第6話 壁の中の声

 観察室を出ると、A館の空気がわずかに変わっていた。

 変化は目に見えない。だが、皮膚にははっきり当たる。夜風と違う、乾いた視線の粒。全員が「見られていた」という事実を受け入れたあとの沈黙は、怒号よりも重く、長い。

 海老原はもう写真を撮らなくなった。レンズを向けること自体が“観客の手伝い”になると、やっと身体で理解したのだろう。

 木場は煙草の箱を出すが、火はつけない。親指と人差し指でフィルターを回し、何度も、ただそれだけを繰り返す。

 星野は声の高さを半音落とした。単語の最後を一拍短く切り、音を画面に起こさせないようにしている。

 遠野は冗談を言うのをやめ、いつもより歩幅が小さい。廊下の角を曲がるたび、扉の隙間を気にする癖が強くなった。

 鷺沼は、ますます窓を見る時間が増えた。外の黒は何も返さないのに、彼はそこに何かの“返答”を求めている。

 廉は、それぞれの沈黙をメモに置換していく。沈黙の回数、長さ、沈黙の直前に言われた言葉。言葉は足跡だ。足跡は虚ろでも、向きは嘘をつけない。


 深夜近く、廊下に低い囁きが満ちた。

 「まだ、生きている……」

 空耳だと思った。音は壁の目地に吸われ、すぐに溶けた。

 同じ文が、同じ抑揚で、二度、三度。

 廊下の空気が、微かに押し返してくる。

 「聞いたか」木場が立ち止まる。

 「……聞いた」星野が答える。

 海老原は首を傾げ、耳を振り向ける方向を変えた。「出所、壁の向こう」

 廉は壁に耳を当て、音の振動を追った。

 通気ダクトの奥。昼間見つけた空洞は一本ではなかった。

 食堂の脇の壁。巾木の継ぎ目。わずかに新しいビス穴。

 「ここだ」

 星野が工具箱を持ってくる。ドライバーの先で壁板をそっと浮かせ、木ねじを二本だけ外す。

 薄い板の裏に、狭い隙間を縫うように張り巡らされたコード。古いスピーカー。小型のタイマー。テープのような黒いカートリッジ。

 再び、囁き。

 「まだ、生きている……」

 星野がスイッチを切る。囁きが止まり、空気が少し軽くなる。

 テープのラベルに手書きで、鉛筆の文字。

 〈B館指示:「まだ生きている」〉

 廉は喉の奥が冷たくなり、息を細くした。「……A館の恐怖を、B館発の指示のように“演出”している」

 「俺たちが“声に従って”動くのを、向こうが見る」海老原は指でテープの端を弾き、すぐやめた。「いや、向こうも、誰かの声に動かされてる。鏡だ」

 木場は顔をしかめ、スピーカーの角を小突いた。「悪趣味だな」

 「悪趣味で済むなら、まだいい」星野はタイマーの表示を覗き込む。「時刻設定、見て」


 タイマーには三つの時刻が記憶されていた。

 21:12、21:30、21:42。

 A館の針に合わせた刻印。

 廉は膝をつき、コードを一本だけ指で弾いた。震えはすぐに止まる。

 「声は“過去”から流れている」

 木場が眉をひそめる。「過去?」

「B館はこっちより三十分“遅い”。向こうの“いま発している”声が、こっちでは“さっき”鳴る。逆も同じ。俺たちの“いま”は、向こうの“これから”に到達する」

 「同時性は嘘だ」海老原が言った。「互いの像は、時間差の鏡。鏡の角度を決めるのは、観客の指」

 遠野が唇を舐め、「じゃあ、向こうも……俺たちの“過去”を聴いてる?」

