ヒストリー・キーパーズ2 ―アットホームな職場です!―
姉森 寧
H・Kへようこそ!
「時間」とは、過去から未来へ向かって進むものである。ほんの一瞬の現在が過去となる事を繰り返し、それが積み重なったものが未来となる。――それが人類の共通認識だ。
九月八日、月曜日、
「おはようございます」
重大発表をかます前に、まずは穏やかに挨拶した有利に、
「おはよう。小松くんがレンジを掃除してくれたお陰で、グリーンカレーの臭いがしなくなったって旦那が喜んでたの。本当に助かったわ。ありがとう」
経理部長であるところの社長の妻は、先週の木曜日の昼休みに自身が冷凍食品のグリーンカレーをレンジアップした際の臭いがすっかり消えているこの狭い事務所について、満面の笑みでお礼を言った。
(言いづらいぞ。これは言いづらい)
かまさなくてはいけないのに、五十代なのに少女のような笑顔を向ける上司に怯み、
「いえ、そんな大袈裟な事じゃないですよ。でも、これからも定期的に電解水と重曹を使って掃除しましょうね」
とりあえずは当たり障りのない感じの微笑みを向ける事しかできなかった。
しかし、有利はかまさないといけない。自分のデスクの側面に取り付けたフックに立ったままカバンを掛けると、その足で向かいの社長の妻の所まで行き、
「あの、まり
意を決して、とうとう切り出す事にした。
その日の退社後、有利は赤坂のそれなりに立派なビルの一室にいた。
「泣かれました。女の人に泣かれたのは生まれて初めてです。家族以外では」
重大発表をかました結果を報告しなければならないからだ。
ここは株式会社ヒュージ・ナレッジ・ジャパンというコンサルティング会社の東京本社ビルだ。アメリカに本社があるヒュージ・ナレッジの日本法人なのだが、今いる総務部は総務部であって本当の総務部ではなく、総務部らしい仕事はほぼ別の部署が分担して
「ウケるぅ。でも、小松さんが実はヒストリー・キーパーズのエージェントになるって知ったら、もっと泣いちゃうんだろうなぁ」
総務課長の
「時間は進むもの」ではあるが、実はこれは正確ではない。確かに、基本的にはそうではあるのだが、稀に異なる現象が起こる事もある。つまり、時間は「ただ進むもの、進み続けるもの」ではなく、何と、「たまに戻り、そこから再開する事がある」のだ。
その時間の歪み、「ディストーション」を観測し、その発生を確認すると、解消のために対応する組織がある。それが「ヒストリー・キーパーズ」、「歴史の番人」だ。
ヒストリー・キーパーズの本部はアメリカにあり、各支部が世界各国に点在している。更に、各国の各地域にも拠点があるのだが、「ここがヒストリー・キーパーズの東京支部だよ」と看板を掲げる訳にもいかない。何故なら、人類の大多数がディストーションを認識できないからだ。「実は巻き戻ってるんですよー」と明かしてしまえば、世界中で大混乱が起き、最終的に世界は崩壊するだろう。その過程の説明を端折ったので大袈裟に聞こえるかもしれないが、とにかくそうなのだ。だから、各拠点は他の団体に偽装し、機密を厳守しつつ活動している。
二〇〇〇年代に入ると、アメリカ本部がヒュージ・ナレッジという表向きの法人を新たに設立し、その系列会社を世界の主要都市に配置した。ここ日本の関東地方でも、それまでは弁護士事務所と探偵事務所と電気工事店に分かれていた拠点が統合され、ヒュージ・ナレッジ・ジャパン東京本社の総務部が「関東支部」となったのだ。ちなみに、その時に所属していた人たちは今はリタイアし、元の弁護士事務所と探偵事務所と電気工事店へ戻って普通の暮らしをしているが、たまに手伝ってくれる事もある。
さて、そんな謎の組織に所属する人員には、大まかに二種類の役割が与えられている。「エージェント」と「サポーター」だ。
ごく少数ながらも、ディストーションを感じる事ができる人々がいる。その能力は「センスアビリティ」、そのまま「感じる能力」であるのだが、ヒストリー・キーパーズ内ではそう呼ばれている。社内用語みたいなものだ。実際に現場に赴いてディストーションを解消するのは、ヒストリー・キーパーズに所属するセンスアビリティを持つ人たちで、彼らは「エージェント」と呼ばれる。
