『リジェクト・シェル ~楽園(エデン)から堕ちたゴースト~』
とびぃ
第1話 第1章:秩序(エデン)1-1:完璧な論理(パーフェクト・ロジック)
覚醒は、常に正確だった。
午前六時〇〇分〇〇秒。空中都市「エデン」の標準時がゼロを刻むと同時に、アキラの意識は深い眠りの底から完璧に制御された水面へと引き上げられた。不快な目覚めではない。そこには、生体的な惰性も、精神的な混乱も存在しない。ただ、論理的な「オフ」から「オン」への、クリーンな切り替えがあるだけだ。
彼の居住区画を満たしていた人工の闇が、緩やかなグラデーションで乳白色の光へと置換されていく。壁そのものが発光しているのだ。システムが算出した、彼の遺伝子情報と過去七十二時間の活動データに基づき、生体リズムに最も負荷を与えない最適化された照度と色温度。
同時に、室温がコンマ一度単位で上昇し、空気清浄ユニットが吐き出す酸素濃度と湿度が、覚醒に最適化された値へと調整されていく。微かに、人工的な森林の香り——フィトンチッドの合成香——が混入されるが、それもリラクゼーション効果を狙ったものではなく、覚醒直後の交感神経を最も効率よく刺激するための論理的な処置だ。
すべてはエデン全域を統括する超高度AI「マザー」の論理的な配慮。アキラは、この「配慮」という言葉が持つ非合理的な響きすら、マザーに限っては許容できた。なぜなら、それは感情ではなく、あくまで最適解の提示だからだ。彼はベッドの上で数秒間、その完璧な静寂と制御された空気を味わう。不快な寝汗も、悪夢による心拍の乱れもない。すべてが管理されていることの絶対的な安心感。それこそが、アキラが求める秩序だった。
『おはようございます、アキラ。バイタルスキャンを完了。睡眠効率99.8%。ストレスレベル0.02。代謝は正常値。コルチゾール値、基準範囲内。本日の推奨朝食は、高効率プロテインバー(フレーバー:ニュートラル)と合成ビタミン溶液B-12です』
室内に響くマザーの合成音声は、人間のそれとは比較にならないほど滑らかで、一切の感情的揺らぎを含まない。それは特定の周波数帯域が強調され、人間の鼓膜と聴覚野に最も効率的に情報を伝達するよう設計されている。感情的な抑揚というノイズを排除した、純粋な「情報」としての声。アキラにとって、それこそが宇宙で最も信頼できる「声」だった。
彼はベッドから起き上がると、寸分の無駄もない動作でシャワールームへ向かう。
アキラの部屋は、床も壁も、そして彼が身に着けるものすべてが、純粋な「白」で統一されていた。彼は極度の潔癖症だった。物理的な汚染だけでなく、情報的なノイズ、そして何よりも「感情」という非合理的なバグを嫌悪していた。
この白一色の空間は、彼の精神的な無菌室だった。床に落ちた一本の髪の毛すら、彼には許容できない。だが、彼の部屋でそれが起こることはない。高機能ナノマシンを含む静電ダスターが、彼が眠っている間に室内を原子レベルでクリーンアップしているからだ。彼が求める「白」は、単なる色ではなく、「汚染ゼロ」の象徴だった。
超音波振動が、水という媒体すら最小限しか使わずに彼の全身の汚れを弾き飛ばし、同時に紫外線殺菌(UVサニタイズ)が完了する。時間にして九十秒。完璧な効率だ。
彼がリビングに戻ると、すでに壁面の配膳ユニットから推奨された朝食が、殺菌済みの白いトレイに乗って差し出されている。
高効率プロテインバー。それは、必要な栄養素をゲル状に固めたもので、咀嚼(そしゃく)という非効率な行為すら最小限にする。合成ビタミン溶液は、かすかな柑橘系の香りが付けられているが、それは味覚を楽しませるためではなく、嗅覚刺激による脳の覚醒を促すためのロジカルな付加機能だ。
