第6話 異変

「最近、乙野さんの様子が変なんです」


 連絡を寄越したのは、乙野の所属する『月刊 超常スクープ』編集部の若い編集者だった。


「乙野が変なやつなのは前からだろ」

「いやそうじゃなくて――いやそれはそうなんですけど――、乙野さん、最近身だしなみに気を遣っていないというか……その、あんまり大きい声で言えないんですけど……臭いんです」


「臭い?」


 思わず、大きな声が出た。深寺は周りに人がいないか確認し、いなかったことに胸をなでおろしながら、編集者にもう一度問い返した。


「どういうことなんだ?」


「はい、その……乙野さんから、異臭がするんです。汗臭いというか、たぶんお風呂にも入っていないと思うんです。髪もべたついているし、埃とかもついてて……」


 二週間前に乙野が言っていたことと合わせると、異常なことに思えた。そもそも、特別綺麗好きというわけではない乙野でなくても、この夏の時期に、風呂に長い間入らないのはおかしいと思われても仕方がない。


「でも、風呂に入らないくらいは――臭いのは困りものだが――まだ、イカレている範疇には入らないんじゃないか?」


「それが、違うんですよ」


「ほう?」


「ドブを頭から被ったみたいな、ごみ置き場で寝てたみたいな臭いがするんです。口臭も、なんか生臭いというか、どぶ臭いというか……」


「そんなに臭いのか」


「はい……。深寺さんからも、乙野さんになにか言ってくれませんか。僕からじゃ言いにくくて……」


「俺でも言いにくいよ。お前臭いぞなんて、後輩とはいえ女性相手に」


「そうですよね……」


 編集者との通話はそれで終わった。たしかに臭いの指摘をするのはためらわれたが、心配ではあった。

 乙野が例の家に住んでもうすぐ半月になる。仮に山岸家の猫憑きがあの家に住んだことで起きたとしたら、乙野に異常が出ていてもおかしくない。


 それに、乙野があの家で異変を体験していないか、興味もあった。


 深寺は乙野に電話をかけてみた。


「どうしました? 蛇羅先輩」

「おう、その家でなにか起きてないか、気になってな」

「ああー、それっすね、そろそろ報告しようと思っていたんですよ」


 電話口の声色はいつもと変わらない。むしろ、いつもよりテンションが高いようにも思える。


「場所はどうします? あの家来ます?」

「いや、せっかくだし飲みに行こう」

「りょーかいです! じゃあ、今日の十九時にいつものお店で!」


 通話はそこで終わった。

 一時間ほど経って、いつもの店――深寺と乙野が学生時代から通っていた居酒屋――に深寺の姿はあった。金曜日の十九時というのもあり、飲み屋街には飲み屋を探す男女の姿がちらほら見られる。


「あ、蛇羅せんぱーい!」


 約束の時間から十五分ほどして、乙野が現れた。取材時のパンツスタイルとは違い、涼しげなワンピースを着ている。


「おお、乙野。遅かっ――うっ」


 乙野が深寺の前に来た瞬間、深寺は一瞬の吐き気を覚えた。ゴミ捨て場に頭から突っ込んでそのまま放置したような、正直言ってかなりの臭いだった。


「先輩、どうしました?」

「いや、なんでもない……」


 乙野はきょとんとしている。どうやら自分の異常に気づいていないらしい。

 深寺は平然を装いながら、店に入った。他の客には我慢してもらおう。


「それで、怪異は起きたのか」

「ええ、それが起きたんですよぉ」


 乙野はにやにやと笑みをだだ漏らししながら語る。口許の歯の一部が赤黒く染まっているのが見えた。なにかの見間違いかと思ったが、やはり笑顔の口許に見える白い歯に、赤黒いものがこびりついている。まるで、生き物の血肉のようなものが。


「あの家、たしかに猫がいる気がしますよ。鳴き声は、聞こえないんですけどでも、小さいのがいっぱいいるような、気配っていうんでしょうか。そういうのがします」


 乙野は注文した刺身をつまみながら、酒をあおって喉に流し込んでいく。


「それで……その、異常はないのか、お前に」


「私にですかぁ? うーん、大してないと思いますけど……ああでも、最近すぐ記憶が飛ぶんですよね。昨日も、起きたら外のごみ置き場にいて、体の節々が痛いんですけど記憶がなくて……お酒飲んだわけでもないのに」


「猫憑きとかは起きてないのか」


「分かんないっす。でも、たぶん大丈夫だと思いますけど……」


 しばらく二人で食事をしたが、深寺は酒を飲む気にはなれなかった。料理にもほとんど手をつけず、ただ乙野が喋るのを異臭に耐えながら聞いていた。


「いやー、ごちそうさまでしたぁ。それじゃ、私こっちなんでー」


 乙野がふらつきながら、こちらに背を向けて歩いていく。

 深寺は若干の後ろめたさを覚えつつも、乙野の跡を尾けはじめた。


 ふらり、ふらり、と乙野はおぼつかない足取りで歩いていく。そもそも一人で帰らせるのも良くなかっただろうか、と深寺が思ったとき、乙野がばねで弾かれたように背筋をぴんと伸ばすと、その背骨が引き抜かれたかのように前かがみになり、腕をぶらぶらさせながら、のそり、のそりと歩いて行く。


 そしてとうとう、乙野の両手が地面に着いた。


 その瞬間、乙野はビルとビルの間の、人の肩幅ほどの通路に四つ足で駆け込んだ。慌ててその後を追う。


「……!」


 その光景に、思わず息を呑んだ。

 乙野が目を爛々と光らせて、通路に積まれたゴミ袋に頭を突っ込み、がさごそと動かしては、頭を上げ、また突っ込んではがさごそと動かしている。


 にゃあああお、にゃあああお


 猫の声が――猫がこの場に一匹も見当たらないのに――聞こえた。それは間違いなく、乙野の喉から出ていた。乙野は歯を剥き出しにしながら、ゴミの中に顔をうずめる。そして、急にどたばたと暴れたかと思うとうずくまり、もぞもぞと頭を揺らす。


「お、乙野……?」


 深寺は足の震えを堪えながら、声をかけた。

 乙野が振り返った。釣り上がった両目と、その口許を見た途端、深寺は一目散に走り出した。


 べったりとついていた。赤い血が。灰色の毛が。


 乙野が捕食したネズミの血の色に、彼女の口許は染まっていた。


 にゃああお、にゃああお


 細い路地から、猫の鳴き声が聞こえた気がしたが、深寺は脇目もふらずに商店街を疾走した。あの男に相談しよう。それしか手がないと、深寺の本能が告げていた。


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