第11話 恋人のイタズラ

夜が明けた。

「Sweet Dreams」の厨房。

蜜柑はオーブンの前に立っていた。

その顔は昨日までの疲労困憊ひろうこんぱいとは違う。

真っ赤に上気じょうきしていた。


(言っちゃった……)


一晩中そのことばかり考えていた。

『あなたが好きみたいです』

自分の声が脳内で再生される。

そのたびに蜜柑は頭を抱えた。


(私、何を……!)


あの時は勢いだった。

恐怖。罪悪感。そして、ルシエラの弱音。

すべてが混ざり合って蜜柑の口を滑らせた。


ルシエラは泣いていた。

仲直りのタルトを食べて笑っていた。

そして帰っていった。

『……明日も、来ていいか?』

か細い声でそう尋ねて。


蜜柑は頷いた。

『お待ちしています』と。


つまり。

今日。

ルシエラは来る。

「恋人(仮)」として。


(どんな顔して会えばいいの!)


蜜柑は自分のマシュマロボディを抱きしめた。

この体。

このコンプレックスの塊。

これをルシエラは「ご馳走」と呼んだ。

昨日は「化け物」と罵倒した。

今日は「好き」と告白した。

もう感情がめちゃくちゃだ。


(でも……)

蜜柑の胸が小さく高鳴る。

(会いたい)


あの赤い瞳。

あの甘い蜜の香り。

あの冷たい指先。

すべてが怖かった。

すべてが、今は、どうしようもなくと感じてしまう。

これが「好き」ということか。

蜜柑は二十年間生きてきて初めての感情に戸惑っていた。


(お菓子、作らなきゃ)


今日の蜜柑は迷わなかった。

ルシエラを打ち負かすためではない。

冴子先輩に対抗するためでもない。

ただ、好きな人に、美味しいものを食べてほしい。

その一心だった。


蜜柑が選んだのは【パフェ】だった。

グラスの中に、いくつもの層を重ねていくデザート。

それは、まるで、二人の関係そのものだった。


一番下には、あの「焦がしカラメル」の苦いジュレ。

昨日の、あの決定的な亀裂。

その上に、和解の「フルーツタルト」で使った苺のコンフィチュール。

酸味。

そして、あの「媚薬」の「チョコレートテリーヌ」を思わせる、濃厚なガトーショコラの層。

蜜柑の「陶酔」。

さらに、二人が初めて出会った「ショートケーキ」のスポンジ。

純粋な甘さ。

最後に、絹のような「クレーム・グラッセ」と、たっぷりの純白の生クリーム。

蜜柑の「情熱」と「マシュマロ」。


すべての層を、重ねていく。

それは、蜜柑とルシエラが積み重ねてきた、感情のだった。

苦しみも、喜びも、陶酔も、すべて。

蜜柑は、それを一つの「愛の形」として、グラスに閉じ込めた。

仕上げに、大きなハート型のチュイール(薄焼きクッキー)を飾る。


(……ちょっと、やりすぎたかも)

蜜柑は自分の作ったパフエを見て、顔を赤らめた。

あまりにも、自分の感情が、ダダ漏れだ。

だが、もう作り直す時間はない。

これが、今の蜜柑の、正直な「答え」だった。


***


午後七時。

カラン、コロン。

ドアベルの音が、蜜柑の心臓を直接揺らした。


来た。


蜜柑は、カウンターから顔を上げられない。

(どうしよう、どうしよう……!)


「……みかん」

か細い声が、蜜柑を呼んだ。

いつもの、傲慢ごうがんな「ルシエラ様」ではない。

戸惑いを含んだ、ルシエラの声。


蜜柑は、意を決して顔を上げた。

そこに立っていたルシエラは。

いつもの黒いレースのドレス。

だが、その表情は、蜜柑が今まで見たことのないものだった。

赤い瞳が、蜜柑の顔色を窺うように、泳いでいる。

頬が、心なしか、赤い。


(……かわいい)


蜜柑は、思わず、そう思ってしまった。

あの威圧的なサキュバスが、今、自分を前にして

その事実に、蜜柑の心は、歓喜に打ち震えた。

(私、勝った……!)

