第3話 1-3:鋼鉄の理想(アイアン・イデアル)
アキラが作業に没頭して数時間。オフィスの空気が、水面にインクを垂らしたように一瞬で張り詰めた。それまでオフィスを満たしていたARインターフェイスの操作音、微かな空調の駆動音、そしてハルが立てる(とアキラが認識している)余計なタイピング音、それらすべてが、一瞬にして遠のいた。
自動ドアが、警告音すら発さずに滑らかに開いた。まるで、彼が来ることを知っていたかのように。
一人の男が入室してきた。
黒で統一された制服。それは「ジェネシス・コア」の白とは対極にある、光すら吸収するような深淵な黒。長身痩躯。磨き上げられた義手は、白金の輝きを放ち、人間のそれとは比較にならない精密な動きを予感させる。そして、一切の感情を映さないサイバネティック・アイ。そのレンズの奥には、赤いセンサーライトが微かに点滅している。
エデン保安局局長、ヴェクター。
オフィス内のすべての雑談が消え失せ、タイピングの音だけが響く。誰もが、自分のコンソールに意識を集中させているフリをしている。ヴェクターは、アキラたちプログラマーとは違う、絶対的な「秩序の執行者」としての威圧感を放っていた。
アキラは、この男を深く、そして純粋に尊敬していた。
その理由は、単に彼が保安局のトップだからではない。アキラにとってヴェクターは、彼が信奉する「理想」の体現者だったからだ。
アキラがまだジェネシス・コアの新人プログラマーだった頃、彼はシステム深層に、都市のエネルギー循環に関わる致命的な論理的欠陥(バグ)を発見した。それは非常に稀な条件下でしか発現しないが、一度起これば連鎖的にインフラを麻痺させる可能性を秘めていた。
彼がその報告を当時の上司——感情的で保身的な男だった——に上げた時、上司はそれを「机上の空論だ」「修正コストの方がリスクより高い」と一蹴した。自らの管理責任を問われることを恐れた、非論理的な「恐怖」による判断だった。
アキラが食い下がろうとしたその会議室に、偶然ヴェクターが居合わせた。彼は当時まだ局長ではなかったが、保安局の幹部としてオブザーバー参加していた。
ヴェクターは、アキラの上司の感情的な弁明を無言で聞いていたが、やがて静かに口を開いた。
「そのバグが発現する確率は?」
アキラが即座に「0.043%です。しかし、一度発現した場合の被害総額は……」と答えようとすると、ヴェクターはそれを遮った。
「確率の問題ではない。論理的な欠陥が存在するという事実が問題だ。0.043%のリスクは、ゼロではない」
彼は上司に向き直った。
「お前の判断は、恐怖(リスク回避)という感情(バグ)に汚染されている。この新人の指摘は論理的に正しい。直ちにシステムを一部凍結し、修正シークエンスに移行する。決定だ」
その場は凍り付いた。だが、ヴェクターのサイバネティック・アイはG躇(ためら)いも動揺も映さず、ただ「正しい論理」が実行されることだけを求めていた。
あの一件以来、アキラはヴェクターを「理想の上司」として、いや、それ以上に「完璧な人間像」として深く尊敬するようになった。
ヴェクターは、アキラが知る限り「レベル1電脳化」しか施していない。
ピットの混沌(カオス)から這い上がり、感情の非合理性を誰よりも憎悪するアキラにとって、ヴェクターの姿は眩しいほどの「答え」だった。
レベル1の生身の脳のまま、自らの鋼鉄の意志だけで、人間が本来持つ「感情(バグ)」——恐怖、躊躇(ちゅうちょ)、同情、保身——それら一切を制御し、常にマザーの冷徹な論理だけを実行する。
彼こそは、生身でありながら機械の論理を超越し、アキラが目指す「完璧な人間」そのものだった。
そのヴェクターが、今、他の誰でもない自分(アキラ)のデスクへと真っ直ぐに歩み寄ってくる。
その機械的な歩行音——義体化された脚部が、床を規則正しく打つ硬質な音——だけが、オフィスに響く。
「アキラ」
抑揚のない声が、彼の名を呼んだ。彼の声は、マザーの合成音声とはまた違う、奇妙なフラットさを持っていた。まるで、生身の声帯を、完璧なシンセサイザーのように制御しているかのようだ。
「はい、ヴェクター局長」
アキラは即座に起立し、直立不動の姿勢をとった。緊張と、それ以上の高揚感が彼の背筋を伸ばす。理想の人物が、今、自分だけを見ている。
「アップデートVer.7.0。最終調整のフェーズに入ったな」
「はっ。現在、最終デバッグと最適化作業を……」
「それを、最優先で完了させろ」
ヴェクターの言葉は命令だった。
「マザーの論理は絶対だ。今回のアップデートは、エデンのエネルギー効率を次のステージへ移行させるための最重要基幹。寸分の狂いも、遅延も許されない」
「承知しております。必ずや、完璧な状態で実装します」
「期待している」
ヴェクターのサイバネティック・アイが、アキラを冷たくスキャンした。その視線は、アキラの能力と忠誠心を値踏みしているようだった。アキラは、その赤い光が自らの網膜を通り抜け、脳内のインターフェイスを直接スキャンしているかのような錯覚さえ覚えた。
ヴェクターはそれだけ言うと、音もなく踵を返し、オフィスを去っていった。
彼が去ると、オフィスは数秒の沈黙の後、再びゆっくりと元の喧騒を取り戻し始めた。ハルが、安堵のため息をつくのが聞こえたが、アキラはそれを無視した。
アキラは、高揚する心を抑えながら席に戻った。
(ヴェクター局長直々の命令だ。完璧にやり遂げねば)
(期待している)
その言葉が、アキラの脳内で反響する。それは、ピット出身という「染み」を抱える彼にとって、自らの存在価値が、理想とする「完璧な論理」によって承認された瞬間だった。
彼は改めて、窓の外に広がるエデンの景観と、その下に広がる「ピット」を覆う汚染雲を見下ろした。
今回のアップデートが、エデンのエネルギー効率化、つまり「秩序の維持」に不可欠なものであることは理解している。
ピットは、エデンが排出する廃棄物の処理場であり、同時に、エデンが必要とする何らかの「リソース」の供給源でもあるのだろう。アキラは、その「リソース」の具体的な中身を知ろうとは思わなかった。それは彼の管轄外であり、知る必要のない情報(ノイズ)だ。
彼にとって、眼下のピットは、その秩序維持に必要な「廃棄物処理場(コスト)」でしかなかった。エデンが繁栄するために必要な、論理的な「必要悪」。そこに人間が生きているという実感も、関心も、彼には一切なかった。
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