第4話  剣聖の姉 vs 狂律の弟


朝が来たはずなのに、空は赤かった。

 黎明というにはあまりにも濃く、鮮血のような赤。

 雲一つない天に、まるで誰かが神の筆を奪って描き直したような、歪んだ朝焼けが広がっていた。


 風が吹いている。

 だがその風は、夜明けの冷たさではなく、世界の皮膚が“新たに生まれ変わるときの疼き”を孕んでいる。

 瓦礫に積もった灰が舞い上がり、光に焼かれて金色に染まる。

 崩れ落ちた廃教会の鐘楼の影が長く伸び、空を裂くようにして朝と夜の境界を示していた。


 ――世界が再び、神ではなく“創造主”ルネの息に震えていた。


 空気が息をしている。

 まるでこの廃墟そのものが、俺の呼吸に合わせて鼓動しているようだった。

 光と闇が混じり、音と沈黙が交錯し、すべての理が一瞬、曖昧に溶け合う。

 その中心に立つのは、俺だ。

 ――ルネ=アルヴァード。

 かつて神の間違いとして捨てられ、今は“神の代わりに”世界を創り直す者。


 足元には崩れた石片。

 その上に立つ二つの影――俺の“創造”たち。


 一人は白銀の姉、セラフィナ=アルヴァード。

 朝日に照らされたその髪は、まるで世界の希望を映すように輝いている。

 その瞳は深い紅でありながら、冷静な理性の光を宿していた。

 彼女が立つだけで、空気が安定する。

 その存在が世界を均す秩序そのものだからだ。

 静謐な風が彼女の裾を撫で、聖歌のような気配が周囲を包み込む。

 光と秩序の象徴。

 ――ルネの“理性の守護者”。


 対して、彼女の正面には紅黒の弟が立つ。

 ヴァルツ=アルヴァード。

 血と闇を混ぜ合わせたような髪が、朝の赤光を受けてさらに深い黒紅に染まっている。

 瞳は細く、笑っている。

 それは喜びでも憎しみでもない。

 ただ、世界を“玩具”として愉しむ者の眼差し。

 彼の周囲の空気は歪み、瓦礫がゆらりと浮かび上がる。

 呼吸のたびに熱が生まれ、冷たさが死に、秩序が壊れる。

 その足元からは、黒い波紋が地を這うように広がっていった。

 狂気と破壊の申し子。

 ――ルネの“負の感情の具現”。


 光と闇、理性と狂気。

 二人の視線が、廃教会の中心で交錯する。

 その瞬間、世界がわずかに軋んだ。

 まるで“この二つの存在が同時に存在すること”が、世界にとって矛盾であるかのように。


 だが、それを繋ぐのは、ただ一人。


 その中心に立つ俺――ルネ=アルヴァード。


 世界の均衡を破り、神の定義を塗り替える者。

 創造と破壊、その両極を抱き、愛し、恐れ、操る存在。

 俺の内に流れるのは、人間としての感情と、神を超えた理の二つの血。

 そして今、その狭間で、二つの“命”が俺を見ていた。


 セラフィナの瞳には安堵があり、忠誠があり、そして一滴の不安が滲んでいた。

 ヴァルツの唇には笑みがあり、悪意があり、そして――確かな敬愛が宿っていた。


 互いが互いを否定しながら、同時に俺という存在を軸として、絶妙な均衡を保っている。

 まるで“創造主”としての俺こそが、この不安定な世界を辛うじて支える支点であるかのように。


 赤い空がさらに濃くなる。

 太陽は昇るたびに血のような色を増し、世界の再誕を祝福しているようにも、拒絶しているようにも見えた。

 空の端で光と影がぶつかり、薄い靄が天を裂く。

 それはまるで、“新しい世界の胎動”――ルネという名の神が書き換える、創世の序章だった。



「姉上。いや、光の玩具って呼んだほうがいい?」

小さな声――ではない。ヴァルツの声は廃教会の空間を滑り、残る血の匂いを撫で回すように響いた。

紅黒の瞳が愉悦に揺れ、唇の端がわずかに上がる。その笑みには本気の悪戯と、深い享楽が混じっていた。


