第10話 記録と改竄
観察室の温度が、人の体温でじわじわ上がっていく。呼吸が混ざり、壁に立て掛けたモニターの裏でファンが廻る音が、それを少しだけ攪拌する。空気はぬるく、しかしどこか粉っぽい。天井の小さな穴から降った白い粉は見えなくなっても、舌の奥に薄く残っている気がした。
廉は「記録」と背に書かれた棚からバインダーを抜き出し、金具の開閉で生まれる小さな金属音に耳を澄ませた。音の硬さは、今日の自分の集中の硬さとほとんど同じだった。
「異なる手で、異なる癖で、異なる目的で」
自分に言い聞かせるみたいに呟いて、紙を机に並べる。海老原が横で腕を組み、視線だけ紙へ落とした。
「記録は嘘を守るためにも使える」
「だから、記録は“複数”で作る」
廉は頷き、鉛筆で欄外に小さく矢印を引く。矢印の頭は二つに割る。どちらにも進めること、進んだ先が別の嘘につながっていても構わないこと、その余白を残すために。
紙の匂いが濃いバインダーを次々にめくるうち、一冊だけ、手の違いが明らかなページに行き当たった。太いボールペン、筆圧の強い丸文字、そして急いだ跡を隠しきれない、硬い芯の鉛筆。B館の“行方不明者”の動線が、細い赤線で引かれている。二十時四十五分に外扉へ向かい、二十時五十七分に足跡が途切れる。欄外には、黒インクで「2F-廊下右端 粉跡薄」と付記。だが、同じ時刻帯に、談話室の鏡の前で彼女を見たという目撃が二つ、別の紙に淡い万年筆のインクで記されている。
「改竄だ」
星野が短く言う。言葉は乾いて、机の上で砕ける粉のようだった。
「誰が、何のために」
木場が身を乗り出し、指で赤線を辿りながら鼻を鳴らした。廉は黙って別カメラの映像に切り替える。廊下の上、見上げにくい角度。天井に埋め込まれたレンズが捉えた映像は、ふだん誰も意識しない天井の視線だった。
そこに映っていたのは、ほうきを持つ藤巻だった。彼は迷いなく、しかし足音を抑えて廊下の粉を端から払っていく。払った粉が堰のように寄り、足跡の列は、そこで途切れて見える。やがて藤巻は振り返り、鏡の方へ視線だけ送ってから、ほうきを壁に立てかけた。
映像の隅に、タイムタグ。〈B-21:12〉。A館なら〈21:42〉になる刻印だ。三十分差の鏡は、罪の手つきをむしろ鮮やかにする。粉は、足音の不在を“証拠”にしてしまう。証拠があるとき、人は見ない。証拠だけを見る。
廉は映像を止め、紙の余白に赤で丸をつけた。「藤巻」。丸から矢印を引き、「観客」と書く。
「観客?」
海老原が小さく笑った。「見ている者。見せるために“消失”を演出する側。“消える画”は維持率がいい。だから、誰かが消え続ける」
茜は黙って映像を見ていた。彼女の視線は粉の縁にひっかかり続け、その指先は額縁の角をなぞるときのように、机の角を二度、軽く叩いた。
扉の上の赤ランプがひとつ点滅し、天井のスピーカーが短いベルを鳴らした。唐突ではない合図。装置はいつも、予告を入れる。予告は、それ自体が演出で、演出はそれ自体が命令だ。
「再演の第三幕。次の鍵は“命令する声”」
声は、無機質で、しかし聞き覚えのある母音の引き方をしていた。茜の肩がわずかに硬くなる。三年前の夜、廊下の白い光の下で交わした議論が、彼女の表情筋に居座っているのが見えた。
廉は茜の肩に短く手を置き、前へ出る。「俺が話す」
誰も止めなかった。止めたら、彼が止まってしまうと分かっているからだ。廉は白い部屋に入り、扉が閉じる音を背に受けて、マイクへ歩いた。蛍光灯の白が喉へ落ちる。喉に、三年前の煤の味が、たしかに残っていた。焦げたプラスチックと、消火薬剤と、髪の焦げた匂い。匂いは、言葉を短くする。
