年中ハロウィン「お菓子をくれなきゃイタズラするぞ」甘党サキュバス×天才パティシエ。年中無休のスイーツ百合

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第1話 毎日がハロウィン

夜の街が、十一月の冷たい空気に吐息を白く染め始める頃。

大通りから一本入った裏路地で、パティスリー「Sweet Dreams」は、その日の営業を終えようとしていた。


カチリ、と壁のスイッチを押す。店内の暖かな照明が半分落ち、ショーケースの柔らかな光だけが、残された宝石たちを照らし出す。

店主である佐倉蜜柑さくら みかんは、「ふう」と、砂糖菓子のように甘い溜息を吐いた。


「今日も、よく働きました」


誰に言うでもなく呟き、白いコックコートの前を解く。

ふわり、と焼き菓子の香ばしさと、バニラの甘ったるい芳香が、彼女自身の体から立ち昇った。


蜜柑は、若干二十歳にしてこの店を開いた。

専門学校時代から「天才」と呼ばれた彼女の腕は確かで、味にうるさい近所のマダムたちを唸らせ、今ではすっかり街の人気店だ。

だが、彼女には悩みがあった。


(……また、腰回り、大きくなったかも)


コックコートの下の、淡いピンク色のエプロンを外し、鏡に映った自分を見る。

健康的な丸みを帯びた頬。同年代の女性より、明らかにふくよかな腕。そして、客観的に見ても「柔らかそう」と形容されるであろう、豊かな胸と腰回り。


――マシュマロボディ。


聞こえはいいが、要はぽっちゃりだ。

パティシエという職業柄、味見は必須。新作の開発ともなれば、一日にホールケーキ半分近くの糖分と脂質を摂取することもある。

運動しようにも、早朝からの仕込みと立ち仕事で、夜にはもうクタクタだ。


「この体が、美味しいケーキを作る源なんだから。仕方ない、仕方ないよね……」


そう自分に言い聞かせ、ぷに、と自身の頬をつまんでみる。抵抗なく沈む指は、まるで発酵を終えたパン生地のようだ。

自虐的な笑みがこぼれた、その時だった。


カラン、コロン。


閉店時間をとうに過ぎたドアベルが、澄んだ音を立てた。


「え?」


驚いて顔を上げる。時刻は午後八時半。営業時間は午後七時まで。

「CLOSE」の札も下げてある。業者か、あるいは道に迷った人だろうか。

蜜柑は慌ててカウンターから顔を出し、入り口に向かって声をかけた。


「申し訳ありません、本日の営業はもう……」


言葉は、途中で霧散した。

そこに立っていたのは、人間とは思えないほどの美貌を持つ、一人の女性だった。


夜の闇をそのまま切り取って仕立てたような、黒いレースのドレス。艶やかな黒髪には、ところどころ鮮やかな紫紺しこんのメッシュが混じり、まるで銀河を閉じ込めたかのようだ。

そして、何よりも蜜柑の目を奪ったのは、その瞳。

深い、深い、血のような赤色あかいろ


(コスプレ……?でも、あのつの……)


女性の滑らかな額からは、艶めかしい曲線を描く二本の小さな角が生えていた。精巧なアクセサリーのようにも見えるが、あまりにも肌に馴染んでいる。

非現実的なその姿に、蜜柑は一瞬、思考を停止させた。


女性は、蜜柑の困惑など意にも介さず、ゆっくりと店内を見渡した。

そして、その赤い瞳が、ショーケースの光に吸い寄せられる。


――ゴクリ。


蜜柑の耳に、静かな店内でやけに大きく、彼女が唾を飲む音が届いた。


女性の視線は、もはや蜜柑には向いていなかった。

ショーケースの中に残った、数少ないケーキたちへ。

それは、美味しいものを前にした「期待」というより、もっと切実な、餓えた獣が獲物を見つけたかのようなの眼差しだった。


(こわい……)


蜜柑は本能的にそう感じた。

美しい顔立ちとは裏腹に、その瞳の奥には、底知れないほどの「飢え」が渦巻いている。

まるで、何日も、何年も、甘いものにありつけなかったかのような。


「……いらっしゃいませ。申し訳ありませんが、もう閉店でして……」


震える声を何とか絞り出し、蜜柑は営業終了を告げた。

女性は、ゆっくりと蜜柑に視線を戻す。その赤い瞳が、蜜柑の姿を上から下まで、まるでするように舐め回した。


「……まだ、あるじゃないか」


低く、甘く、それでいて有無を言わせぬ声が響く。

女性はショーケースを指差した。


「あれを、くれ」


彼女が指差したのは、蜜柑が今日、特に丹精込めて作り上げた「紅い雫のショートケーキ」。

ショーケースに残った、最後の一切れだった。


「あ……はい。イートイン、されますか?」


その気迫に押され、蜜柑は無意識に頷いていた。

女性はこくりと頷き、窓際の一番奥のテーブル席に、音もなく腰を下ろした。


(な、なんなの、あの人……)