瓦礫の間を舞う埃が、彼の皮膚に触れて白く煙ったように光る。

彼が吐く一言一言が、まだ消えぬ“狂気の残響”をかき鳴らしているようだった。


「兄上、見てくださいよ。世界がまた一つ“壊れる”音です。」


言葉が落ちるたび、空気が揺れる。

瓦礫の隙間に零れた血の粒が震え、遠くの鐘楼の影が微かに振幅する。

それはまるで世界が新しい旋律に応えているかのような、不可思議な共鳴だった。


「……その口を閉じろ。」


その刹那、刃の気配が空気を切った。

セラフィナの動作は全く無駄がなかった。長身が一瞬で伸び、白銀の髪が風を受けて流れる。

彼女の手に在るのは――黎明剣ルクス=アステリア。鞘を離れたその刃は、まだ炎も血も纏っていないのに、周囲の色を引き締める力を持っていた。


剣身からは澄んだ光が流れ、床に落ちた血を一筋の道に変えた。

光が爪痕のように空を貫き、血色の朝焼けと対峙する一本の白い線となる。

その光景だけで、廃教会の空気が一瞬凛と引き締まった。


「私はルネを守る者。あなたの狂気は、彼を蝕むだけだ!」


言葉に含まれた静かな怒り。

セラフィナの声は剣と同じだけの重さを持っていた――守護者としての確信が、その声を震わせる。

彼女はルネの側に立ち続けるという意思を、全身で示している。


ヴァルツは少し首を傾げ、まるで妹の告げる宣言を可愛い子供の戯言のように扱う。

だがその瞳の奥には、鋭い観察者の光が瞬いている。彼は決して無邪気に無知を装っているわけではない。すべてを見通し、すべてを選んでいる。


「守る? 違うよ、姉上。」

ヴァルツの笑いは、刀剣の冷たい鋭さと同じくらい鮮烈だった。彼は踵を軽く返して、舞うように一歩を踏み出す。


「俺は兄上を“笑わせる”んだ。世界が苦しむ音を、音楽に変えて。

――ねぇ兄上、俺、上手いでしょ?」


その問いは挑発であり、招待でもある。

「笑わせる」という言葉は、ルネにしか向けられない特別な響きを帯びていた。憎悪でも嫌悪でもなく、従属でも崇拝でもない――もっと原始的で危うい感情だ。

ルネにだけ牙を向けないという約束。そこに、ヴァルツの歪んだ敬愛がある。


セラフィナは剣先を低く構え、刃の先に朝の光を映した。

その目は冷たく、けれど悲しげでもある。守るべき対象を思う時に出る、女としての柔らかさが一瞬だけ縁取られた。


「笑わせるだって? 馬鹿げているわ。人の痛みを弄ぶことを“芸術”と呼ぶのか。」

セラフィナの声は震えなかった。言葉の裏にあるのは断固たる拒絶。だが、その拒絶の影に、ほんの僅かな諦観が垣間見える。ルネが創ったものは、もうルネだけの手に収まらない。彼女はその重さを知っているのだ。


瓦礫の間で、空気が再びざわめく。

二人の間に流れるものは単なる敵対ではない。原初的な力の対峙であり、また兄弟を巡る保護と挑発の役割分担だ。セラフィナの白い光とヴァルツの紅黒の闇は、互いに反発しつつもルネという中心を取り囲む双極磁場のように作用している。


ルネは二人の間に立ち、言葉を探す。胸の内には、期待と恐れと、分離しがたい責任が渦巻いている。

彼の創造したものたちは、もう単なる“具現化”ではない。意思を持ち、世界に問いを投げ、ルネ自身の価値観を試す存在へと成長している。


ヴァルツは少し身を低くして、まるで踊る前の余韻のようにゆっくりと手を伸ばした。指先が空気を引っ掴むように動き、その先で黒い花びらが一枚、ふわりと舞う。


「さぁ、姉上。さっきみたいに真面目に怒るのは止めてよ。

 もっと笑って、兄上の顔を見せてよ。俺はそれだけを、楽しみにしてるんだから。」


その言葉は甘い毒だ。

セラフィナの唇がかすかに結ばれ、剣の先がわずかに震える。怒りはある。だが彼女の中には確かな躊躇がある。躊躇は守る者の弱さかもしれないし、深い愛ゆえの慎重さかもしれない。


