第12話 再会

 可動壁が動いた音は、遠雷みたいに低く腹の底で鳴り、通路全体の輪郭を少しずつ塗り替えていった。さっきまで真っ直ぐだった道が、誰かの手元で描かれた蛇行線に変わる。壁の白が近づいたり遠のいたりして、視界の奥行きが嘘をつく。レンは足を止めず、呼吸だけを一定にした。息が乱れると、光のゆがみが頭の中に入り込んでくる。


 「ここで閉まった。あっちも、さっきまで開いてたのに」


 剛が肩で空気を押しながら、短く区切って状況を伝える。額の汗は冷え、声の端がかすれている。「十階の投票で権限を甲斐斗に渡してから、突然、通路の一部が閉じた。千景が閉じ込められ、酸素が薄くなって……俺たちでドアをこじ開けようとしたが、鍵が足りない」


 レンは胸の内側にしまっていた鍵束を取り出した。九階の教壇から出てきた、形の違う五本。金属は手の熱をもらって少しだけ柔らかくなっている。「これで足りるかわからないけど」


 剛の目に、一秒だけ安堵のゆらぎが走った。「助かった」


 ふたりは息を合わせ、閉ざされた扉を順番に試していく。鍵穴の形は微妙に違い、わずかな段差や角の欠けが、合うか合わないかを無言で告げる。カチ、と喉の奥で鳴るような手応えがあったとき、扉の重みが腕へ移り、金属の筋肉が力を抜く。冷たい空気が流れ込む。閉じ込められていた小さな部屋には、床に倒れた椅子、壁に擦れた黒い跡、紙コップの転がる音の余韻だけが残っていた。


 蛇行に振り回されながら、ようやく辿り着いた中層の踊り場は、白と灰の境目のような薄光に満ちていた。照明は天井のどこかで震え、光の粒が空中に浮かんでいる。そこに、“合格者控室”と書かれた金属プレートの部屋があった。重たい灰のドア。小窓は高い位置に四角く開いていて、中の気配を隠しきれない。


 誰かの影。レンは反射で身を乗り出した。喉の奥が勝手に名前を作る。「蒼衣?」


 返事はなかった。かわりに、内側で何かが弱く擦れる音。レンはノブにそっと触れた。鍵はかかっていない。けれど、押すと、内側から押し返す力が指にかかる。ためらいの重さに似ている。剛と目を合わせ、息を合わせて押し開けた。


 狭い室内には、白い椅子が二脚、壁際に薄い衣類棚。窓はない。空調の音が低く響き、空気は乾いている。部屋の奥にはもう一枚ドアがあり、その向こうにガラスのような隔壁が続いていた。透明の壁の向こう側に、人影。光に薄く削られた横顔。結ばれた髪。胸元の紙の名札。黒い文字。


 特別観察対象。


 レンの喉がうまく動かなかった。声にする途中の音が、骨のどこかで引っかかった。「生きて……いたんだな」


 蒼衣は笑うとも泣くともつかない表情で頷いた。頬はやせ、色は薄いのに、目はきちんとこちらを捉えている。「“仮の天国”は、こういう場所だったよ。食事は出るし、本もある。私の告白は教材として評価が高かったみたい。ここから先、私はもう参加者じゃないって」


 隔壁には小さな差し入れ窓があり、通話用の穴がいくつか開いている。穴の縁は金属で、使い込まれた指の脂が薄く残っていた。レンは観察者ノートを見せ、声を低くした。「君の言った“書き続けて”を守っている。ここは教育の名を借りた見世物だ。裏で教材にされている。外の誰かが見て、役に立ったと言い、よかったねと拍手して、何も変わらない。俺たちの痛みは点数になる」


 蒼衣は目を伏せ、「知ってる」と囁いた。「ここに運ばれてから、なんども説明を受けた。“あなたの誠実は、若者の学びを促します”って。私の涙に、目的と意義を貼りつけるのが上手い人たちが、たくさんいる」


 遠くで金属の落ちる音がガチャンと鳴った。空気が小さく震え、照明の粒があわてて位置を変える。剛が顔を上げた。「急がないと。甲斐斗が最上層へ向かってる。あいつは“卒業者の権利”を手に入れる気だ」