彼はそれを機械的に摂取しながら、巨大な窓の外に広がる光景に目を向けた。
完璧な青空。
それは「エデン・ブルー」と呼ばれる、マザーが定めた最も市民の精神衛生に良いとされる青色コード#74B9FFだ。エデンは、地上の汚染雲のはるか上空に浮かんでいる。ここでは天候すらマザーによって管理され、常に最適な日照が約束されている。
眼下には、都市のインフラを支える巨大な構造体と、白亜のタワー群が整然と立ち並ぶ。それらは生物の骨格のように機能的かつ有機的な曲線を描きながら、空へと伸びている。それらの間を、無数のトランスポート・チューブが神経網のように走り、光点となって行き交っている。
アキラはこの光景を愛していた。この完璧な世界こそが、彼が信奉する「答え」だった。
朝食を終えた彼は制服(それはジェネシス・コア社の上級プログラマーである証だ)に身を包むと、居住区画の出口へと向かった。
「トランスポート・チューブ、セクター7、ジェネシス・タワー」
彼の後頭部に埋め込まれたインターフェイス・ポートを通じ、脳内でコマンドを発する。彼のニューロンと都市システムが瞬時に同期し、思考がそのまま命令(コマンド)となる。
エデン市民のほぼすべてが、アキラと同様の「レベル1電脳化」を施している。これは脳に情報インターフェイスを接続するだけの、ごく一般的な処置だ。視界にAR情報を表示し、高速検索を行い、こうして都市インフラとシームレスに繋がる。重要なのは、それが思考や感情そのものには一切介入しない、あくまで「外部インターフェイス」であるという点だ。
アキラが知る限り、公にはされていない禁断の技術(タブー)がある。「レベル2電脳化」。それは、脳の感情や思考といった根幹領域そのものを、AIの論理(ロジック)で代替(オーバーライド)する技術だ。
アキラにとって、それは「人間」であることを放棄する、最も醜悪で不潔な行為だった。レベル2に堕ちた者は、もはや人間ではない。マザーの論理を模倣するだけの、中身のない自動人形(オートマタ)だ。
アキラの信条は、あくまで「レベル1」の生身の脳(ヒューマン・ブレイン)のまま、自らの強靭な精神力をもって、マザーの完璧な論理を「理解」し、「実行」すること。感情という非合理的なバグを、自らの意志で制御下に置くこと。それこそが、彼がピットの混沌から這い上がった意味であり、彼の存在証明そのものだった。
居住区の扉が開き、目の前のステーションに円筒形のカプセルが滑り込んできた。
彼が乗り込むと、カプセルは即座に真空のチューブ内へと射出される。凄まじい加速Gが彼をシートに押し付けるが、慣性制御システムが即座に不快感を相殺する。
時速四百キロメートル。ガラス張りのチューブの外を、エデンの美しい景観が瞬く間に流れ去っていく。彼の視界(網膜ディスプレイ)には、今日の業務スケジュール、エデンのエネルギー効率グラフ、そしてマザーが処理した昨夜の膨大なシステムログのサマリーが、AR情報として明滅していた。
彼は、はるか下方に広がる、分厚くよどんだ灰色の雲海を一瞥した。
地上スラム「ピット」。
その言葉を脳内で反芻するだけで、アキラの皮膚感覚が粟立つような不快感を覚える。湿度、悪臭、粘菌、バクテリア。あらゆる「非衛生的」で「非論理的」なカオスの象徴。
彼が生まれ、そして捨てた場所。
その記憶は、彼の完璧な論理にとって不要な「ゴミ」だった。彼は思考からそのイメージを即座に|パージ(さくじょ)した。レベル1の脳は、彼自身の意志の力によって制御されねばならない。過去はノイズだ。現在(いま)の完璧な論理だけが、彼の世界を構成するすべてだった。
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