廃教会の赤い朝は次第に濃く、世界の境界が薄くなっていくように感じられた。

ここでの一振り、ここでの一言が、どれほど遠くへ影響を及ぼすか――その重みが全員にのしかかる。


そして、空気が張りつめる。

剣先の光と黒い影の呼吸が同期し、時間が数拍だけ遅れる。

戦いは今、始まろうとしている――だがそれは単なる斬り合いではない。理念と創造のぶつかり合い。兄のために守る者と、兄を笑わせるために壊す者の、愛と狂気の衝突だ。


ルネは僅かに顎を引き、二人を見渡した。その視線の深さは、かつてどこにも与えられなかった“重さ”を宿している。

彼の内側で、小さく何かが決まる。――これはただの序章に過ぎない。世界を塗り替える旋律は、今まさに鳴り始めたのだ。


俺は深く息を吐いた。

 廃教会の中に、残酷なほど静かな風が通り抜ける。

 その風の中で、ヴァルツの笑い声が微かに残響していた。――狂おしくも美しい旋律のような笑い。

 だが、その奥にほんの一瞬、俺は“歪み”を見た。


 あれは純粋な狂気ではない。

 どこかに理性があり、計算があり、そして――俺の影があった。

 そう、彼は俺の闇の欠片。

 神を呪い、家族を憎んだ夜、胸の奥で生まれた“もう一人の俺”だ。


《観測:対象ヴァルツ=アルヴァード、創造主ルネ=アルヴァードのスキルから発生。

制御権限:100%、上書き可能。》




 リュミナの声はいつも通り冷静だったが、今だけは、その響きの奥にかすかな警戒があった。

 彼女も感じ取っている――この存在が、“理性を食う炎”であることを。


「……リュミナ。制御設定を追加する。」


《入力をどうぞ。》




 俺は短く息を吸い、言葉を刻むように告げた。


「ヴァルツ=アルヴァードは、俺の命令に絶対服従。

 俺の“止まれ”という言葉を聞いた瞬間、動作を完全停止する。」


《承認。制御構文:『主命絶対』追加。》




 瞬間、ヴァルツの身体が淡く光を帯びた。

 黒い外套の縁を光がなぞり、紅の瞳の奥で、微細な光の粒が弾ける。

 空気が一瞬だけ重くなった――世界の根底に、新しい「法」が書き込まれたのだ。


 ヴァルツの狂気の笑みが止まり、表情が空白になる。

 ほんの数秒、何かを理解するように目を細めた。

 そしてゆっくりと首を傾げる。


「……兄上? なに、いまの感じ……」

 笑い声が消えたあとに続いたその言葉は、妙に素直だった。

 「体が、ピタッと止まる感覚、気持ち悪いねぇ。」


 その声音には苛立ちも戸惑いもなく、ただ“観察”の響きがあった。

 狂気の裏に潜む分析――理性の断片。

 この男の恐ろしさは、壊れていながらもすべてを理解しているところにある。


「お前のためだ。」

 俺は短く言う。

 その声は冷たく、けれどほんの僅かに優しかった。


 ヴァルツは小さく笑い、目を細める。

 「兄上の“ため”って言葉、便利だね。」

 口元だけが笑い、瞳は笑っていない。

 その瞳の奥では、光と闇がせめぎ合い、ひどく静かに、何かを観察している。


 その視線に、一瞬だけ自分の姿を見た気がした。

 “世界を正す”と口にしながら、結局は自分を納得させるために創造を繰り返す――そんな俺の醜い姿。

 そうだ、ヴァルツは狂っている。だがその狂気は、俺の真実でもある。


 リュミナの声が続く。


《制御構文、完全適用。対象ヴァルツ=アルヴァードの自律行動領域に制限を追加。

 発動キーワード:“止まれ”。反応時間、即時。》




 その報告を聞いても、俺の胸は軽くならなかった。

 “止まれ”と命じれば、ヴァルツは動きを完全に止める。

 だが――止まることができるということは、“再び動く”こともまた許されているということだ。