 蒼衣は隔壁に手を当て、淡い手形を残した。「彼は、上に立ちたいんじゃなくて、上の仕組みをそのまま信じたいだけ。誰よりも“正しさ”に従順なんだと思う」


 小さな沈黙。隔壁越しの呼吸音が、管を通って丸い音に変わる。蒼衣は差し入れ窓から薄い封筒を滑らせた。封は小さなクリップで留められ、管理番号のスタンプが押されている。「観覧室で見つけたんだ。私の“指導計画”。この塔で私がどう振る舞えば“学習効果”が高まるか、行動提案がびっしり。……笑えるでしょ」


 レンは封筒を受け取り、胸の内ポケットに、記録室で拾った書類袋の上に重ねた。角が肋骨に二つ、位置を主張する。痛みとは違う、重さのような感覚。「一緒に外へ。出口を探す。どこかに隙間はある」


 蒼衣は首を振った。目は揺れない。「出口は、一人分しかないように作られてる。誰かが“正しく”なるために、誰かを置いていく前提で設計されてるの。だから、あなたが行って。私はここで、最後の授業を受ける。あなたに言葉を残したい」


 通話口越しの声は、かすかに震えていたが、決して折れていなかった。「レン、覚えて。“正しい教育”って、たぶん、誰かの声を切り捨てないことだよ。自由って、選びたくないものを選ばされる力じゃない。選ばせない仕組みに、立ち止まって“おかしい”と言う力だよ」


 レンは観察者ノートを開いた。紙の罫線が、今だけまっすぐに見える。——合格者控室、透明の隔壁、特別観察対象。蒼衣の声。封筒。行動提案。教育の名に貼られた“効果”のラベル。ここではラベルが鍵穴の形をしている。鍵を回すために、誰かの名前が削られる。


 「千景は?」


 剛が短く問う。レンはノートを閉じ、剛を見る。剛の目は濁っていない。濁りの手前でとどまっている。「さっき酸素が薄くなった部屋から出した。早智がそばにいる。起きたり寝たり。でも、目の奥はこっちを見てる」


 「良かった」


 蒼衣が息を吐いた。吐息が隔壁で白く曇り、すぐ消えた。「千景は、たぶん泣く場所を探すのが下手なんだよ。泣かないのが強さだって知ってるから。でも、ここでは、その強さが“役立つ”に変換されちゃう」


 「役立つ、は罠だ」


 レンは言った。自分に向けて言うみたいに。「役立つ、は刃の丸い名前だ。丸い刃は深く入る」


 非常灯が一つ、く、っと弱くなり、足元の影が長く伸びた。時計はないのに、時間だけが早足で過ぎる気がした。剛が短く合図する。行かねばならない。その合図の意味が、空気の密度を変える。


 レンは隔壁に額を寄せた。透明の冷たさが皮膚の温度を奪い、脳の表面に薄い膜を作る。顔を見ないようにして、言葉だけを置く。「行く。君を置いて行くのではない。君の言葉を抱えていく」


 蒼衣は微笑んだ。ここに来て初めて、笑いが音になった。「それを“置いていく”って言うんだよ。だから大丈夫」


 ガラス越しに、そっと手を合わせる。体温は届かないのに、不思議と温かかった。皮膚の下で血が動いている感覚だけが、相手の存在を伝える。掌を離すと、白い手形が互いの側に残り、ゆっくり消えた。


 「甲斐斗に、これを見せる機会があれば——」


 蒼衣が言いかけ、首を振った。「いや、違う。見せるより、あなたが持っていることの方が大事。あなたの言葉の中に重さとして残る。重さは、あなたの歩き方を変える」


 レンは頷いた。頷きの角度が、胸の中の封筒の角と呼応する。剛がドアの方へ歩き出すと、照明の粒が彼の肩のあたりに集まり、短い時間だけ輪郭を明るくした。


 廊下に出ると、可動壁の蛇行がさらにきつくなっていた。足音が曲がり角の内側で跳ね、反響が遅れて追いかけてくる。通路の床には黄色いテープが新しく貼られ、矢印が進行方向を強く指示していた。矢印は平気な顔で命令する。