「――俺は、火の夜、嘘をついた」
声は自分の体から出ているのに、自分から少しだけ離れて聞こえた。観客席から舞台の台詞を聞くときの距離。廉は短く息を継ぎ、言葉の角度を少し落とした。
「俺は“煙で何も見えなかった”と供述した。けれど、見えた。白いコートの背。彼は俺に“外へ出ろ”と言った。俺は従った。従ったことを、今も正当化し続けてきた」
緑のランプがひとつ点いた。続けて、ふたつ目が点く。だが、三つ目――点かない。扉は沈黙したまま、重さを変えない。廉は息を吐き、気づく。“命令”という語が足りない。命令が“あった”ことは語った。だが、誰が命じたかを、まだ言っていない。装置は、主語を欲しがる。主語は、刃だ。刃は、投げる方向で意味が変わる。
廉は振り返らず、わずかに声を低くした。母音を短く、子音に重心を置く。喉の奥の筋肉が、訓練された楽器のように、反応する。
「命令したのは、朝比奈廉治だ」
自分の口から出るその名は、薄い刃物を噛んだみたいに、歯茎の内側を冷やした。
「俺は彼の声を、倫理の声だと誤認した。だから、従った。従ったことで、誰かが死んだ。俺はその死を“結果論”と呼んだ。呼び続けることで、自分を守った」
三つ目の緑が、静かに点った。金属のロックが外れる音が、頭の骨に響く。扉の重さが軽くなり、外側の赤ランプが完全に消えた。観察室の別の場所で、重なるように、もう一つのロックが外れる金属音。装置は、語の組み合わせで“複数の鍵穴”を回すように設計されている。その同時性は、今度は本物だ。今だけは、ずれではない。
開いた先は、思っていたより狭い棚だった。湿気で波打ったベニヤ板の上に、手紙が束ねられている。封筒はすべて白で、紙質は厚い。宛名はばらばら。見覚えのある tên が並ぶ。差出人は、すべて「A.L.」。英字で、クセのない筆致。朝比奈廉治。廉は自分の名が書かれた封を取り上げ、角を指で押し広げて開けた。紙の中に爪が少し食い込む。中には一行だけ、黒いインクで書かれていた。
「君はまだ、正しく怯えているか」
短い言葉なのに、やけに長く響いた。怯え――勇気の反対ではない。注意深さの別名。怯えない者は、扉の間で足を踏み外す。怯えすぎた者は、扉の手前で動けなくなる。正しく怯える。それは、刃を握るときの指の角度に似ている。
廉は封筒を折り、ポケットに入れた。紙が胸の布を押して、体温で柔らかくなる。柔らかさは、鍵になる。
観察室に戻ると、十五人の熱が壁にまとわりついていた。茜は棚の手紙を一通ずつ見て、そのまま戻す。星野は手指を拭き、ついでに机の角を拭いてから、廉の顔を見る。海老原はモニターの一つで波形を並べ、声の温度を比較していた。波は嘘をつかない。温度は編集で作れない。
「“命令する声”……」茜が呟く。「彼が欲しかったのは、命令そのものじゃない。“命令された”と語ることで、命令を自分の中に引き取る、その動き」
「従うことの責任」星野が続ける。「従った自分の選択の重みを、自分で呼ぶこと」
「だから、扉は開いた」海老原が言う。「“名”を置く位置が、正しい棚に入ったから」
廉は机の紙をもう一度広げ、ホチキスの針の角度を確認した。針が斜めに曲がっている紙が、いくつもある。急いで綴じられた紙は、たいてい急いで信じられる。急がせるのは、装置の常套手段だ。急がせて、考える時間を奪う。奪われた考えは、あとで「結果論」という箱にしまわれる。箱は便利だ。箱は、何でも整える。