パティシエとしてではない。

一人の、女の子として。


「い、いらっしゃいませ。ルシエラ、さん」

蜜柑も、声が裏返った。


「あ……ああ。来たぞ」

ルシエラは、ぎこちなく頷き、いつもの席に座った。

二人の間に、甘く、気まずい沈黙が流れる。


「あ、あの! 今日のお菓子です!」

蜜柑は、沈黙に耐えきれず、厨房から、あの特大のパフェを運んできた。

ドン、とルシエラの前に置く。


「……これは」

ルシエラは、目の前に置かれた「感情の地層」を見て、目を見開いた。

ハート型のクッキー。

色とりどりの層。

それは、明らかに、今までとは違う「何か」を、雄弁に物語っていた。


「『二人のパフェ』です」

蜜柑は、思い切って言った。

「私と、あなたの、今までの全部、です」


ルシエラは、蜜柑の顔と、パフェを、交互に見た。

そして、その赤い瞳が、熱っぽく潤んだ。

「……蜜柑。君は、本当に……」

彼女は、長いスプーンを手に取った。

まず、一番上のクリームとアイスを、一口。


「……甘い」

いつもの、恍惚こうこつとした表情。

だが、今日は、その奥に「愛おしさ」が滲んでいる。

「蜜柑の味がする」


ルシエラは、食べ進めた。

スポンジの層。

チョコの層。

苺の層。

一口、一口、味わうごとに、二人の記憶が蘇るようだった。


「……これは、あの媚薬の味」

「……これは、初めての……」


そして、ルシエラのスプーンは、一番下の「焦がしカラメル」のジュレに到達した。

昨夜の、あの「苦味」。


「……!」

ルシエラは、その苦味を口に含み、ハッと蜜柑を見た。

蜜柑は、静かに、ルシエラを見つめ返していた。


「……これも、食べた」

ルシエラは、苦いジュレを、ゆっくりと飲み下した。

「……美味しい。苦いのに、とても甘く感じる」


「よかった」

蜜柑は、心から微笑んだ。

二人の「過去」が今、このパフェによって、完全に「美味しい記憶」として受け入れられた瞬間だった。


ルシエラはパフェを最後の一滴まで綺麗に平らげた。

そして、スプーンを置いた。


「……蜜柑」

「はい」


「……昨日は」

ルシエラは、気まずそうに、切り出した。

「……すまなかった。その、牙、を……」


「!」

蜜柑の肩が、ビクリと震えた。

あの、牙の感触。

だが、もう、恐怖はなかった。


「……はい。怖かったです」

蜜柑は、正直に言った。

「あれが、ルシエラさんの『イタズラ』なんですか? 私が、お菓子を失敗したら、これからは、ああやって……」


「違う!」

ルシエラは、慌てて、身を乗り出した。

「断じて、違う! あれは……あれは、私が、嫉妬に狂って……! 本能が、その……!」

ルシエラは、必死に弁解した。

サキュバスが、必死に。

その姿が、蜜柑には、たまらなく愛おしかった。


「もう、二度としない」

ルシエラは、蜜柑の手を、カウンター越しに握った。

冷たい指先。だが、今は、心地良い。

「君が嫌がることは、絶対にしないと、誓う」


「……ありがとうございます」

蜜柑は、握られた手に、力を込めた。


「だが……」

ルシエラは、蜜柑の瞳を、熱っぽく見つめた。

「『イタズラ』は、したい」

「え……」


「牙も、爪も、使わない。君を、怖がらせるものではない」

ルシエラの赤い瞳が、潤む。

「君が、喜ぶ……。君が、私を、受け入れてくれる……。そんな『イタズラ』が、したい」

彼女は、蜜柑の手の甲に、自分の頬をすり寄せた。

「……君は? 蜜柑は、私に、どんな『イタズラ』を、してほしい?」


(……!)

蜜柑の心臓が、跳ね上がった。

これは、質問だ。

これは、同意を求める、サキュバスの「契約」だ。

昨日までの、一方的な「命令」や「脅迫」ではない。

対等な、恋人としての、問いかけ。


(私が、してほしい、イタズラ……)


蜜柑は、ルシエラの顔を見つめた。

赤い瞳。

薄く開かれた、あのチョコレートの味がした唇。


(……この人、本当に私のこと好きなんだ)