 この制御は“支配”ではない。

 彼を抑える鎖であり、同時に俺自身への“戒め”でもある。

 俺がその言葉を軽々しく使えば、創造主である俺がまた一線を越える。

 ヴァルツはそれを理解しているのか、どこか楽しそうに笑った。


「兄上。じゃあ、もし俺が止まってる間に、世界が壊れたらどうする?」

「そのときは、俺が動く。」

「……へぇ。」

 唇が吊り上がる。

 まるでその答えを、最初から待っていたように。


「やっぱり、兄上はいいね。俺と違って、“理性”ってやつを持ってる。

 でも――それも、すぐ壊れるよ。」


 そう言い残して、ヴァルツは背を向ける。

 その足跡から黒い靄が立ち上り、空中で花のように弾けて消えた。

 それはまるで、狂気そのものが“喜びの証”として世界に刻印されていくようだった。


 セラフィナが静かに一歩前に出る。

 彼女の瞳には不安と憂いが宿っている。

「ルネ……。あなたは、本当に“あれ”を制御できるの?」

「できる。――“俺の声”が届く限りは。」

 その答えを聞いても、彼女の眉はかすかに曇ったままだった。


 そのとき、ヴァルツが再びこちらを振り返る。

 紅黒の瞳が、朝焼けの赤を呑み込む。

 狂気の奥に、ほんの一瞬だけ――懐かしさのような光が見えた。


「……兄上。」

「なんだ。」

「“止まれ”って言葉、あんたが俺に使うときの顔。俺、見てみたいんだよね。」


 微笑みと共に、それはまるで愛の告白のように響いた。

 リュミナの声が沈黙し、風が止む。

 時間さえも、彼のその言葉にわずかに息を呑んだようだった。


 ――あぁ、やはり俺は、神の代わりに狂気を創ってしまったのだ。

 それは美しく、壊れていて、だが確かに“俺の一部”だった。



だが、ヴァルツの笑いはすぐ戻った。

 その声は空気そのものを震わせる。

 低く、波紋のように広がる狂気。

 まるで世界がその笑いの“拍子”に合わせて鼓動しているようだった。


「“止まれ”、ね。」

 紅黒の瞳が細まり、唇の端が静かに吊り上がる。

「じゃあ、試してみる?」


 その一言に、空気が緊張する。

 セラフィナがすぐに反応した。

 銀の髪が光を裂き、彼女は剣を構える。

 黎明剣ルクス=アステリアの刃が朝焼けの赤を反射して白金に煌めいた。


「ルネ、危険です!」

 彼女の声は鋭く、だが震えていた。

 “弟”と呼ぶにはあまりに危険な存在が、そこに立っている。

 彼女の理性が“戦闘”を選び、心が“恐れ”を訴える――その狭間の緊張。


 ヴァルツが、笑ったまま――跳ぶ。

 瓦礫を蹴り、黒い軌跡を描くように空を裂く。

 その足音は狂気そのもの。

 金属と骨が擦れる音に似た不協和音が、世界の秩序を削っていく。


 彼の周囲に、紅の光が散った。

 血を凝縮したような輝き。

 それはもはや“魔力”という枠を越えていた。

 存在そのものが狂気のスキル――そう言っても過言ではなかった。


「兄上――!」

 セラフィナの叫びが響く。

 ルネの身体は、しかし動かない。

 ただ、一言。静かに。


「――止まれ。」


 世界が、止まった。


 空気が凍り、風が息を潜める。

 教会の崩れた壁に刻まれた光の欠片が、空中で静止する。

 その瞬間、音が消えた。――すべての“律動”が、沈黙に飲まれたのだ。


 ヴァルツの身体が、まるで時間そのものに封じられたかのように硬直した。

 片足を宙に浮かせ、跳躍の途中で止まっている。

 その表情には、まだ笑みが残っていた。

 狂気の笑みのまま、まるで彫像のように、永遠の一瞬を刻みつけていた。


 セラフィナが目を見開き、声を失う。