「記録は“結果”ではない」
廉は書き込むように言った。
「記録は“過程の断面”だ。だから、断面だけでは判断してはいけない。断面の並べ方で、別の“過程”が生まれる」
海老原が頷き、別のバインダーを手に取る。「じゃあ、並べ替えようか。断面の順番を」
「改竄に見えるように?」木場が眉を上げる。
「改竄の“改竄”だ」海老原は淡く笑った。「編集で編集を壊す。観客に皺を見せる」
そのとき、壁のスピーカーが短く低い音を鳴らした。ベルでもなく、アナウンスでもない。誰かがマイクの前で息を吸った音。観察室の空気がぴんと張る。声は落ち着いて、しかしわずかに近い。
「観客の皆さん。第三幕を終え、第四幕へ進みます。次の鍵は“置換”」
〈第三鍵:置換〉――さきほどノートで見た赤い語が、いまは空中に浮かんだみたいに耳の内側で光る。置換。言葉の入れ替え。主語の交換。因果の矢印の向きを反転させる。
茜が小さく笑った。「予定どおり。彼は“こちらが気づくこと”をも台本に入れている」
「なら、台本から半歩ずれる」廉は言う。「“喉は鍵穴ではない”。それを言う。否定と置換で、彼の辞書から言葉を取り上げる」
B館の廊下で、ざらりと音がした。誰かが粉を踏んだ音。モニターの一つで、藤巻が振り返る。視線がカメラをかすめ、すぐに鏡へ戻る。鷺沼はもういない。彼は別の椅子に座り、腕を組んで、遠くを見ていた。窓の外ではない、別の遠く。画面の外側。そこに視線を置く練習を、やっと始めたように。
廉はスイッチを切り替え、白い部屋の天井の穴を大きく映した。穴の縁には、粉が薄く付着している。誰かがためらいながら降らせ、ためらいながら止めた痕。ためらいは、人間の言語だ。装置の言語では翻訳しづらい。そこに、こちらの“鍵”がある。
「三十秒が来る」
赤いランプがゆっくり明滅し、連絡所の柵の電磁が解ける音がした。雨は細く、山は黙っている。茜と廉は外廊下へ出た。鉄の匂いが濃い。柵の向こうでB館の扉が開き、数人の影が揺れ、しかし前に出てきたのは茜だけだった。
「数字から」
廉が言う。茜が頷く。
「A館二十一時四十二分」「B館二十一時十二分」「差、三十分」
声の高さを抑え、母音を短く、子音に重心。編集で切られにくい硬度を保つ。残り十五秒、差分だけを要点で置き、最後の五秒で、否定。
「喉は、鍵穴ではない」
言葉は空気の上に置かれ、すぐに柵が閉まった。閉まる音は短いのに、余韻は長い。余韻は、装置の手の届かない場所へ、こちらの声を押し上げる。
観察室へ戻ると、壁の端で緑のランプがひとつ、またひとつ、間を置いて点いた。どこか、別の扉が開いたのだ。音はしなかった。音を消した開扉は、観客に向けた効果ではない。内側のための構造。内側の移動。誰かが、別の部屋へ移されたことを、緑が知らせている。
「誰だ」
星野が低く言う。海老原がモニターを走査する。映像は四つに割られ、さらに小さな窓が生まれ、見たことのない角度が現れる。白い廊下の突き当たり。薄い硝子の向こう。棚の列。影の列。影は、人より早く移動する。
「……棚だ」
茜が息を飲む。「手紙の棚がもう一つある」
廉は迷わず、先ほど開いた棚の奥を押した。軋み。板が少し引き、空隙が生まれる。暗い。しかし、匂いがある。紙と油の混ざった匂い。そこに、もう一つの棚。一段目に封筒。宛名は──「藤巻」。二段目──「鷺沼」。三段目──「星野」。四段目──「芹沢」。そして、五段目に、「天城」。
廉は指先で五段目の封筒を撫で、ひとつ上を見た。そこに、細い字で鉛筆の痕があった。消しゴムで消しかけた跡。浅く残る線。その線は、誰かの躊躇いの形だ。躊躇いは、改竄と正直の境目に溜まる。