蜜柑の迷いは、消えた。

あるのは羞恥と、それ以上に、溢れ出すような「独占欲」。

この美しいサキュバスを、自分だけのものにしたい。


「……ルシエラさん」

「……ああ」


「どんな『イタズラ』がいいか、ですか?」

蜜柑は、ゆっくりと、カウンターから出た。

そして、ルシエラの座る席の、すぐ隣に立った。


ルシエラは、驚いて、蜜柑を見上げた。

いつもは、自分が見下ろす立場だった。

今、蜜柑が、ルシエラを、見下ろしている。


「私、は……」

蜜柑は、深呼吸した。

顔が、燃えるように熱い。

マシュマロボディが、歓喜に震えている。


「……お菓子だけじゃ、もう満足できません」

「……みか、ん?」


「だから」

蜜柑は、ルシエラの椅子の肘掛けに両手をついた。

ルシエラを、閉じ込める。

あの日、ルシエラが自分にしたように。


「私が、欲しいのは……」

蜜柑は、ゆっくりと顔を近づけた。

ルシエラの赤い瞳が、驚きと期待と、そして初めて見せるによって揺れている。


「……あなた、が、いい」


そう言って、蜜柑は、ルシエラの唇に、自分の唇を、重ねた。


「―――っ!」


今度は、ルシエラが、息を呑む番だった。

蜜柑からの、キス。

あの「媚薬」の夜とは、まったく違う。

チョコレートの味はしない。

蜜柑自身の、甘い、甘い、味がした。


柔らかい。

温かい。

蜜柑のマシュマロボディのように、ふかふかとした、優しいキス。


ルシエラは、硬直した。

サキュバスとして、何百年も生きてきた。

人間を誘惑し陶酔させ、その情熱を「味わう」側だった。

こんな風に。

人間から、真正面から、純粋な「好意」だけでキスをされたのは。

生まれて初めての経験だった。


(あ……あつい)


ルシエラの、冷たいはずの体が、カッと熱くなる。

魔力が、暴走する。

だがそれは、昨日のような破壊的なものではない。

蜜柑の「愛」という名の温かいエネルギーが、ルシエラの全身を満たしていく。

もう、お菓子の糖分など必要ない。

この蜜柑の「愛」さえあれば、自分は永遠に生きていける。


蜜柑が、ゆっくりと唇を離した。

二人の間には、あの夜と同じ、銀色の糸が引かれている。


「……どう、ですか?」

蜜柑は、真っ赤な顔でルシエラを見下ろし、意地悪く笑った。

「これが、私の、してほしかった『イタズラ』です」


ルシエラは、何も、言えなかった。

ただ、真っ赤な顔で、蜜柑を見上げている。

赤い瞳は、涙で、潤んでいた。

あの、傲岸不遜ごうがんふそんな、氷室冴子さえも黙らせた「サキュバス」の姿は、そこにはない。

ただ、好きな女の子にキスをされて、どうしていいか分からない、一人の「恋する乙女」が、そこにいただけだった。


「あ……あ……」

ルシエラは、何か言おうとして、口をパクパクさせた。

そして、勢いよく、立ち上がった。


「だ、代金!」

「え?」


「代金だ! 今日の、パフェの!」

ルシエラは、慌てて、自分のハンドバッグを探った。

だが、手が、震えている。


「あ、あの、ルシエラさん……?」


「うるさい! ……これだ!」

ルシエラは、札束を、カウンターに叩きつけた。

いつもより明らかに、ゼロが多い。


「え、え、多すぎます!」


「いいから! お釣りは、いらん!」

ルシEラは、蜜柑の顔を、もう、まともに見られない。

彼女は、猛ダッシュで、店の出口に向かった。


「ま、待ってください!」


「明日だ!」

ルシエラは、ドアに手をかけ、振り返らずに、叫んだ。

「明日も、来るからな! ……もっと、甘いやつを、用意しておけ!」


カラン、コロン、ガシャン!

最後のは、ルシエラが、慌てすぎて、ドアに体をぶつけた音だった。


「…………」

一人、店に残された蜜柑は、しばらく、呆然としていた。

そして。


「……ふ。あはははは!」

蜜柑は、その場に、しゃがみ込んだ。

嬉しさと、愛おしさが、込み上げてくる。

「……照れてる。ルシエラさん、照れてた……!」


あの、キスをされた後の、ルシエラの顔。

真っ赤になって、潤んだ、赤い瞳。

(……反則、だよ)


蜜柑は、カウンターに叩きつけられた、尋常じゃない額の札束を見て、また笑った。

「……明日、か」

蜜柑は、自分の唇に、そっと触れた。

まだ、ルシエラの、あの甘い蜜の香りが、残っている気がした。


二人の、甘い甘い「恋人」としての関係が今、確かに始まった。


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