 「レン」


 剛が前を見たまま言う。「お前、さっき薄い封筒をしまっただろ。あれ、何だ」


 「蒼衣の“指導計画”。どう振る舞えば“学習効果”が高まるか、行動提案が書かれてる」


 「読んだのか」


 「全部はまだ。でも、見出しだけで吐き気がした」


 「俺は読まない」


 剛ははっきり言った。「俺が読んだら、殴る相手を間違える。紙は殴れない」


 「紙は、叩くものじゃなくて、持つものだ」


 レンは言いながら、観察者ノートの余白に一行を加えた。——“正しい教育”とは、誰かの声を切り捨てないこと。自由とは、選ばせない仕組みに“おかしい”と言う力。/蒼衣の言葉。記録。


 可動壁の先、通路が急に広がった。中央に低い台。台の上に据え付けられた端末。画面には管理者:Kaito K の文字。甲斐斗の名前は、黒い背景にまっすぐ立っていた。端末の脇に、機械的な呼吸音。シャッターが上下に小刻みに動いている。誰かの指が、遠くからこの扉を挟んで脈を測っているみたいだ。


 「急ぐぞ」


 剛の歩幅が一段大きくなる。レンはついていき、端末の側を横切るとき、画面の端に小さな通知を見た——上層アクセス試行/残り手順:2。指先が冷たくなる。甲斐斗は本当に、最上層へ手を伸ばしている。


 曲がり角をいくつか抜けた先に、別の扉。鍵穴はさっき開けたものよりも古い形。鍵束の一本、頭に小さな穴が空いた鍵が、迷いなく収まった。回すと、扉の裏から空気が短く吐き出される。廊下の空気が新しい空白を手に入れ、体が一歩、前へ滑り出る。


 そこは、細長い控室のような空間だった。壁には白い服がいくつか吊り下げられ、サイズごとに整頓されている。袖には小さくロゴ。教育再生財団。棚には透明な資料箱。中には同じフォーマットの紙が詰められ、ラベルの色だけが違う。緑は「倫理」。青は「安全」。赤は「逸脱」。分類は、刃の種類を色で見分けるための工夫に見えた。


 「ここで着替えるのか、上に行くやつは」


 剛が白い服の裾を摘み、すぐ離した。「記念撮影みたいだな」


 「撮られた写真は、教材になる」


 レンは飾り棚の上のフォトフレームに目を止めた。中の紙は空白だが、角の擦れ方は、そこに長く写真があったことを示している。写真は外された。あるいは、上へ運ばれた。空白だけが重さを持つ。


 さらに奥、薄いガラスのパーティション。その向こうに、小さな通話ブースが並ぶ。ヘッドセット、スイッチ、サインランプ。ひとつのランプが、赤から白へ、白から赤へ、等間隔で点滅していた。誰かが、向こう側からこちらを見ている証。


 「行こう」


 剛の声で、レンは目を切った。背中の封筒が肋骨を軽く叩く。歩くたびに、薄い音が鳴る。薄い音は、怒りの音より遠くまで届く。遠くまで届く音は、時々、何かを変える。


 再び蛇行。再びシャッター。足音のリズムは一定なのに、廊下の幅は揺れる。足元の黄色い矢印は「列を維持」と書かれた張り紙と一緒に貼られ、進む理由を常に与えてくる。理由が多いほど、人は迷わなくなる。迷わない足は、どこへでも行く。


 「レン」


 後ろから小さな声。振り返ると、早智がいた。頬は蒼く、目は強い。「千景は寝た。呼吸は浅いけど、安定した。……蒼衣のところに行ったの?」


 「会った」


 「そう」


 早智はそれ以上聞かなかった。聞かなかった沈黙には、尊重の形がある。「甲斐斗は最上層の手前で待機指示を出して、自分だけ手順を進めてる。私たちには“準備室で『整える』こと”を求めてる。整えるって、何を」


 「写真写り、とか」


 レンの口の端が少し動いた。笑いは音にならない。音にしない笑いは、怒りの鋭さを少しだけ削る。剛が前でシャッターの間の細い通路をくぐり抜け、身を低くして手招きした。


 そのとき、頭上のスピーカーが、咳払いのようなノイズを吐いた。乾いた声が降りる。「受講生各位。上層アクセス準備を開始します。管理者の判断に従い、列を維持してください。……繰り返します」