 剣先がわずかに震え、光が波打つ。


「……止まった……本当に、完全に。」


《制御確認。主命発動。ヴァルツ=アルヴァード、全機能停止中。》




 リュミナの無機質な報告が、教会の空虚に響く。

 その声がかえって現実味を増した。

 狂気の舞踏者が静止し、世界が再びルネの支配下に戻っていく。


 俺はゆっくりと歩み寄り、ヴァルツの額に指を当てた。

 冷たい――だが、確かに“生きて”いる。

 肌の下に、微かな熱が流れていた。

 心拍は穏やか。呼吸は浅く、規則正しい。

 命そのものは静かに鼓動している。


 それを確かめてから、俺は目を閉じて呟いた。


「ヴァルツ。……お前は俺のスキルから生まれた。

 俺の“感情”の形だ。

 だから、俺が間違いを正す。」


 その言葉には、怒りも恐怖もなかった。

 ただ、静かな“責任”があった。

 創造主として――そして兄として。


 リュミナの声が低く響く。


《上書き定義を追加しますか?》




「ああ。」


《入力をどうぞ。》




 俺はしばし沈黙した。

 朝の赤が瓦礫を染め、止まったヴァルツの影が長く伸びている。

 その姿は美しく、恐ろしく、どこか哀しい。

 この存在を創ったのは他ならぬ俺だ。

 その罪も、罰も、俺が背負う。


「ヴァルツ=アルヴァードが主命に背いた場合――」

 言葉を吐くたびに、世界が少しずつ重くなる。

 空気が振動し、床の魔法陣が淡く光を帯びる。


「一日だけ、平民と同じ存在に変える。

 レベル、ステータス、魔力、すべて封印。

 スキル・魔法・再生能力――一切禁止。」


 その宣告は、ただの命令ではなかった。

 ――“赦し”のための罰。

 狂気の中にある人間性を、一度でも地上へ戻すための、最後の鎖。


 リュミナが応答する。


《承認。上書き完了。罰則構文“人化制限”を設定。》




 青白い光がヴァルツの胸部から走り、身体の内側に吸い込まれていく。

 それはまるで魂の奥に“戒律”を刻みつけるような儀式だった。


 光が消えたあと、ルネは静かに指を離す。

 ヴァルツの体からわずかに息が漏れた。

 それは苦しみでも抵抗でもなく、まるで夢の中の呼吸のように穏やかだった。


「……これでいい。」

 ルネの声は低く、乾いていた。

 セラフィナはその背を見つめながら、わずかに剣を下ろす。

 彼女の目には安堵と、言葉にならない痛みが混じっていた。


「ルネ。あなた……彼を、本当に縛ったのね。」

「ああ。だが、縛ったのは彼じゃない。俺の“心”だ。」


 そう言って、ルネは笑った。

 それはどこか寂しげで、神すら届かない決意の笑みだった。


 紅黒の髪の弟は、静かに眠るように立ち尽くす。

 兄の言葉を胸に刻まれたまま、時を止めた“狂気の神像”。


 そして、廃教会の外では朝の光が差し込む。

 だが、その光さえも――ほんのわずかに、紅く染まっていた。



光が走った。

 その瞬間、教会の空間が一度だけ震えたように感じた。

 青白い輝きがヴァルツの胸から放たれ、まるで生き物のように全身を駆け巡る。

 光は彼の皮膚の下を流れ、筋肉を伝い、やがて――紋様となって浮かび上がった。


 黒と紅の混色の皮膚の上に、淡く燐光を放つ封印の印章が刻まれる。

 それは複雑な幾何文様。

 輪と線と螺旋が絡み合い、まるで神の言語を反転させたような構造。

 ひとつひとつの線が微かに呼吸しているように動き、やがて静止した。


 焼けるような音が一瞬響いた。

 焦げた匂い。だが、それは血や肉ではない。――魂の刻印の匂いだ。

 ルネの創造主としての魔力が、ヴァルツの存在そのものへ“罰の法”を焼きつけた。