蜜柑は混乱しながらも、パティシエとしての矜持きょうじで、完璧なオペレーションを遂行する。

ショーケースから、最後の一切れを取り出す。


純白の生クリーム。北海道産の最高級品を二種類ブレンドし、空気の含ませ方、温度、すべてにこだわった、口に入れた瞬間に消える絹のようなクリームだ。

スポンジには、高価な和三盆わさんぼんを使い、卵の風味を最大限に引き出した。しっとり、かつ、ふわりとした食感。

そして、主役のいちご。契約農家から今朝届いたばかりの「紅い雫」。その名の通り、滴るような果汁と、鮮烈な酸味、そして芳醇な香りを併せ持つ、奇跡の苺。


これは、蜜柑の技術の粋を集めた、彼女の店の看板商品。

【純粋な甘さ】の象徴だ。


(こんな時間に食べるなんて、胃にもたれなきゃいいけど……)


皿に盛り付け、銀のフォークを添え、女性の元へ運ぶ。

近くで見ると、その美しさはさらに際立った。陶器のように白い肌。長い睫毛が、赤い瞳に影を落としている。

彼女の体からは、バターやバニラとは違う、どこか妖艶で甘ったるい、花のような、あるいは蜜のような香りが漂っていた。


「お待たせいたしました。紅い雫のショートケーキでございます」


女性は、返事もしなかった。

ただ、目の前に置かれたショートケーキを、熱に浮かされたような瞳で見つめている。

蜜柑は居心地の悪さを感じ、そそくさとカウンターに戻った。


厨房の影から、こっそりと様子を窺う。

(ちゃんと、食べてくれるかな……)


女性は、銀のフォークをゆっくりと手に取った。

その所作一つひとつが、まるで計算され尽くした舞台演劇のように優雅だ。

そして。

フォークが、純白のクリームとスポンジ、そして真っ赤な苺を、一度に切り分けた。


一口。

それが彼女の口に運ばれた瞬間。


ピタリ、と女性の動きが止まった。

見開かれた赤い瞳が、驚愕に揺れている。


(え!? お、お口に合いませんでしたか!?)


蜜柑の心臓が跳ね上がった。

天才と呼ばれ、味には絶対の自信があった。しかし、この世のものとは思えない美しさを持つ彼女の舌には、蜜柑のケーキなど通用しなかったのだろうか。


蜜柑が慌てて声をかけようとした、その時。


「…………ぁ」


女性の唇から、吐息とも呼べないような、か細い声が漏れた。

そして、その赤い瞳から、一筋。

涙がこぼれ落ちた。


「え、ええええええ!?」


蜜柑は思わず叫び、カウンターから飛び出した。

客が、自分のケーキを食べて、泣いている。

それはパティシエにとって、最悪の事態か、あるいは最高の事態か。


「お、お客様!? だ、大丈夫ですか!? お口に、その……」


蜜柑がテーブルに駆け寄ると、女性はゆっくりと顔を上げた。

涙で濡れた赤い瞳が、蜜柑を捉える。


「……美味しい」


かき消えそうな声で、彼女は呟いた。


「え?」


「美味しい。……違う。こんなものは、初めてだ」

女性――ルシエラは、もう一口、ショートケーキを口に運んだ。

その表情は、恍惚こうこつとしており、頬は微かに上気している。


「あ、ありがとうございます……? でも、泣くほどでは……」

蜜柑は戸惑いながら、エプロンの裾を握りしめた。


「泣くほどだ」

ルシエラは、きっぱりと言った。

彼女は蜜柑を真っ直ぐに見つめる。その赤い瞳は、先ほどの飢えた光とは違う、熱を帯びた光を宿していた。


「これは、ただの砂糖の甘さじゃない。ただの脂肪の味でもない」

ルシエラの指が、皿の縁をそっとなぞる。

「スポンジに染みたシロップの加減。クリームの立て方。苺の酸味との完璧な調和。……これは、君のそのものだ。甘くて、熱くて、私の魂がとろける」


「……!」


蜜柑は息を呑んだ。

そこまで的確に、そして情熱的に、自分のケーキを評価されたのは初めてだった。

両親も、専門学校の教師も、常連客も、誰もが「美味しい」とは言ってくれた。

だが、この女性のように、ケーキに込められたまで見透かした者はいなかった。


(この人、いったい、何者……?)


