第2話 「普通」の呪縛と「優しい毒」の起源
週明け月曜の朝。出勤の準備をしていると、妻の真衣がリビングから声をかけた。
「あれ?ピカピカだったけど、ちょっと黒くなってるね、使ってるんだ?」
健太は一瞬、心臓が跳ねた。奥さんの言葉は、無邪気であるほど、彼の心に重くのしかかった。
鈴木健太は、ごく普通の「鈴木」という苗字に、人知れずコンプレックスを抱えていた。
「鈴木1号、2号…」とどこに行っても記号でしかなかった自分に、嫌気がさしていた。
そんな健太と結婚した妻、真衣(旧姓:博)は、健太とは対極の人間だった。
彼女の旧姓「博(ひろし)」は、日本に数えるほどしかいない超がつく希少な名字だった。
彼女は、「特別」な苗字を持っていた自分にこそ、深いコンプレックスを抱えていた。
健太が自分の名前を嫌うのと同じくらい、真衣は自分のその希少な苗字が嫌いだった。
幼い頃からその苗字でからかわれたり、特別扱いされたりすることに辟易していたが、決定的なトラウマがある。
それは中学時代、片思いの男子にお弁当を食べているところを見られ、言われた一言だった。
「お?ハクマイ(博真衣)が白米食ってるじゃん(笑)」
それは、相手の男子も真衣が好きだったがゆえの、悪意のない照れ隠しの言葉だったかもしれない。だが、真衣にとって、「特別すぎる苗字の自分」と「最も普通な食べ物(白米)」が衝突したその瞬間、彼女は「特別」を忌み嫌うようになった。
それ以来、彼女のお弁当は、ふりかけご飯や味付けのりばかりになった。
彼女にとって「鈴木」という平凡な苗字と、「普通」の安定した生活こそが、何よりも尊いものとなったのだ。
真衣の安定への強い願望は、健太の「特別を求める心」を無意識に抑えつけた。
彼女の言葉は、まるで悪気のない**「優しい毒」**のように健太のプライドを静かに侵食した。
その「優しい毒」は、休日の家族の準備の瞬間にも、細部にまで及んでいた。
健太はいつもの色落ちしたリーバイス501に白Tシャツという、何十年も変わらない**「無頓着な定番」で十分だった。
財布を持たない健太は、決済もポケットから出したスマートフォンで済ませる。
彼の関心は、常に「外見の普通」ではなく、「内面の特別」**という聖域にあった。
一方、真衣はユニクロの綺麗なリネンシャツにZARAのチノパンという、「誰からも好感を持たれる普通」を極めた服装だ。
だが、そのユニクロのポケットから取り出したのは、シックな外側に鮮やかな色が覗くエッティンガーの財布だった。
**真衣は、外側を普通に擬態しながら、その内側に、かつてのロケット3への情熱とプライドを秘めていた。
健太は、その財布を見るたびに、真衣の「特別は内側に隠すもの」という、潔い価値観と、彼自身の「特別への執着」**との間に横たわる、埋めがたい溝を感じ、胸がチクリとする。
駐車場に停めたN-VAN eの前に立つと、4歳の理愛夢は、真衣に**「ママー、だっこ!だっこでちゅーしゅーと乗るのー」**と甘え、抱っこをせがむ。真衣は嬉しそうに理愛夢を抱き上げ、ジュニアシートに乗せ、しっかりとハーネスを締める。
そこには何の「特別」もなく、ただ「安心」だけがあった。
その横で、小学1年生の依真は、少し背伸びした表情で言う。
「ホント理愛夢は甘えん坊なんだから。もう小学生になったら、自分で乗るんだよ」
依真は口ではそう言うが、その視線は、抱っこされている理愛夢と、嬉しそうな真衣の間を行ったり来たりしている。
彼女は、クラスの**「アンパンマンはもう卒業」という普通への同調圧力を意識しながらも、「本当は自分もまだ甘えたい」**という、ばいきんまんへの愛と同じ、密かな特別を心の中で求めていた。
健太は、そんな家族の光景を見ながら、いつものように運転席に乗り込んだ。
真衣の安定への献身は、あまりにも優しく、あまりにも揺るぎない。
その光は、健太の**「特別でありたい」**という影を、容赦なく押し潰すのだった。
N-VAN eの心地よいモーター音と共に、車が滑り出す。
助手席には、「もう小学生だから!」と背伸びしたがる長女・依真が座り、後部座席の左側には、真衣が長男・理愛夢をジュニアシートに乗せ、身体を寄せている。
車内で真衣が、タブレットからビートルズを流した。流れてきたのは**「In My Life」だ。
揺るぎない過去への回想と未来への希望を歌うその曲は、真衣が目指す「家族という普遍的な安定」**そのものだった。
数曲が過ぎた頃、真衣がふと指を動かした。流れていた曲が唐突に変わり、健太の耳に**「Help! I need somebody...」**という切実な叫びが飛び込んできた。
助手席の依真が**「パパ、この曲、前も聴いた!」と無邪気に声を上げる。健太は心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受け、ナビ画面を見た。
曲は、ビートルズ『Help!』
後部座席の真衣は、理愛夢の髪を撫でながら、ルームミラー越しに運転席の健太の横顔を覗き込んだ。
その視線は優しく、だが、健太には「すべて見透かされている」ような錯覚を覚えさせた。
その声は、悪意のかけらもない、ただの素直な気づきだった。
「ねえ、健くん。この『Help!』っていう曲、結婚してから、ずっと聴いてるね?」
その瞬間、健太は全身の血が凍り付くのを感じた。
彼は、自分が**「特別」のコートを脱ぎ捨てられず、孤独なSOSを発し続けていることを、最も愛する妻に、最も無邪気で残酷な形で突きつけられた。
真衣にとっては、それは単に「健くんが好きな曲」**という認識でしかなかっただろう。
しかし、健太にとって、それは**「優しい毒」の完成**だった。
――オレのSOSは、この温かい家族の光の中では、永遠に届かない。
彼は、真衣の揺るぎない太陽の光が、自分の**「特別でありたい」という影**を、容赦なく押し潰しているのを感じた。
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