 廉は頷いた。「だから三十秒の通信は、基準合わせの“隙間”なんだ」


 壁の中のスピーカーは、観察室と繋がっていた。細い配線は突き当たりの空洞を通り、先ほどの“観察室”のラック背面へ続いている。

 安っぽい構造だが、安っぽさこそが効く。誰も疑わない。学校の壁の中に、こんな“テレビ局”があるなんて思わない。

 星野はテープを慎重に取り出し、ビニール袋に入れた。「指紋は、もうだめ。だけど、筆跡は残る。『B館指示』の癖は、どこかでまた会う」

 「筆跡は声と同じだ」海老原が囁く。「母音が伸びる声は、トメが甘い字を書く」

 廉は昼間メモした“母音延長”を思い出した。告知の声。減点のアナウンス。ホワイトボードの字。

 関連はある。けれど、まだ“確定”ではない。

 確定は刃だ。早く握れば、手を切る。


 壁板を元に戻す。ビス穴を丁寧に閉じる。痕跡は残したいが、残しすぎれば呼び水になる。

 戻る途中、鷺沼が窓の外を見て言った。

 「……声は、壁の中だけじゃない」

 「外でも?」

 「外にも、ある。夜になると、山が低く話す」

 木場が鼻で笑った。「山がしゃべるかよ」

 「しゃべらない。けど、音は拾う」鷺沼は振り向かない。「拾った音を、返す。遅れて」

 廉は、山の輪郭を目でなぞった。黒い段差の向こうで、風が巻く。まるで町の外側で巨大な息が出入りしているみたいに。

 遅れて返る音。

 遅れて届く声。

 遅れて“起こる”事件。

 遅れは、仕掛けの核だ。遅れを使えば、同時のふりを作れる。ふりは、真実より強いときがある。


 夜更け、A館の廊下は長く、どこまでも同じに見えた。

 廉は各部屋を回り、三度目の所在確認をした。怒られない子供のように、みんな素直に答えた。観察室で“台本”を見てから、反抗は逆に難しくなったのだ。

 「二十一時四十二分、どこに」

 「ラウンジ」

 「トイレ」

 「喫煙所」

 「部屋」

 「廊下の端」

 記録は埋まる。だが、埋まった紙は、同時に“編集素材”にもなる。

 「紙を整えること自体が、向こうへの奉仕じゃないか」木場が吐き捨て、すぐに口を閉ざした。

 「整えないと、自分が迷子になる」廉は言った。「地図は敵にも利するが、まず俺たちに利く」

 海老原が柔らかく笑う。「名言。使える。編集されたくないけど」

 「編集される前提で喋る」星野が言った。彼女の声に、やはり温度は戻らない。戻らないことが、今は正確だ。


 三十秒通信の時刻が近づいた。

 外廊下の連絡所は、夜露で鉄の匂いが濃い。柵の向こうでB館の扉が開き、茜が現れた。昼間より頬の影が深い。

 赤いランプが点滅し、背面で秒が呼吸する。

 廉は要点だけを、針で突くように話した。観察室、カセットテープ、再演計画のノート。壁内スピーカーのタイマー、時刻の刻印。

 茜は短く頷き、同時に視線をほんの少し落とした。

 「こっちでも“声”があった。出所は壁。タイマーで出てる。時刻、そっちの二十一時四十二分に一致」

 ぴたり、と秒が重なる。

 茜の目が、決意の色を帯びた。

 「一人、嘘をついてる。こっちで“行方不明”と言われてる女の子、私は見た。二十一時二十分頃、談話室の鏡の前。彼女は私を見て──何も言わなかった。記録には『二十時台に外へ出た』とある」