恐怖よりも先に、パティシエとしての歓喜が、蜜柑の胸を満たしていく。


「ありがとうございます……! そう言っていただけると、作った甲斐があります!」

蜜柑の表情が、ぱあっと明るくなる。


ルシエラは、その蜜柑の笑顔を見て、ふっと目を細めた。

そして、最後の一口を名残惜しそうに食べ終えると、ゆっくりと立ち上がった。


「ごちそうさま。素晴らしい夜になった」

彼女は蜜柑に近づき、カウンター越しに、その妖艶な顔をぐいと寄せた。

甘い蜜の香りが、蜜柑の鼻腔をくすぐる。


「私はね、毎日がハロウィンなんだ」


「え……? あの、ハロウィン、ですか?」

唐突な言葉に、蜜柑は目を瞬かせた。ハロウィンは先月終わったはずだ。


「そう」

ルシエラは、くすくすと喉を鳴らして笑う。

。知ってるだろ?」


「あ、はは……。トリック・オア・トリート、ですよね」

蜜柑は曖昧に笑った。

(やっぱり、コスプレ趣味の人なのかな。角も、その一環で……)

だが、ルシエラの赤い瞳は、冗談を言っているようには見えなかった。

闇の中で燃える二つの熾火おきびのように、真剣な光を放っている。


「イタズラって……お菓子なら、今、召し上がりましたけど……」

蜜柑が恐る恐る尋ねると、ルシエラは「ああ」と頷いた。


「うん。今日は、最高のお菓子をもらった。だから、イタズラはしない」


「は、はぁ……」


「だが、問題はだ」


ルシエラの言葉に、蜜柑の背筋が凍った。

「あ、明日……?」


「そう、明日だ。明日も、私はここに来る。その時、お菓子がなかったら?」

ルシエラは、楽しそうに目を細めた。


「冗談……ですよね?」

蜜柑の声が震える。


「冗談? イタズラされたいのかい?」

ルシエラの手が、カウンターを越えて伸びてきた。

白い、陶器のような指先が、蜜柑のふくよかな頬に触れようとする。


「ひゃっ!?」

蜜柑は悲鳴を上げ、反射的に身を引いた。

指は触れなかった。だが、指先から放たれる冷たい空気が、蜜柑の肌を撫でた気がした。


「ふふ。いい反応だ」

ルシエラは満足そうに微笑む。

「お菓子がないなら、私は君をしかない」


「た、た、食べるって……!?」

蜜柑の顔から血の気が引いた。

(食べる? 私を? どういう意味? まさか、カニバリズム!?)

恐怖が、先ほどの歓喜を急速に塗り替えていく。


「け、警察呼びますよ! 本当に!」

蜜柑は、震える手でカウンターの下の非常ボタンを探った。


「ふふ、呼んでもいいよ。でも、無駄だ」

ルシエラは悪びれもせず、ハンドバッグから財布を取り出した。

「それより、私はこの店が、そして君がお菓子が、いたく気に入った」


彼女は、数枚の紙幣をカウンターに置いた。ケーキ代には多すぎる金額だ。

「明日も来る。明後日も。毎日だ」


「ま、毎日!?」

蜜柑は悲鳴を上げた。こんな恐ろしい客に毎日来られたら、身が持たない。


「そう。だから、契約だ」

ルシエラの赤い瞳が、蜜柑を射抜く。

「私を満足させる、最高のお菓子を毎日用意しろ。今日のものより、もっと甘く、もっと情熱的なものを」


「そ、そんな無茶な……!」


「それが、君と私のだ」

ルシエラは一方的に宣言した。

「もしできなかったら……」

彼女は、蜜柑のマシュマロボディを、もう一度じろりと見た。

「わかるね? 君は、とっても……」


――美味おいしそうだ。


その言葉は音にならなかった。

だが、蜜柑の耳には、はっきりとそう聞こえた。


ルシエラは妖艶に微笑むと、背を向けた。

カラン、コロン。

ドアベルの音と共に、彼女は夜の闇に溶けるように消えていった。


「…………」


蜜柑は、その場に立ち尽くした。

シン、と静まり返った店内に、甘いバターの香りだけが漂っている。

だが、蜜柑の鼻腔には、先ほどのルシエラの、妖しい蜜の残り香がこびりついて離れなかった。

思わず自分の腕で自分を抱く。ぞぞぞっという感覚が湧き上がる。


(なんなの……なんなのよ、あの人……!)


カウンターの上に置かれた紙幣を見る。それは紛れもない、現実の日本の紙幣だった。

夢ではない。


(食べる……)


あの言葉は、比喩ではない。

あの飢えた瞳は、本物だった。


(明日も、来る……?)


蜜柑は、自分の頬にそっと触れた。

先ほどルシエラの指が触れそうになった場所が、まだひりひりと冷たい気がした。


(お、お菓子を、用意しないと……)


パティシエとしての誇り。

そして、食べられるかもしれないという、原始的な恐怖。


(本当に……私、食べられちゃうの!?)


蜜柑の平穏だった日常は、今夜、けたたましいドアベルの音と共に、終わりを告げた。

明日、彼女は「Sweet Dreams」のドアを開けるのだろうか。

そして、もし開けたとして、あの恐ろしくも美しい客を満足させるお菓子を用意できなかったら……?


答えは、夜の闇の中だった。


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