにやる気のない響きが混ざっていた。
助けてもらった恩があるだけに、男は少し申し訳なく思う。
「何か、役に立てたらいいんだけどな」
そう言うと、リオラは「言いましたね」という顔をした。
そして、ぱっと顔を上げる。
「役に、ね……それじゃあ!」
一拍おいて、胸を張る。
「私の奴隷になってください!」
その声は、男が彼女から聞いた中で、一番大きなものだった。
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読んでいただき本当にありがとうございます。
もし続きが気になりましたらブクマなどしていただけたら嬉しいです。
評価していただけたらもっと嬉しいです。
魔女が絡むのは4話からです。魔女が出るまではプロローグ的なものになると思います。
世界をテンプレートから外すあまりこうなってしまいました。
主人公なにもかも忘れやがって~!
お陰で書き方めんどくさいぞ!
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