 「外はない」廉は反射的に返した。

 「ない。だから、『外へ出たことにしたい』誰かがいる。消したい誰か」

 ランプがゼロを示し、柵が音もなく閉じた。

 茜の口が、閉じる直前に何かを言いかけた。

 聞き取れない。だが、形は「こえ」に似ていた。

 声。

 告白が鍵。

 声が扉を開ける。


 胸の奥に、冷たい鉤爪のような疑問が刺さる。

 外はない。

 なのに、外へ出されたことにする。

 それは“消失の演出”だ。

 「B館の『行方不明』は、ここで言う『外へ出た』と同義かもしれない」海老原が言う。「いずれにせよ、いないことが必要。いないことの証明は、いちばん編集が効く」

 「いないことを作るには、鏡が便利だ」星野が続けた。「鏡の前にいる時間を切り取り、時間をずらして上書きする。鏡は、現実の予備画面だ」

「予備の画面」遠野が呟く。「本体が消されても、映像だけ残る」

 木場はイライラした指でフィルターをもてあそび、「言葉の遊びはもういい」と吐いた。「誰を消したいんだよ。誰が」

 答えはまだ出ない。

 出せば、誰かが落ちる。

 落ちるのが自分でも、まだいい。

 落ちるのが“告白者”なら、最悪だ。


 A館の掲示板には、白い紙が貼られていた。

 〈次の被害者:告白者〉

 声が詰まる。

 誰かが言った。「告白って、何を?」

 紙の下に、鉛筆の押し痕。

 廉は角度を変え、非常灯の弱い光を斜めに滑らせた。

 薄い文字。

 〈扉を開ける声〉

 観察室で見た、赤インクの一文が脳裏で重なる。

 ──告白が鍵。声が扉を開ける。

 扉は、どれだ。

 何を、誰に、どれくらい、どうやって。

 答えを誤れば、扉の先に落ちるのは、誰だ。


 廉は深く息を吸った。

 吸う。吐く。

 壁の中の呼吸と、自分の呼吸は、今は合わない。

 合わないことが、救いだ。

 声は、武器になる。

 けれど、刃にもなる。

 刃を握る手が震えれば、刃は自分を切る。

 震えを止めるのは、数字と整頓と、目の前の人間の呼吸の数だけだ。


 夜はまだ深くなりきっていないのに、館の影は一段、濃くなった。

 廊下の奥で、ゆっくりと、児童用の椅子が一つ倒れる音がした。

 誰もいないはずの教室の中で、誰かが椅子の脚を撫でたような音。

 遠野が腰を浮かせ、しかし動かない。

 星野が眉を寄せ、「行く」とだけ言った。

 廉は頷き、人数を最小にする。星野、海老原、自分。

 木場は残る。鷺沼は窓。遠野はラウンジ。役割を割り振る。

 教室の扉を静かに開ける。

 黒板の前に、小さな椅子。床に並ぶ白い粉の粒。

 粉の一部は、機械の風で流れたように帯になり、黒板に向かって細い矢印を作っている。

 海老原が囁く。「粉、チョークじゃない。石膏でもない」

 星野が指先に乗せ、嗅ぐ。「鉛筆の粉に似てる」

 黒板の隅に、子どもの字で数字が一つ。

 0.47

 廉は目を閉じたくなる衝動を抑え、開いたまま息を吐いた。

 「……ここまで、混ぜるか」

 混ぜる。

 時間、声、粉、鏡。

 全部を混ぜて、“告白”に向かわせる。

 向かわせた先に、扉。

 扉は、どれだ。

 観察室の隠しスイッチか、掲示板の紙か、あるいは人の喉か。

 人の喉。

 その可能性を思った瞬間、冷たい汗が背中を走った。

 ──告白が鍵。声が扉を開ける。

 扉は、喉の奥にあるのかもしれない。

 声帯が触れ合い、空気が震える、その狭いところ。


 戻ると、鷺沼が窓から離れていた。

 「山が、近い」

 意味のわからない言葉なのに、妙に具体的な恐怖があった。

 「近い?」

 「呼吸の音が、さっきより、太い」

 壁の中のスピーカーは止まっている。だが、止まっている“ふり”をしているだけかもしれない。

 ふいに、スピーカーが低く笑った気がした。

 錯覚。

 けれど、耳は一度覚えたものを何度でも拾う。

 「観察は続きます」

 抑揚のない男の声。母音が最後だけ伸びる。

 海老原が小さく笑い、「その癖、助かる」と呟いた。「同一人物の証拠として、編集できない」


 ラウンジに戻ると、掲示板の紙がまた揺れた。

 風はない。

 揺れは、壁の向こうから来る。

 “扉を開ける声”。

 廉は、紙の角を指で押さえた。

 「声は武器だ。俺たちが発した音は、向こうで切られ、貼られ、曲げられる。なら、武器の使い方を変える」

 木場が顔を上げる。「どうやって」

 「“言葉の長さ”を奪う。三十秒の通信、最初の十秒、俺たちは時間だけを言う。『A館二十一時四十二分』『B館二十一時十二分』。そのあと十五秒は、数字。最後の五秒だけ、要点。編集で『意味』を切り出そうとすれば、切り口は荒れる。荒れた切り口は、観客にも見える」

