終業後、デスクの向こうであなたを見ていました。 ― ウォーターフロント・クリエイティブパークにて ―
青葉 柊
第1話 Slackの未読と残業の灯り
湾岸の倉庫街は、夜になると潮の匂いが濃くなる。
昼間に行き交っていたトラックも姿を消し、街はまるで息をひそめたようだった。
アスフィア・クリエイトの二階だけが、蛍光灯の明かりをぽつりと落としている。
佐藤悠は、その光の下で最後の原稿を見直していた。
クライアントからの修正依頼は「もう少し柔らかく」。
しかし、どの言葉を使えば柔らかくなるのか、自分でもわからなかった。
マウスを持つ手が止まる。Slackの未読バッジがひとつだけ光っている。
――「これ、明日までに確認お願いできますか?」
送り主は、水野紗希だった。
営業アシスタントの彼女は、明るいが、決して馴れ馴れしくはない。
自分が提案書を送ると、いつも「ありがとうございます」ときっちり返してくる。
その丁寧さが、かえって印象に残る。
(今、彼女も残っているのか…)
時計は22時を回っていた。
社内は、コピー機の低い駆動音だけが響く。
ガラス越しに見える彼女の背中が、ディスプレイの光で淡く縁取られていた。
――カタカタ…
キーボードの音が止まり、椅子がきしむ。
次の瞬間、Slackに新しい通知が届いた。
> 「遅くまでお疲れさまです。
佐藤さん、無理なさらないでくださいね。」
短いメッセージ。
だが、その言葉が、胸の奥にそっと染みていく。
(……どうしてだろう。たったこれだけの言葉で、息が少し楽になる。)
返信を打とうとして、指が止まる。
何を返せばいいのか分からない。
「ありがとう」では距離が近すぎる気がして、
「了解です」では、あまりに味気ない。
結局、絵文字ひとつだけを送信した。
手のひらサイズのスマホの画面に、丸い笑顔のスタンプが浮かぶ。
その瞬間、オフィスの蛍光灯がひとつ、ふっと消えた。
老朽化した照明の気まぐれ。
暗くなった隙間に、彼女のディスプレイの光だけがぽつりと残った。
悠は、静かに息を吐いた。
デスク越しの距離――わずか数メートル。
それでも、触れられない場所がある。
夜の倉庫街に、潮風がかすかに吹き込む。
遠くで電車の高架が鳴り、また静寂が戻ってきた。
未読のバッジは消えている。
そして、画面の向こうには、誰かの優しさが確かにあった。
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