一方で、エージェントやその他の管理などの補助的な仕事を担当する人員が「サポーター」だ。センスアビリティはなくても、大抵は何らかの技術に秀でている人をあちこちから引っ張ってくるのだが、地方には普通の事務員のおばさんもいるし、海外には油絵を描きながら経理処理をしている人もいるらしい。機密を厳守できて、なおかつ世界の役に立ちたいという意欲のある人なら、誰であっても、どんな人でも問題ないのだ。ただ、そんな人はなかなかいないので、世界中のどこの拠点も「サポーター、欲しい! どこに生えてるの!?」とばかりに探しまくっている。
有利はセンスアビリティを持っているが、つい先週まではその存在をヒストリー・キーパーズに認知されていない「野良」だった。しかし、何やかんやあり、結局はヒストリー・キーパーズにスカウトされ、先週の金曜日、事務所のレンジを掃除してから採用試験を受けたのだ。その結果、
(あんな適当過ぎる試験をピザ食べながら適当に採点されて、それで「優秀だね!」って言われても、イマイチ信用できない)
有利には不安しかないのだが、しっかり採用された。という訳で、現在勤務している会社の方を退職し、ヒュージ・ナレッジの総務課の事務員という皮を被ったヒストリー・キーパーズ関東支部のエージェントになる事が決定している。
今日会社でかました重大発表とは、「転職します」だ。
「ガチ泣きですよ。『今月は決算月なのに、小松くんがいないとどうしていいか分からない! 私だけじゃ月末までに終わらない!』って」
有利が生まれて初めて女性に泣かれた理由はそれだった。
「えー、今すぐ来て欲しいのにー」
津幡はちょっとむくれたが、
「じゃあ、九月末までは十月に消える分九日分とプラス一日分の有休を消化しつつ今の会社で頑張ってクソババアの相手して、十月は繰り越し可能な残りの十日分と今年度支給分の十二日分全部使って全休にして、末日で退職。その後、十一月からこっちに入社かな? 別に、『採用条件を入社直前に変更するのは違法なんですよー。訴えてもいいんですよー』って脅してもいいけど、ややこしいからね」
むくれつつ、不穏な事を付け加えつつも、大分譲歩した。
「いや、確かに建築士として採用されたのを直前に変更されましたけど、俺はあの時それに同意しましたから、ギリ違法じゃないはずです」
有利はそのうちの不穏な事の方についてフォローを入れたが、
「そんなの、『家庭環境最悪でなる早で実家を出たかったから、仕方なく条件を飲んだんです』って涙ながらに訴えたら勝てるよ」
津幡の方は不穏さが継続中だ。
それに有利が苦笑していると、
「だからさ、小松さんはそういうアダルトチルドレン特有の思考を直していかないと駄目なんだって。結局、あのクソババアもクソババアの夫も、小松さんの事を便利に使ってるだけじゃない。僕はこの週末に、気軽な気持ちで盗聴犯から盗んだデータで事務所内の音声をいくつか確認したけど、結構気軽じゃなかったよ」
更に不穏な事が追加されたが、内容は有利の事を慮っているものだった。
(あの時は俺に気を遣って同調したり褒めたりしてたんだろうけど、それが終わってからもこうやって気遣ってくれる。津幡さんって優しい人なんだな)
有利はそこに感動したが、
(……でも、事務処理担当が喉から手が出る程欲しいからってのもあるんだろうな)
次には、その感動は少し薄まった。
「事務所のコンセントのあのやばいブツ、あれを取り付けて悪い事をしてる悪い人がいて、津幡さんは更にその人からデータを盗んだんですか? それは凄いですね。でも、悪い人が誰なのかは聞かない事にします」
でも、有利はにっこりだ。
「俺が辞めてからもあそこがずっと盗聴され続けるのは、いい気味ですからね」
これまでの色々を乗り越えて、汚泥の沼から這い上がると決めたからだ。
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