 遠野が眉をひそめる。「観客に、見せるのか」

 「見せる。編集の皺を」

 星野は頷いた。「皺は、光を拾う」

 木場は舌打ちをして、笑った。「やってやろうじゃねえか。相手が刃物なら、こっちは砥石だ」


 深夜が、ようやく深夜らしくなった。

 非常灯が一段落ち、闇が二段濃くなる。

 廉は机に紙を広げ、短い言葉で、明日の“声”の順番を書いた。

 数字、基準、差、報。

 喉の筋肉の動きまで想像して、声の高さを少し落とす。

 母音を短くする。

 子音に重心を置く。

 自分の声を自分で設計する行為は、奇妙に落ち着く作業だった。

 声は、ただの空気ではない。

 声は、刃にも、鍵にも、鎖にもなる。

 何にするかを決めるのは、自分だ。

 決めたつもりでも、向こうが変える。

 変えられても、なお残るものを選ぶ。


 そのときだった。

 壁の中から、また声。

 今度は、さっきとは違う文。

 「扉を、開けて」

 女の声。

 若い。

 泣いていない。

 泣く前の声。

 誰かが息を呑む音が重なった。

 鷺沼が窓から離れ、「彼女だ」と言った。

 誰のことか、誰も訊かなかった。

 訊けば、誰かの名前が口からこぼれ、名前は刃になる。

 刃は、すぐに誰かの喉に入っていく。


 廉は立ち上がり、壁の前に立った。

 「扉は、どこだ」

 壁は答えない。

 声は繰り返されない。

 繰り返されない声のほうが、長く残る。

 残る声は、眠りを食う。

 眠りが食われると、人は考え続ける。

 考え続ける人は、いつか答えを言い間違える。

 言い間違えた答えは、扉を開ける。

 扉の先は、落ちている。

 落ちる先の底は、まだ見えない。


 掲示板の紙に、薄い影がさっと走った。

 誰かが触れたわけではない。

 薄い影は、壁の中のコードが震えた時にできる。

 震えは、すぐ止まった。

 止まったあとの静けさは、音より濃い。

 木場が立ち上がり、短く言った。

 「寝ろ。交代で見張る。壁は俺と鷺沼。ラウンジは海老原。廊下は遠野。廉と星野は、明日の三十秒までに“声”を磨け」

 命令ではない。

 だが、皆が素直に頷いた。

 疑いと恐怖と、目的の三つが、やっと均衡したのだ。

 均衡は、崩れやすい。

 崩すのは、いつも声だ。

 だから、今は黙る。

 黙ることが、最初の協力だ。


 床に体を横たえ、廉は目を閉じた。

 閉じた瞼の裏に、数字が並ぶ。

 21:12、21:30、21:42。

 AとBの差。

 0.47。

 告白。

 声。

 扉。

 扉の向こうの顔は、また見えない。

 見えない顔は、よく笑う。

 笑いは、音にしない。

 音にしない笑いほど、長持ちする。

 長持ちするものに、言葉は勝てない。

 勝てないなら、ずらす。

 ずれを作る。

 ずれの縁に、光を通す。

 光が通れば、皺が見える。

 皺が見えれば、編集が見える。

 編集が見えれば、手癖が見える。

 手癖が見えれば、手首が見える。

 手首が見えれば──いつか、手が掴める。


 眠りは浅く、短く、切れ切れだった。

 その切れ目ごとに、壁の中の声が、微かな熱で滲み出し、耳の裏へ貼りついた。

 「まだ、生きている」

 「扉を、開けて」

 貼りついた声は、朝になっても剥がれないだろう。

 それでいい。

 剥がれないものだけを、鍵にできる。

 鍵穴が喉の奥にあるなら、鍵は言葉だ。

 言葉の歯を揃え、ねじを締め、ゆっくり差し込む。

 明日の三十秒、最初の十秒は、数字。

 次の十五秒は、差。

 最後の五秒だけ、刃。

 刃は、相手の編集に向けて投げる。

 刺されば血が出る。

 血が出れば、匂いがする。

 匂いに、獣が寄る。

 寄った獣の足音を、俺たちが観察する。

 観察の矢印を、ひっくり返す。

 壁の中の声を、壁の外へ連れ出す。

 それが、今できる、いちばん小さな反撃だ。


 その夜の終わり、非常灯が一瞬だけ強く光り、すぐに暗さへ戻った。

 光は、合図にもなり、誤報にもなる。

 どちらにするかは、明日の声が決める。

 廉は掌を握り、開いた。

 指は五本。

 廊下の突き当たりの壁の手形は、四本のままだった。

 欠けた一本は、誰の喉に残る。

 明日が来れば、わかる。

 わからなくても、扉は開ける。

 声で。

 そして、その扉の名を、やっと自分の口で呼ぶ。

 呼んだ瞬間、壁の向こうの笑いが、少しだけ形を失うことを願いながら。

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