封筒を取り、開き、紙を引く。さきほどと同じフォントの、同じ黒インクで、一行。
「君はまだ、正しく怯えているか」
同じ文。だが、紙の端に小さな汚れ。指の跡。自分の指ではない。誰かがこの紙を持ち、筆跡を真似、封をした。筆跡の角度が、ほんの一度だけ違う。違いは、扉の隙間の幅ほど小さいが、そこから風が入る。風は、粉を運ぶ。粉は、足跡を作り、消す。
廉は紙を折り、もう一度ポケットに入れた。胸の内側で紙が音を立てないよう、身体の動きを小さくする。怯えは、鍵になる。正しく怯える。扉の前では、足を広げすぎない。声は短く、しかし切らない。喉は鍵穴ではないが、喉の奥に言葉の形はある。そこに、刃の角が触れないように、指の位置を確かめる。
「“命令する声”は、もう使った。次は“置換”だ」
廉は言い、机にペンを並べた。鉛筆の硬度をHBからBに変える。柔らかい芯は、紙の凹凸をよく掴む。掴んだ凹凸は、あとで光で読める。読めるものは、捏ね直せる。捏ね直すこと自体を、予定に入れる。
「“朝比奈廉治”を“写真の男”に戻し、“写真の男”を“設計”に押し込む。言葉の棚替えを、徹底する」
茜は深く頷いた。「“倫理”の位置も、同じように替える。“倫理”を“安全カバー”から、“編集の皺”の側へ」
海老原が波形の画面を指差した。「ほら、ここ。彼のアナウンス、呼吸の位置が浅い。生の声だ。録音じゃない。だから、ためらいが映る」
ためらい。装置が最も嫌う、人間の残り。そこを鍵にする。鍵穴は喉ではなく、ためらいの隙間にある。ためらいは、翻訳しづらい。翻訳しづらいものが、いつも真実の側に残る。
遠くで雷が低く鳴り、山が短く息を吐いた。非常灯は相変わらず死んだままだったが、暗闇は先ほどより少し薄い。誰かが扉を開け、内側に風が通ったからだ。風は、粉の匂いを連れてくる。粉は、痕跡を可視化し、同時に隠す。隠すための可視化。可視化するための隠蔽。装置の二重の言語は、もう怖くない。怖くないわけではない。正しく怯えることが、やっとできる。
廉は壁の時計を見た。A館の針は二十一時四十九分、B館の針は二十一時十九分。三十分の差。その差の上に、今夜の言葉を置く。数字、差、否定、置換。それだけで扉は開かないが、扉の形は削れる。削れた縁から、明日が覗く。
観察室の隅で、誰かが小さく笑った。藤巻の笑いではない。茜の笑いでもない。白い部屋のマイクが拾う笑いでもない。笑いは音にならない。音にならない笑いほど、長持ちする。長持ちするものに、言葉は勝てない。だから、言葉の形を変える。刃ではなく、楔に。楔は、抜けにくい角度で差し込む。
机の上の紙に、廉は最後の一文を書いた。細い字で、しかしはっきりと。
「喉は鍵穴ではない。怯えは、鍵になる」
書いた瞬間、壁の向こうで金属がまた一つ、小さく外れる音がした。どこか、別の扉が、いまこの短い文に応じて、目に見えない角度で緩んだのだ。見えない緩みほど、のちの動きに効く。
廉はペンを置き、深く息を吸った。胸のポケットの紙が、呼吸のたびにわずかに擦れる。擦れは、合図になる。内側の合図。外の観客には聞こえない、こちらだけの拍子。
彼は目を閉じ、暗闇の濃さを確かめた。まだ終わらない。終わらせない。終わらせ方は、こちらが決める。正しく怯えながら。明日の三十秒を、短く、冷たく、しかし抜けにくい楔にするために。
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