《副効果:姿変化時、記憶保持。感情制御リセット不可。》




 リュミナの声が静かに報告する。

 無機質な音。だが、その響きの裏には“畏怖”のような波がわずかに揺れていた。

 AIであるはずのリュミナさえも、この創造主と被造物の間に流れる緊張を感じ取っているのだ。


 ルネは黙っていた。

 指先にまだ魔力の余韻が残る。

 焼きつけた紋様が微かに脈動しているのが分かる――まるで心臓がそこにもう一つ生まれたかのように。


 そして、ヴァルツがゆっくりと顔を上げた。

 頬の血が乾いていく音すら聞こえるほどの静寂の中、彼の紅黒の瞳が細められた。

 その目は、獣ではない。

 理解している者の目だった。


「……兄上。やるねぇ。」


 唇の端が、ゆっくりと笑みに歪む。

 その笑いは、いつもの狂気の笑いではなかった。

 熱を失った火のような、静かな――だが底の見えない笑い。


 肩を小さくすくめながら、彼は軽口を叩くように続ける。

「つまり俺が“悪さ”したら、一日だけ“人間”にされるってわけか。」


 ルネは頷く。

「そうだ。」


 その声は平坦で、感情を排除していた。

 だがヴァルツには、それが“本気”であることが分かる。

 兄が自ら創造した存在に対して、初めて“罰”を定義した瞬間。

 その意味を理解しないほど、彼は愚かではない。


「へぇ。」

 ヴァルツはわずかに目を細めた。

 瞳の奥で紅と黒がゆらめき、淡い光を反射する。

 笑う――しかし、それは皮肉のようでいて、どこか懐かしい。


「面白い罰だね。」

 笑いながら、彼はゆっくりと自分の手の甲を見つめる。

 そこにも封印の紋が刻まれている。

 指先でなぞるたび、微かに熱を帯びるように反応する。


「“壊すことが俺の存在理由”なのに、

 悪さをしたら“壊せない自分”になる――か。」

 呟くように言い、口角をさらに上げた。


「兄上、やっぱりあんた……最高だよ。」


 言葉は皮肉に聞こえる。

 だが、その笑みの奥にはほんの一瞬――敬意があった。

 狂気の海の底で、ただ一人信じている存在。

 この男にだけは“止められてもいい”と思える相手。


 ルネは目を細めて、その表情を見つめた。

 その微かな“敬意”が、兄としての最後の希望のようにも感じられた。


「……忘れるな、ヴァルツ。

 お前が生きる限り、この印は消えない。

 お前が俺を裏切れば、その瞬間に“人”として一日を生きることになる。」


「人、ねぇ。」

 ヴァルツが笑う。

 しかし、その声は小さかった。まるで何かを思い出すように。


 紅黒の瞳が、ほんの一瞬だけ遠くを見た。

 その光景は――ルネに似た“少年”の面影を映していた。

 神にも祈らず、世界にも縋らず、ただ生きようとしていた少年。

 彼の中に、それがまだ“残っている”ことをルネは理解した。


「一日だけ人間、か。……悪くないかもな。」

 ヴァルツが呟き、微かに笑う。

「そのとき、兄上は俺に“飯”でも食わせてくれる?」


 ルネは無言だった。

 だが、その無言は拒絶ではない。

 ――“構わない”という、静かな肯定の沈黙。


 ヴァルツはそれを察し、にやりと笑った。

 歪んだ笑みの奥で、かすかに光る何か。

 それはまぎれもなく、“兄への敬意”だった。


 狂気の器に宿った、最後の人間らしさ。

 それは一瞬で消え、再び紅黒の瞳が妖しく光る。


「じゃあ、兄上。……次は、何を創る?」


 その声には、挑発と期待が入り混じっていた。

 そして、世界が再び――静かに震え始めた。



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