 蒼衣の言葉が胸の中で応答する。——選ばせない仕組みに、立ち止まって“おかしい”と言う力。レンは観察者ノートを開き、短く書いた。——列を維持:命令。誰の安全か。誰の速度か。誰の拍手か。/印:設計。


 角の向こうに、広い踊り場が現れた。床の中心に、丸いマーク。二本の矢印が互い違いに回る印。上昇と下降の記号。壁には、上層へ続く大型扉。扉の上には、薄い透明の窓。窓の向こう、細い廊下を誰かが横切る影。甲斐斗だ。彼の背はまっすぐで、歩幅は一定。端末の光が手首の血管を白く照らす。


 「甲斐斗!」


 剛が呼んだ。壁が声を返し、名前が二度、空中で重なる。甲斐斗は振り返らなかった。代わりに、扉の脇の端末に何かを入力し、通話ボタンを押した。天井から同じ声が降りてくる。「上層アクセス手順を進行中だ。すぐに開く。君たちは待機してくれ」


 「待機は命令じゃない」


 早智が低く言い返す。「説明はどこ?」


 応答はない。応答の不在が答えになる。レンは一歩前に出て、胸の封筒を叩いた。音は薄いが、体の中では厚く鳴る。「甲斐斗。見せるものがある」


 扉の向こうで、影が止まる。薄い窓越しに、彼の横顔の輪郭が浮いた。目は細く、口は真横に結ばれている。レンは封筒から数枚の紙を取り出し、窓に向けて広げた。覚書。討論用問い。貸出票の写し。特別観察対象の指導計画の一部。紙の白が光を拾い、文の黒が壁の白に勝つ。


 「ここは事故じゃない。設計であり、運用であり、習慣だ。お前が言う合理は、上で拍手を受けるための合理だ。俺はそれを鍵にする。鎖にはしない」


 窓の向こうで、甲斐斗のまぶたがほんの少しだけ動いた。動きは意味を抱かない。意味は、こちらがつけるものだ。彼は通話ボタンをもう一度押し、短く言った。「見た。——上で待っている」


 同じ言葉。けれど、響きが少し違う。違いは測れない。測れないものに印をつけ、ノートに括弧を開き、閉じる。レンは紙を戻し、封筒をしまった。封筒の角が、今度は少し暖かく感じられた。


 扉のロックが外れる音が、金属の奥で小さく鳴った。最上層へ続く階段の口が現れ、空気が入れ替わる。新しい匂い。冷えた鉄、古い木、焦げた埃。どの匂いにも、拍手の匂いは混ざっていない。拍手は、いつも外から届く。


 「行こう」


 剛が言い、早智が頷く。レンは最後に振り返った。合格者控室の方角。蒼衣のいる透明の壁。目に見えない線が、廊下の空気を細く分けている気がした。透明の線は、刃のように細い。細い刃は深く入る。名を呼ぶことで、刃の向きを少し変えられるかもしれない。


 「蒼衣」


 声に出した。出しただけで、胸の中の線がたわむ。たわみはほんの少しだ。ほんの少しでも、歩き方は変わる。


 上へ。崩れかけの正しさを割るために。レンは観察者ノートを開き、最初の頁の四行に指を触れた。見たものだけを書け。測れるものは数で示せ。推測には印を。痛みには名前を。その下に、蒼衣の言葉を細く足す。——選ばせない仕組みに“おかしい”と言う力。記録。


 階段の一段目に足を置く。靴底が金属を押し、薄い音が鳴る。音は壁に吸われず、遠くのどこかで誰かの脈と混ざる。二段目。三段目。背中の封筒が、歩幅に合わせて小さく揺れる。揺れの回数が、心拍を落ち着かせる。落ち着いた心拍は、怖さを消さない。ただ、怖さに輪郭を与える。


 「レン、行け」


 剛の声。早智の足音。上への風。下から、かすかな幻聴。——書き続けて。蒼衣の高さ。レンは顔を上げ、階段の闇と光の境目を見据えた。境目は細い。細い線を、紙の角でなぞる。なぞりながら、上へ。拍手にならない音を胸に抱えたまま、上へ。

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